マジックショー
それからというもの、俺とムタは磁石が引き合うように頻繁に会うようになった。
密会は決まって、陽が地平線の彼方へ沈み、月が夜空に昇る頃。
施設の入り口近く、正面玄関を少し外れた場所にひっそりと置かれた、塗装の剥げかけた白い木製ベンチが俺たちの定位置だ。
驚いたことに、ムタは教えもしないのに俺の住処を正確に把握していた。
初めて言葉を交わしたあの日、俺の背後を音もなく追跡していたらしい。
「猫に尾行される」なんて、探偵小説でもなかなかお目にかかれない。
俺は完全に油断していたというわけだ。
肝心のムタの正体については、霧を掴むような状態が続いていた。
唯一判明したのは、この街の至る所で彼が目撃されており、その場所ごとに異なる名で呼ばれているという奇妙な事実だけだ。
「やあ、颯介。……おや、そこにいるのは『チョビ』じゃないか。どうして君がここに?」
ある夜、ベンチでムタと小声で議論を交わしていると、闇に溶け込むような足取りで青柳さんが現れた。
「えっ、チョビ?……あ、もしかして青柳さん、この猫のこと知ってるの?」
「ああ。警視庁の本庁舎付近でよく見かけるんだよ。交通課の女性職員たちがアイドル扱いして、こぞって高級なキャットフードを貢いでいたな。誰にでも愛嬌を振りまくものだから、いつの間にか『チョビ』なんて可愛らしい名で呼ばれるようになってね」
青柳さんは、どこか遠くを見つめるような涼やかな目でムタを見下ろした。
ムタの毛並みは、雪のような白をベースに、額から鼻筋にかけて黒い毛が綺麗に分かれている。
いわゆる「八割れ」だ。
そして、その鼻先にはちょこんと黒い斑点があり、それが滑稽な「ちょび髭」に見える。
なるほど、チョビか。
「……フン、否定はせん。確かにあの界隈ではそう呼ばれ、至極の食事を供されていたこともあったな。警察官という人種は、意外と脇が甘くて居心地が悪くなかった」
ムタが俺にだけ聞こえる声で毒づく。
その横で、青柳さんは流れるような動作で内ポケットから二枚のチケットを取り出した。
「そういえば、颯介。明日、もし予定がなければマジックショーに行かないかい?」
思わぬ誘いに「行きます」と即答すると、青柳さんは満足げに目を細め、チケットを俺に手渡した。
「それじゃ、明日。遅れないようにね」
彼は後ろ手に軽く手を振ると、再び夜の静寂の中へと消えていった。
「……なんだか、食えないやつだな。」
ムタは、闇に溶けた青柳さんの残影を凝視しながら、低く呟いた。
翌日、クローゼットの前で迷っていると、幸人がひょっこりと顔を出した。
「あれ、颯介。今日は一段と気合が入ってるね。どこか出かけるの?」
「ああ、青柳さんに誘われてさ。これからマジックショーを見に行ってくるんだ」
「なんだ、青柳さんか。颯介は本当に、あの人のこととなるとフットワークが軽いよね。……まあ、いい刺激になるんじゃない?楽しんできて」
「『なんだ』ってなんだよ!」
幸人はどこか複雑そうな、それでいていつもの温かい苦笑いを浮かべて部屋を後にした。
「よし、準備完了」
俺は鏡の前で一度頷き、足早に部屋を出た。
玄関に向かうと、そこには施設長と、相変わらず凛とした立ち姿の『美魔女』ことみゆき先生が立っていた。
「あら、颯介くん。お洒落して、どこに行くの?」
みゆき先生が艶然と微笑む。
隣に立つ施設長は、どこか落ち着かない様子で俺の顔をじっと見つめていた。
時刻は午後六時を過ぎている。
夜の外出を心配してくれているのだろうか。
「もう高校生なんだし、大丈夫だよ」と喉元まで出かかったが、二人の眼差しにある深い慈愛を感じ、言葉を飲み込んだ。
「青柳さんに誘われて、マジックショーに行ってくるよ。そんなに遅くならないから、心配しないで」
「そう……青柳さんが一緒なら安心ね。羽目を外しすぎないようにね、行ってらっしゃい」
みゆき先生は優しく手を振ってくれた。
しかし、施設長だけは表情を硬くしたままだった。
「……また、青柳さんか」
その呟きは、ひどく重苦しく、警告を含んでいるようにも聞こえた。
施設長の瞳の奥に宿った一瞬の「影」に疑問を抱きつつも、待ち合わせの時間が迫っていた俺は、石段を駆け下りて街へと走り出した。
「やあ、颯介。今日はたったの二分の遅刻か。成長したね、偉い偉い」
待ち合わせ場所に立っていた青柳さんは、時計を見ながら子供をあやすような口調で言った。
「くそっ、全力で走ったんだけどな……やっぱり青柳さんには勝てないか」
「ははは、大丈夫だよ。君が十五分は遅れてくることを見越して、余裕を持って設定しておいたからね。すべては計算通りさ」
青柳さんは、盤上の勝利を確信した棋士のような、完璧な笑みを浮かべていた。
「青柳さん。今更だけど、俺みたいなガキが相手で良かったの?……ほら、彼女とかさ?」
待ち合わせ場所に向かっている途中、ふと、幸人が言っていた「なんだ」という意味を理解した俺は、疑問を投げかけた。
「ははっ。手厳しい質問だね、颯介」
青柳さんは軽く受け流した。
この人はいつもそうだ。
優雅に振る舞いながら、自分という人間の核心部分には決して触れさせない。
かつて相棒だったという赤川刑事の最期の瞬間についても、彼は常に「有耶無耶」のベールで包んでしまう。
俺はずっと、英雄譚の続き……いや、結末を聞けないでいる。
会場の内部は熱気に包まれていた。
2000人を収容するというホールはほぼ満席のようだった。
わずかな照明しかなく、周囲の人の顔はほとんど見えなかった。
俺たちの席は、ステージからわずか2列目。
演者の吐息さえ聞こえてきそうな、特等席だった。
「さて、もうすぐ開演だ。余計な思考は一度捨てて、ショーを心ゆくまで楽しもうじゃないか」
幕が上がり、舞台上を無数に照らす照明が、観客の期待を煽る。
ショーが始まると、俺は瞬く間にその幻想の世界へ引き込まれた。
人体浮上、密室からの瞬間移動、無数の剣が突き刺さる箱からの脱出。
どれもがテレビで見るのとは比較にならないほどの迫力と説得力を持っていた。
「凄い……」
俺は言葉を失い、食い入るようにステージを見つめた。
登壇しているのは、世界的に名を馳せる超一流のマジシャンだ。
その指先の動き一つで、二千人の観客の現実が書き換えられていく。
そして、プログラムはいよいよ最高潮へ。
このショー最大の目玉、死の淵を歩くパフォーマンスが始まろうとしていた。
それは、自らの頭部を本物のハンドガンで撃ち抜いたと見せかけ、倒れ込んだ瞬間に舞台から消失するという、あまりに危険で、あまりに刺激的な演目だった。
ステージ中央、薄暗いスポットライトの下に簡易カーテンが設置される。
マジシャンがその中に静かに立った。
舞台袖から、冷徹な金属光沢を放つハンドガンを乗せたトレーを掲げ、アシスタントがしずしずと歩み寄る。
ママジシャンは、迷いのない手つきでハンドガンを手に取る。
「――ッ……!?」
このとき、マジシャンの動きに一瞬だけ躊躇いが見えた気がした。
これまでの滑らかな所作が嘘だったかのように、ハンドガンを握る手が小刻みに震えているようにも見えた。
そして、震える手を、自らの右側頭部に運ぶと、その銃口を深く押し当てた。
「――パアンッ!」
静まり返ったホールに、鼓膜を破るような乾いた銃声が鳴り響いた。
火薬の焦げた臭いが、二列目の俺の鼻腔をかすかに突く。
マジシャンの身体が糸の切れた人形のように崩れ落ち、同時にカーテンがバサリと閉ざされた。
直後、劇場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
完璧な「演出」への賞賛だ。
俺も興奮に身を任せ、夢中で手を叩いていた。
だが、その熱狂は、わずか数秒後に凍りつくことになる。
アンコールを促すようにカーテンが再び開かれた時、そこにあったのは、喝采に応えるマジシャンの姿ではなかった。
彼は、倒れた時の姿勢のまま、一ミリも動いていなかった。
それだけではない。
純白のステージに、ドス黒い赤が急速に広がっていく。
側頭部の穴から溢れ出す鮮血は、冷酷な現実を物語っていた。
静寂が、悲鳴に書き換えられるまで、時間はかからなかった。




