↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
満月の夜に猫は微笑む  作者: 涼木あきこ
35/50

漂う焦燥感

――翌朝、重い瞼を開けると、視界の端で幸人が静かに身支度を整えていた。


「颯介、おはよう。昨日は……だいぶ遅かったみたいだね。大丈夫?」


幸人の声はいつも通り穏やかだったが、その瞳には夜通し何かを案じていたような陰りがあった。


俺がムタ……父さんと話して部屋に戻った時、彼は寝たふりをしてくれていたのだろう。


「悪い、起こしちゃったか。……俺は、大丈夫。ちょっと考え事が長引いただけだよ」


「そう……ならいいんだけど。あまり、自分を追い詰めないでね」


幸人はそれ以上追求せず、柔らかな微笑みを残して先に部屋を出ていった。




朝食のテーブルを囲む空気は、以前よりもずっと冷え切っていた。


美紗の様子は、目に見えてやつれていた。


盗聴器が見つかったあの日から、彼女はまるで魂をどこかに置き忘れてきたかのように、虚空を見つめていることが増えた。


殺人事件を目の当たりにした時でさえ、彼女は強がって見せていた。


俺に気を遣わせないために、平常心を装っていただけかもしれないが――


自分の父親が十六年前の事件の被害者であり、そのせいで今の人生があるのだと知ってしまったショックは、彼女の心の防波堤を根底から崩してしまったのかもしれない。


家族みんなで、幸せに暮らしたかった――


ただそれだけの願いが、十六年前、銃声と共に奪われたのだ。


目の前で、箸を動かすのを忘れて俯く美紗を見ていると、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。




俺はまだ、美紗やみゆき先生には打ち明けられずにいた。


十六年前に彼女たちの父親を奪ったあの女、篠原由美が、昨晩変わり果てた姿で見つかったという事実を。


女の死が、美紗を救うのか、それともさらなる絶望の淵に追いやるのか。


幸人と話し合った結果、今は伏せておくべきだという結論に至ったが、それが正解なのかは分からない。


さらに、みゆき先生が美紗の実の母親であるという秘密も、俺の心に重くのしかかっている。


「……どうすればいいんだろうな」


誰にも届かない独り言が、喉の奥で苦く消えた。




学校の授業は、今の俺にとって、遠くの国で起きている出来事のように無機質なものだった。


黒板に並ぶ数式よりも、事件の謎や、ムタが思い出した記憶、そして亡き母への想いが頭の中を支配していた。


気づけば窓の外を見つめ、気づけばペンを止めている。


市川先生に名前を呼ばれても反応できず、鋭い叱責を食らうことも一度や二度ではなかった。


そのたびに、幸人が向かいの教室の窓越しに心配そうな、あるいは呆れたような顔をして合図を送ってくるのが、唯一の現実に引き戻される瞬間だった。




放課後、一人で荷物をまとめていると、不意に背後から低い声が響いた。


「……遅刻はしてないようだが、最近、全く授業を聞いてないだろ」


顔を上げると、市川先生が眉間に深い皺を寄せて俺を見下ろしていた。


「すんません……」


「何があった。俺には話せないことか?」


先生の言葉は相変わらずぶっきらぼうだったが、その瞳は俺の心の奥底を射抜くように鋭かった。


以前、市川先生が校舎裏で、誰かと密かに電話をしていたときのことが脳裏をよぎる。


俺はまだ、この人を信じていいのかどうか、確信が持てなかった。


「……今は、話せないです。自分でも、まだうまく整理がついてなくて。でも……いつか必ず、先生にも話したいと思っています。俺たちのことを」


俺が真っ直ぐに見返すと、市川先生は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから大きくため息をついた。


「いいか。自分の分を弁えろ。お前はただのガキだ。あまり深い闇に踏み込んで、戻ってこれなくならんようにな」


突き放すような物言いだったが、それは彼なりの忠告……あるいは警告のようにも聞こえた。


「心配させるなよ。お前が学校に来なくなると、俺の仕事が増えるんでな」


先生はそう吐き捨てると、一度も振り返ることなく教室を去っていった。




そして、その日の夜。


静寂を切り裂くように、施設に一台の車が滑り込んできた。


「やあ、颯介。少し、時間をくれるかい?」


突然現れたのは、青柳さんだった。


外で顔を合わせることはあったが、彼が施設を直接訪ねてくるのは、あの盗聴器事件以来のことだ。


俺は青柳さんを自室へと招き入れた。


幸人はちょうど風呂に向かった後で、部屋には俺一人だった。


「どうしたんだよ。急に」


「急にって、颯介。いつもそうでしょ?」


「確かに!」


青柳さんはいつものように飄々とした笑みを浮かべていたが、その瞳の奥には、微かな焦燥の光が揺らめいているように見えた。


「もしかして、事件の調査がなかなか進まないから、お悩み相談にでも来た?」


「おや、鋭いね。流石だよ、颯介。……実は、その通りなんだ。少し行き詰まっていてね」


青柳さんがあまりにもあっさりと白旗を上げたことに、俺は不意を突かれた。


「冗談だろ? 警視庁のヒーローがさ」


「……ヒーローも、時には道に迷うものさ。……だから、君の知恵を貸してほしい」


青柳さんの笑みが、ふっと消えた。


真剣な眼差しが俺を射抜く。


「君が隠している『ガブリエル』の正体について。……教えてくれないか」


「なっ……何のことだよ」


「……颯介、君は嘘をつくとき、無意識に視線を逸らす癖がある。あの日、施設長さんが呟いたその名を聞いたときから、君は何かを掴んでいるはずだ」


青柳さんの声は優しかったが、逃げ場を塞ぐような確信に満ちていた。


俺の心臓が激しく脈打つ。


ムタ……父さんとは『二人の秘密だ』と約束したはずだ。


だが、今目の前で困っている青柳さんは、十六年もの間、俺を導き、守ってくれた恩人の一人だ。


警察の捜査が進めば、犯人は捕まり、美紗や施設長の焦燥も終わるのではないか。


そう思うと、もう黙り続けることはできなかった。




俺は迷いを断ち切り、施設長から聞いた話を話し始めた。


裏庭の三本の木のこと。


その木には、左からミカエル、ガブリエル、ラファエルという名前があること。


そして、『家と赤ん坊を抱いたガブリエル』が、この施設の幻の紋章であるということ。


話し終えた瞬間、俺の胸の中にムタに対する裏切りのような罪悪感が広がった。


だが、青柳さんの役に立ちたかった。


それに、十六年前の犯人は残り一人になったわけだ。


どんな手を使って、暗号を解く気でいるのだろうか――


警察には暗号の意味を知らせておいた方が安全だろうと、自分に言い聞かせることで罪悪感をかき消した。


「……そうか。ありがとう、颯介。君のおかげで、霧が晴れたよ」


青柳さんは何かを確信したように深く頷くと、足早に俺の部屋を後にした。


ドアが閉まる直前に、会話が聞こえてきた。


「おっと、ごめん、幸人くん。もしかして、ずっとそこで待たせてしまったかい?」


「いえ、お風呂から上がったばかりで。ちょうど今、戻ったところですよ」


二人の短い会話が聞こえた後、幸人が少し慌てた様子で部屋に入ってきた。


「青柳さんが、来てたんだね」


「ごめん、もしかして、本当はドアの前にずっといた感じ?」


「颯介にしては察しがいいね。ごめん、聞くつもりはなかったんだけど、話が聞こえてしまって」


幸人は気まずそうに目を逸らした。


「……いずれは話すつもりだったし、いいよ。ってか、青柳さんにはなんで嘘を?」


「あの人、昔から掴みどころのない人だなって思ってて。つい、咄嗟に。あんなにスムーズに嘘が出たのは、僕自身も驚いたよ」


幸人が咄嗟に吐いた『今戻ったところ』という嘘。


それは、青柳さんという人物に対して彼が抱いている、拭いきれない不信感の表れのようにも感じられた。


青柳さんにすべてを話したことに対して、俺は後悔しているわけではない。


だが、幸人の言動もあり、心に引っかかるものがあった。


「そうだ、お風呂上がりに食べようと思って、プリンを買ってきたんだった。気が向いたら、リビングにおいでよ」


幸人はそう言って、俺の肩を軽く叩いた。


その温かな気遣いが、俺の心を僅かに鎮めてくれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。