運命
「なぁんだ。つまらないなぁ」
青柳さんは、涙を流し続ける美紗を見下ろしながら、心底興味を失ったように呟いた。
その言葉を聞いて、俺はようやく張り詰めていた息を吐いた。
心の底から安堵していた。
美紗が本当に青柳さんを殺してしまうかもしれない――そんな最悪の未来が、ほんの一歩手前まで迫っていたからだ。
もちろん、俺だって悔しくないわけじゃない。
母さんは事件に巻き込まれ、父さんは殺された。
そして今も、幸人は生死の境をさまよっている。
憎くないはずがないし、許せないに決まっている。
それでも――青柳さんを殺して十六年前の復讐をしてほしいなんて、俺は望んでいない。
「この世に、死んでいい人間なんていないんだ!」
俺は、以前ムタが口にした言葉をそのまま叫んだ。
「あ、おい!お前っ!それ前に俺が言ったやつだろ!」
ムタが何か騒いでいたが、今は相手をしている余裕なんてなかった。
「その言葉……懐かしいよ」
青柳さんがぽつりと呟く。
「赤川が昔、よく言っていた言葉だ。僕はずっと馬鹿馬鹿しいと思っていたけどね。……やっぱり君は、あいつの息子なんだな」
そう言った青柳さんは、なぜか少しだけ寂しそうだった。
まるで、とうとう手の届かなかった何かを見送るような顔だった。
「颯介……悪いけど、君には死んでもらうよ。これはね、十六年前から決まっていた運命なんだ」
青柳さんは傷ついた右肩を押さえながら立ち上がると、血のついた左手で再び拳銃を構えた。
銃口が真っ直ぐ俺へ向き、冷たい殺意が肌を刺した。
「ごふっ――!」
その瞬間だった。
さっきまで俺の目の前に立っていた青柳さんの身体が、不自然に前へ崩れ落ちた。
何が起きたのかわからなかった。
まるで、時間が止まったように感じた。
そして、その背後を見た瞬間――俺は息を呑んだ。
施設長が震える両手で包丁を握り締めたまま、立ちすくんでいた。
その刃には鮮血がべったりと付着し、先端から血がぽたり、ぽたりと地面へ落ちている。
あの包丁は、さっきまで美紗が持っていたはずのものだった。
施設長は、ずっと復讐の機会を待っていた、と言っていた。
こうなることも想像ができていたはずなのに……。
胸が苦しかった。
どうしようもない悔しさがこみあげてくる。
しかも、それが俺を守るためだったのだと思うと、なおさらだった。
「そんな顔をしないでおくれ、颯介」
施設長は力なく笑った。
「これは……私の運命だったのだよ」
そう言うと、その場へ崩れ落ちるように座り込んでしまった。
施設長は優しい人――復讐を望んでいたと言いながらも、本当に人を傷つける覚悟なんて持ちたくなかったはずだ。
人を刺すという行為が、どれほど自信の心を傷つけるのか。
施設長の震える姿が、その全てを物語っていた。
俺の推測でしかないが、きっと、施設長は最初から青柳さんを殺そうと思っていたわけじゃない。
ただ――すべてを知った上で、俺たちを守りたかっただけなんじゃないか。
「ははははは……なかなかに……楽しませてもらったよ……」
青柳さんはかすれた声でそう言うと、そのまま意識を失った。
その後、俺たちは急いで救急車と警察を呼んだ。
幸人は大量出血による意識不明の重体。
施設長に刺された青柳さんも重傷だったが、まだ意識は残っていた。
二人はそれぞれ救急車で搬送されていった。
俺は事情聴取のため、幸人について行くことができなかった。
救急車の赤色灯が遠ざかっていくのを見送りながら、ただ無力感だけが胸に残っていた。
施設長は殺人未遂容疑で逮捕されたが、おそらく正当防衛は認められるはずだとムタが言っていた。
一方で青柳さんの肩を刺した美紗は、未成年であることと正当防衛が認められ、事情聴取のみで済んだ。
「ひとまず、一件落着だな。お前、よく耐えたな。さすがは俺の息子だ!」
そう言い残すと、ムタの姿は闇の中へ溶けるように消えていった。
その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
「おい、お前!どういうことだよ!青柳警部が犯人だって!?俺は……俺は信じないぞ!」
児童養護施設へ到着するなり、溝端刑事が詰め寄ってきた。
目を見開き、顔を真っ赤にしている。
それだけ衝撃だったのだろう。
「観念してよ、溝端刑事。証人もいるし、録音データもある」
俺は肩をすくめた。
何が起きても説明できるよう、スマートフォンで一部始終を録音していたのだ。
「全部説明しようとすると、超長くなるんだけど、聞きたい?なんたって、十六年前のことから話さないといけないからさ」
「むうっ!?当たり前だろう!全部聞かせてもらうぞ!」
俺は、十六年前の銀行強盗事件から今回の事件まで、青柳さんが裏で何をしていたのかを全て話した。
溝端刑事は最初こそ信じられないという顔をしていたが、全てを話し終えた頃には、溝端刑事は妙に納得したような顔をしていた。
「そうか……」
溝端刑事がぽつりと呟き、空を見上げながら話を続けた。
「青柳警部は時々、物思いにふけっていることがあったんだ。赤川刑事のことや、お前のことを考えていたのかもしれないな」
そして少しだけ顔をしかめた。
「くそっ。青柳さんがお前のことを十六年間ずっと考えていたってのは納得いかんがな!」
その言葉に、俺は思わず苦笑した。
相変わらずな溝端刑事に、なんだか少し、安心してしまった。
「溝端刑事……青柳さんのこと、見損なわなかった?」
俺は気になっていたことを口にした。
溝端刑事はしばらく黙ってから、大きく息を吐いた。
「……見損なったよ。警察官が罪を犯すなんて、最大のタブーだからな」
静かな声で彼は続けた。
「でも俺は、あの人が警部として真面目に働いている姿しか知らない。仕事をさぼっていたわけでもない。録音データがなければ、今でも信じられないくらいだ。警部として尊敬していた。その事実だけは、今も変わらないな」
溝端刑事は鼻をこすりながら、少しだけ笑った。
その言葉を聞いて、俺は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
人は善悪だけじゃ割り切れない――そんなことを、改めて感じた。




