仮面の女
歓声が悲鳴へと塗り替えられ、きらびやかだったマジックショーの舞台は、一瞬にして凄惨な惨劇の場へと変貌した。
鼻を突く火薬の匂いと、冷たく漂い始めた鉄錆のような血の香り。
まるで推理小説の一節が現実の肉を持って立ち上がったような光景に、俺は不謹慎にも武者震いを禁じ得なかった。
「……怖いのかい?」
隣に立つ青柳さんが、俺のわずかな震えを見透かすように、静かな声で問いかけてきた。
「怖くなんてないよ。むしろ……」
俺が青柳さんの目を真っ直ぐに見つめて言い返すと、彼は満足げに口角をわずかに上げた。
流石は優秀な警部――
その瞳は、眼下の死体を見つめながらも、どこか遠くの獲物を追っているようにも見えた。
「さて、現場に行ってみようか。……お望みの『非日常』の入り口だよ、颯介」
青柳さんはそう言うと、近くにいたスタッフに警察手帳を見せに行った。
俺は少し離れたところから様子を見ていたが、スタッフの焦りと恐怖が伝わってきた。
「警察の方ですか!?一体、何が起こったのでしょうか?私たちはどうしたら……」
「大丈夫。あとは任せてください。応援も呼んだので、スタッフルームで待機していてください」
青柳さんはスタッフに伝えると、俺に合図を送った。
青柳さんについてステージへ上がると、ドラマのセットではない、本物の遺体がそこにあった。
つい数分前まで華やかなパフォーマンスを見せていた男が、どす黒い海の中で物言わぬ肉塊と化している。
そのコントラストに眩暈がしそうだ。
遠くから、夜を切り裂くパトカーのサイレンが近づいてくるのが聞こえる。
青柳さんが呼んだ警察が、到着したようだ。
人間、いつ、どこで命を落とすかなんて、神様ですら把握していないのかもしれない。
そんな感傷に浸りかけた瞬間、劇場の空気を震わせるような怒声が響き渡った。
「なんだこのガキは!?ここは神聖な現場だ、一般人は立ち入り禁止だぞッ!!」
大柄な男が、ぎょろりと大きな目を見開き、俺を射貫くように睨みつけてきた。
「おっと、溝端君か。問題ない問題ない。僕がちゃんと、許可取ってるからさ。」
「あ、青柳警部ッ!!一体、どうしてこんなところに……」
溝端と呼ばれた刑事は、鼻息荒く俺から視線を外すと、恭しく青柳さんに向き直った。
「溝端君、この子は今日、僕と一緒にこのマジックショーを見ていたんだ。今回の事件の目撃者の一人でもある。」
「青柳警部がそう仰るなら、仕方がありませんが……。フンッ、邪魔だけはするなよ!」
青柳さんに敬礼すると、溝端刑事は遺体の方へ向かっていった。
その変わり身の早さは、もはや一種の才能だ。
「なあ、青柳さん……俺、あのゴリラみたいな人に何か恨まれるようなことしたっけ?」
「ああ、気にしないでいいよ。彼は、僕の『特別』が自分以外に向くのが耐えられないだけなんだ。なんだか、可愛いだろう?」
青柳さんはいつもの涼しげな笑顔でさらりと言ってのける。
溝端刑事は、青柳さんの部下で、腕は確かだが、その崇拝心ゆえに少々扱いが面倒な人らしい。
「さて、そろそろ話を聞こうか。……溝端君、現状について報告を。」
溝端刑事は青柳さんの声にすかさず反応すると、瞬く間に駆け寄ってきた。
「ハッ!被害者はマジシャンの後藤慎二、四十八歳!右側頭部に接射による銃創があります!マジックで使用されたハンドガンを調べましたが、あろうことか本物の実銃でした!安全装置は最初から解除されており、本人による暴発、あるいは自殺の線が濃厚です。なお、念のためスタッフ全員の硝煙反応を確認中ですが、今のところシロです!」
溝端刑事は、これ見よがしに胸を張り、青柳さんの隣にぴったりと並んで俺に見せつけるように言い放った。
「いいか小僧!青柳さんのパーソナルスペースに入れるのは、選ばれし者であるこの俺だけなんだよ!!」
ちなみに俺は、売られた喧嘩はちゃんと買うタイプだ。
「へぇ……。でも、今日こうして隣に並んでショーを楽しんでたのは俺なんだけど。もしかして溝端k刑事、誘われなかったの?」
「こ、こんのっ……この不届きなクソガキがぁッ!!」
「まあまあ、二人とも。それくらいにして、知恵を出し合おうじゃないか」
青柳さんは、微笑みながら静かに言った。
俺は、実際に見た、マジックショーのクライマックスの光景を脳内でスロー再生した。
舞台袖から、ハンドガンを運んできたのはアシスタントの女性。
女性はハンドガンを乗せたトレーを、客席にも見えるように掲げていた。
運ばれてきたハンドガンを手に取ったマジシャンは、明らかに様子がおかしく、手が震えているようにも見えた気がする。
このパフォーマンスは、このショー最大の目玉であり、今回が初めてというわけではないはずだ。
「……俺は、溝端刑事の言う『暴発』や『自殺』じゃ、説明がつかないと思う」
「ああん!?現場のプロたる俺の意見に異を唱えるってのか!」
「プロなら、もっと細部を見たらどう?……青柳さん、いくつか確認させて。舞台袖のスタッフや、小道具の管理について知りたいんだ」
「許可しよう。溝端君、案内してあげなさい」
「……ちっ、来いよ!案内してやるから服の裾でも掴んでろ!」
溝端刑事はぶつぶつと文句を垂れながらも、俺を舞台裏のスタッフルームへと案内した。
そこにはパニックに陥ったスタッフたちが、青ざめた顔で固まっていた。
俺は無線機を握りしめたまま震えている現場監督に歩み寄った。
「ねえ、監督さん。今回のショー、スタッフはいつも固定のメンバーなの?」
「……え? ああ、いや……。実は、今日の講演は急遽決まったものだったから、設営や舞台裏の雑用は、全員日雇いの派遣スタッフだよ」
「……ってことは、今日いるスタッフはほぼみんな初対面ってこと?」
「ああ、その通りだよ。公演前に集まって、数回リハーサルをしたくらいで、全員の顔は把握できていない」
日雇いスタッフばかりの中で、あんなに迫力あるショーができるのは、さすがは超一流マジシャンだなと俺は思った。
「なるほどね……。それじゃ、マジックで本来使用されるはずだった『偽物の銃』はどう管理してた?」
俺の問いに、近くにいた小道具係の男性が答えた。
「舞台袖の鍵付きケースです。非常口のすぐそばにあって、出番の十分前までは開けないように言われていたのですが……。実は、出番の1時間前にスタッフのジャンパーを着た人が『最終チェック』だと言って、銃を一度持ち出したんです。でも、その人は白い仮面をつけていて、顔は見えませんでした」
「なにそれ、ちょー怪しいじゃん!その白い仮面をつけた人だけど、男か女かってわかる?」
「顔が見えなかったのでなんともですが……線が細かったので、恐らく女性じゃないかと……」
「なるほど、白い仮面をつけた女――か」
「おい小僧、さっきから黙って聞いてりゃ……」
溝端刑事が疑わしげな目で俺を睨む。
「溝端刑事こそ、その白い仮面の女がどこへ消えたか、ちゃんと確認しなくていいの?」
「お、俺に指図するなッ!」
溝端刑事は怒鳴りながらも、慌てて部下たちに指示を出し始めた。
俺は、一度青柳さんのもとへ戻り、自分の考えを整理してぶつけてみることにした。
「青柳さん、これ、完全に他殺だよ」
「なるほど。では、暴発による事故は?」
「小道具係の男性の証言で、出番の1時間前に『仮面の女』が一度、銃を持ち出したことがわかった。そのときに本物の銃とすり替えたんだ。自殺の線も消えるはずだよ。それに、急遽決まった公演だったと聞いたし、自ら実銃を持ち込んで、観客の前で頭をぶち抜く理由もない」
「……他殺とも、まだ言い切れないぞ?」
戻ってきた溝端刑事が眉をひそめる。
「いや、俺には見えたんだ。マジシャンが……後藤さんが、一瞬躊躇ったのが。これまでずっと使ってきた銃ではないことに後藤さんは多分、気づいたんだと思う。……殺意を持って実銃を仕込んだ誰かが、マジシャン自身の指で、引き金を引かせたんだ」
「気づいてたんだったら、後藤さんは何故引き金を引いたのか。お前はそれを説明できるか?」
「うーん、今は確証はない。もう一人、話を聞きたい人がいるんだ。」
そして俺は、会場の隅で泣き崩れているアシスタントの女性のもとへ歩み寄った。
彼女は、実銃をトレイに乗せてマジシャンに運んだ張本人だ。
「私じゃない!信じて……私はただ、渡されたものを運んだだけなの!」
アシスタントの女性が絶叫に近い声で言った。
俺は努めて穏やかな声で尋ねた。
「わかってるよ。……渡された直前のこと、詳しく教えて。『仮面の女』から受け取ったんだよね?」
「……そう、そうよ! 彼女、スタッフのジャンパーを着ていて……『安全装置が壊れていたから、直しておいたわ』って。トレイに銃を置いたの。私は、その……マジックの仕掛けの一部だと思って……」
「ちなみにだけど、セーフティーの意味は知ってる?」
「え?……知らないわ。ただ、火薬の出るタイミングを調整するスイッチか何かだと……」
俺は確信した。
この人は利用されただけだ。
犯人は、銃の知識がない彼女を利用し、『殺しの道具』をマジシャンへ届けさせた。
「あなたも、日雇いのスタッフだったの?」
「ええ、そうよ」
「じゃあ、この舞台の主役……後藤さんのことは知ってた?」
「有名なマジシャンだってことは知っていたわ。本番前のリハーサルで初めて顔を合わせたの」
「後藤さんって、どんな人だった?わかる範囲でいいから、教えて」
「そうね……最初は、渡された小道具を運ぶだけって聞いてたのだけど……リハーサルのときに、姿勢が悪いとか、やる気がないのか、とか舞台上での歩き方、歩くスピードも指導されたりして……一言で言うと、完璧主義ってやつだと思うわ。本番前にいろいろ言われて、ちょっと滅入っちゃった」
「完璧主義、か。最後に、仮面の女がどこへ行ったか分かる?」
「……わからないわ。カーテンが閉まって、みんなが拍手してる間に、いつの間にかいなくなっていて……」
俺は青柳さんを振り返った。
「青柳さん……この事件、やっぱり他殺で間違いないと思う。犯人は全ての状況を把握した上で、マジックショーの最中に殺人を実行したんだ」
「さっきお前、後藤さんは銃がすり替えられていたことに気づいていたと言ったよな?」
溝端刑事が疑いの目を向ける。
「その上で、後藤さんは何故引き金を引いたのか――颯介、説明してごらん」
青柳さんに促され、俺は自分の推理を話した。
「いつもと違う銃だと気づきながらも、後藤さんが引き金を引いた理由は、理想のショーを演じるためだと思う。アシスタントの女性から聞いたんだ。後藤さんは『完璧主義』だったって。舞台上での歩くスピードとかも細かく指導してたらしいし、数秒の狂いも許せないくらいのレベルだと思う。後藤さんは、自分にとっての理想のショーを演じ切るために違和感を覚えつつも、引き金を引いてしまったんじゃないかな。まさか、実弾が入っているとは思わないだろうし」
青柳さんは、一度だけ短く頷いた。
「素晴らしい推理だよ、颯介。……溝端君、聞いていたね?今すぐ監視カメラの死角になる非常口を全部確認して。犯人の逃走ルートを絞り込むんだ」
「ハッ!直ちに!!」
溝端刑事は、俺に悔しそうな視線を一瞬投げたが、青柳さんの命令には逆らえず、脱兎のごとく走り去った。
現場に残されたのは、俺と、微笑を浮かべた青柳さんだけだった。
「他殺……。でも、犯人は何のために?」
俺の問いに、青柳さんは何も答えず、ただ微笑んでいた。




