魔法
青柳さんの病室を出たあと、溝端刑事が俺に声をかけた。
「……これで満足したか?」
ぶっきらぼうな言い方だった。
けれど、その声にはどこか俺を気遣うような響きが混じっていた。
「ああ。満足したよ。ありがとう、溝端刑事」
俺は素直に頭を下げた。
あれ以上、青柳さんに聞くことはない。
知りたかったことは聞けたし、聞けなかったことも含めて、ようやく一区切りついた気がしていた。
「もう俺には、一生のお願いは使えないからな!忘れるなよ!」
溝端刑事は俺に人差し指を突きつけた。
「はいはい」
「……そういえば、お前に何か言わないといけないことがあったような……」
「言わないといけないこと?」
「ありゃ、何だったかな?」
溝端刑事は腕を組み、首をひねった。
「まあ、思い出したら連絡する」
そう言って、手をひらひらと振りながら去っていった。
――青柳さんが別れ際によくやっていた仕草だった。
こんなところにも、あの人の影響が残っている。
そう思うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
溝端刑事と別れたあと、俺は久しぶりにムタに会いに行くことにした。
あの事件が終わってから、まともに顔を出せていなかった。
事情聴取、幸人の見舞い、施設長のこと――気がつけば毎日が慌ただしく過ぎていた。
だからこそ、今になって無性に会いたくなったのだ。
歩き慣れた道を進んでいく。
ムタと初めて出会った通り、何度も一緒に歩いた道を経由して、いつも話をしていた路地裏へ向かった。
そこには、室外機の上で丸くなっている見慣れた猫の姿があった。
「久しぶり、ムタ!あれから事情聴取やらなんやらでいろいろと忙しくって、なかなか会いに来られなかったんだ。ごめん。幸人も青柳さんも無事だよ。安心して」
自然と言葉が溢れる。
ムタは眠そうに、俺を見上げた。
「ニャー」
いつもの返事が返ってくる。
――いや、違う。
「おい、ムタ」
俺は眉をひそめた。
「何ふざけてるんだよ?」
「ニャー」
「おい……」
「ニャー、ニャー」
胸の奥がざわついた。
「どういうことだよ……どうして喋らないんだよ……?ムタ」
何度呼びかけても、返ってくるのは猫の鳴き声だけだった。
まるで最初から、ただの猫だったかのように。
俺は立ち尽くした。
そもそも、おかしな話であることには違いない。
猫が喋って、しかも、自分の正体を調べてほしいと頼んでくるなんて。
その頼みをきっかけに事件へ巻き込まれ、十六年前の真実へ辿り着き――そして、その猫の正体が十六年前に死んだ父親だと知った。
冷静に考えれば、まともな話じゃないのは俺も理解していた。
それでも俺は確かに見た、聞いた、一緒に話して、一緒に笑った。
だから否定なんてできなかった。
『運命だとは思わないか?この出会いを』
会ったばかりの頃に、ムタが言った言葉――お互いに感じていたものは間違いではなかった。
十六年前から止まっていた時間を動かすための出会いであり、真実へ辿り着くための出会いだった。
もしかしたら――あれは魔法だったのかもしれない。
十六年間、解き明かされなかった真実へ導くための魔法。
そして、真実が明らかになった今、その魔法が解けてしまったのかもしれない。
だから、もうムタは喋らない。
そう考えると、不思議と納得できた。
寂しくないと言えば嘘になし、むしろ、胸が苦しいほど寂しかった。
だけど同時に、どこか温かい気持ちにもなっていた。
ありがとう――心の中でそう呟いた、その時だった。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面を見ると、溝端刑事からだった。
通話ボタンを押した瞬間――
「おい!至急、病院まで来てくれ!」
耳が痛くなるほど大きな声が飛び込んできた。
「うわっ!?」
思わずスマートフォンを離しそうになる。
「言わなきゃいけないことを思い出した!」
「それ、電話じゃダメなのか?」
「ダメだ!とにかく来い!」
そして一方的に通話が切れ、耳元には電子音だけが残った。
俺はしばらくスマートフォンを見つめた。
「……何なんだよ」
思わず呟く。
一連の事件については、もうほとんど話したはずだし、思い当たることは何もない。
それなのに、あの慌てよう。
胸の奥に小さな不安が生まれる。
何かあったのだろうか。
幸人か、施設長か、それとも――。
俺は考えるのをやめた。
とにかく今は病院へ向かうしかないと思い、踵を返した。
背後では、ムタが静かにこちらを見送っていた。




