遺書
施設長はゆっくりとこちらへ歩み寄ると、青柳さんの前を通り過ぎ、俺の隣に立った。
そして、まるで逃げ場を与えないかのように真正面から青柳さんを見据え、静かに言った。
「私は、あなたが犯した過ちを、全て知っているんですよ」
「ははっ、施設長さん、急に何を仰るんですか?」
二人の視線がぶつかり、どちらも目を逸らさない。
まるで剣を突き付け合っているような緊張感が、その場を支配していた。
肌を刺すような沈黙が流れる。
俺は息をすることさえ忘れそうになりながら、その様子を見守ることしかできなかった。
どれほどの時間が過ぎただろう。
実際には数十秒だったかもしれない――だが俺には、それが永遠にも感じられた。
先に沈黙を破ったのは施設長だった。
「この児童養護施設の先代である、『小林』を知らないとは言わせませんよ」
「ええ。小林さん、もちろん存じてます。とても、心の優しい方でした。なのに何故、銀行強盗なんか……」
そのやり取りに、俺が割って入る余地はなかった。
二人だけが共有している過去が、そこには確かに存在していた。
「しらばっくれるのも、いい加減にしてください……!あなたが……!あなたが、先代を殺したんだ……!」
施設長の声は震えていた。
怒りと悲しみと、長年押し殺してきた感情が一気に溢れ出しているようだった。
「待ってください。それは違いますよ、施設長さん。送検中の車内で、僕の拳銃を勝手に抜き取って、勝手に死んでいったんです」
青柳さんは、まるで世間話でもするかのように淡々と答えた。
その無機質な口調が、かえって不気味に感じられた。
「ふざけるな!!」
施設長の怒号が夜の空気を震わせる。
俺は施設長がここまで感情を露わにする姿を初めて見て、思わず身体を震わせた。
施設長は震える手で、ポケットから古びた封筒を取り出した。
長い年月を経たその封筒には、持ち主の想いが染み込んでいるように見えた。
中から取り出した一枚の紙を掲げ、施設長は言う。
「これは、先代が私宛に残した遺書です。あの人は、自分が死ぬことを分かっていたんですよ。あなたに殺されると分かっていたんです」
その言葉を聞いた瞬間、青柳さんの目が、わずかに細められた。
今まで余裕そうだった表情に、初めて揺らぎが生まれる。
施設長の肩は小刻みに震えていた。
だがそれは悲しみだけではない。
十六年もの間、胸の奥で燃やし続けてきた怒りの炎だったのかもしれない。
施設長は一度深く息を吸い込むと、先代が残した遺書を丁寧に読み上げ始めた。
――これを読んでいるということは、私はもう、この世にはいないのだろう。
勘の鋭い君には、薄々気付かれているのではないかと、毎日ハラハラしていたよ。
黙っていたけれど、この児童養護施設は、経営が少し傾き始めていてね。
私は色々な方面から、お金を借りてしまったのだよ。
君たちが学校に行っている間、毎日のように借金取りが金を取り立てに来た。
正直、そんな日々が憂鬱だったんだ。
そんなとき、ある男がこの児童養護施設を訪ねてきた。
青柳という男だ――。
青柳は、金がほしくないかと私に尋ねた。
大金が必要だった私は、内容も聞かずに二つ返事で引き受けてしまったんだ。
そして、気が付いた時には、銀行強盗の計画書が手渡され、後には引けなくなっていた。
もし、誰かが捕まった場合は、死んでもらうと言われた。
だから私は、銀行から奪ったお金を埋める役を買って出て、君と私にしか分からない暗号を残し、わざと捕まることにする。
私が捕まったら、その暗号について警察がここへ聞きに来るだろう。
その時に、その暗号を確認してほしい。
捕まった私を、どうやって殺すつもりなのかは分からないが――。
もし、私が死んだという報告が入ったら、その暗号の場所に隠したお金を掘り出して、銀行に返してほしい。
この遺書を警察に見せれば、君が疑われることもないだろう。
そして、私が死ねば、保険金が降りるはずだ。
そのお金で、借金は余裕で全額返済できる。
残りは、児童養護施設の維持費に使ってほしい。
最後に、君には道を外れてほしくない。
絶対に、復讐など考えないでおくれ。
君には、幸せになる権利があるんだ――今まで以上に。
最年長の君には、今までたくさん迷惑をかけたね……。
すごく助かっていたよ。
私も君と出会えて、本当に幸せだった。
本当に感謝している――ありがとう。
遺書の朗読が終わる。
しばらく誰も口を開かなかった。
まるで先代の想いが、その場に漂っているかのようだった。
「しっかりと、あなたの名前も書いてあります。『青柳』と」
施設長は震える声で続けた。
「十六年前、先代が亡くなった後に、あなたはこの児童養護施設を訪れましたよね。例の暗号を持って。刑事であると仰ったので、最初は同姓の別人だと思いました。ですが、私は先代とあなたが話しているところを、一度だけ見たことがあったのを思い出しました。そこで確信したのです。あなたが、先代を銀行強盗事件に巻き込んだ首謀者であると」
施設長の視線は青柳さんから外れない。
「先代も、さぞ驚いたことでしょう。犯罪を持ち掛けてきた人物が、まさか刑事だったなんて」
施設長は苦しげに息を吐いた。
「書いてある通りに、この遺書を警察に見せてしまったら、あなたにも暗号のヒントを与えてしまうことになる。それに、『青柳』という名前だけでは、『青柳』という苗字の人物はこの世に何人もいるし、ましてや警察の人間だ――誤魔化すことも出来てしまうと思った。だから私は、身動きが取れずにいたのです」
その言葉には、十六年間抱え続けた葛藤の重みが滲んでいた。
俺はただ呆然としていた。
施設長は十六年前から全てを知っていた――その事実が、あまりにも重かった。
「施設長……全部知ってて、何で黙ってたんだよ」
気付けば俺はそう口にしていた。
「そんなこと、決まっているじゃないか、颯介」
施設長の顔が歪む。
「先代を死に追いやった青柳に復讐をするためだよ!」
その声には、長年積み重ねてきた憎しみが滲んでいた。
「私はずっと、復讐をする機会を伺っていた。ずっと、この日を待っていたんだ!。暗号を解いて、青柳が一人で裏庭に来るこの日をね!『ガブリエル』と呟いたのも、ヒントを与えるためにわざと言ったんだ!たとえあの紙が私の手元に来なくても、別の策は考えてあった!」
十六年間押し込め続けた感情が、一気に噴き出していた。
「先代さんの遺書には、復讐するなと書いてあったんだろ!?なのに、どうして!?」
俺は思わず叫んだ。
「抑えきれなかったんだよ……!」
施設長の声が震える。
「この怒りを……どこにもぶつける場所がなかったんだ……」
その言葉を聞いた瞬間、俺は何も言えなくなった。
そんな俺たちの様子を見て、青柳さんが突然高笑いを上げた。
「あははははははは!……なるほどね」
肩を震わせながら笑う。
「まさか、あのおじさんが遺書なんか残してたとは。想定外だったよ。施設長さんも、僕の正体にずっと気付いていたわけだ。あははははははっ!笑える話だねぇ。とっても面白い!」
その笑い声は異様だった。
狂気と愉悦が混ざり合ったような、不快な響きだった。
「何が面白い!?」
施設長は、その笑い声をかき消すように怒鳴った。
「何がって……?全部に決まってるじゃないか」
そう言って俺の方を見る。
「ねぇ?颯介……酷いとは思わないかい?僕のことを犯罪者だと知っていて、颯介たちと今までずっと遊ばせてたんだよ?この人」
その言葉に、俺の胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
「青柳さん……」
震える声が漏れる。
「ずっと信じてたのに。みんなのヒーローじゃなかったのかよ!!!」
叫びは夜空へ吸い込まれていった。
「みんなのヒーロー?」
青柳さんは、その言葉を鼻で笑うように繰り返した。
「笑わせる……その言葉がずっと嫌いだったんだよ、僕は」
そう言い放った青柳さんの表情は、もはや俺の知っている優しい青柳さんではなかった。




