漂う焦燥感
――翌朝、重い瞼を開けると、視界の端で幸人が静かに身支度を整えていた。
「颯介、おはよう。昨日は……だいぶ遅かったみたいだね。大丈夫?」
幸人の声はいつも通り穏やかだったが、その瞳には夜通し何かを案じていたような陰りがあった。
俺がムタ……父さんと話して部屋に戻った時、彼は寝たふりをしてくれていたのだろう。
「悪い、起こしちゃったか。……俺は、大丈夫。ちょっと考え事が長引いただけだよ」
「そう……ならいいんだけど。あまり、自分を追い詰めないでね」
幸人はそれ以上追求せず、柔らかな微笑みを残して先に部屋を出ていった。
朝食のテーブルを囲む空気は、以前よりもずっと冷え切っていた。
美紗の様子は、目に見えてやつれていた。
盗聴器が見つかったあの日から、彼女はまるで魂をどこかに置き忘れてきたかのように、虚空を見つめていることが増えた。
殺人事件を目の当たりにした時でさえ、彼女は強がって見せていた。
俺に気を遣わせないために、平常心を装っていただけかもしれないが――
自分の父親が十六年前の事件の被害者であり、そのせいで今の人生があるのだと知ってしまったショックは、彼女の心の防波堤を根底から崩してしまったのかもしれない。
家族みんなで、幸せに暮らしたかった――
ただそれだけの願いが、十六年前、銃声と共に奪われたのだ。
目の前で、箸を動かすのを忘れて俯く美紗を見ていると、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
俺はまだ、美紗やみゆき先生には打ち明けられずにいた。
十六年前に彼女たちの父親を奪ったあの女、篠原由美が、昨晩変わり果てた姿で見つかったという事実を。
女の死が、美紗を救うのか、それともさらなる絶望の淵に追いやるのか。
幸人と話し合った結果、今は伏せておくべきだという結論に至ったが、それが正解なのかは分からない。
さらに、みゆき先生が美紗の実の母親であるという秘密も、俺の心に重くのしかかっている。
「……どうすればいいんだろうな」
誰にも届かない独り言が、喉の奥で苦く消えた。
学校の授業は、今の俺にとって、遠くの国で起きている出来事のように無機質なものだった。
黒板に並ぶ数式よりも、事件の謎や、ムタが思い出した記憶、そして亡き母への想いが頭の中を支配していた。
気づけば窓の外を見つめ、気づけばペンを止めている。
市川先生に名前を呼ばれても反応できず、鋭い叱責を食らうことも一度や二度ではなかった。
そのたびに、幸人が向かいの教室の窓越しに心配そうな、あるいは呆れたような顔をして合図を送ってくるのが、唯一の現実に引き戻される瞬間だった。
放課後、一人で荷物をまとめていると、不意に背後から低い声が響いた。
「……遅刻はしてないようだが、最近、全く授業を聞いてないだろ」
顔を上げると、市川先生が眉間に深い皺を寄せて俺を見下ろしていた。
「すんません……」
「何があった。俺には話せないことか?」
先生の言葉は相変わらずぶっきらぼうだったが、その瞳は俺の心の奥底を射抜くように鋭かった。
以前、市川先生が校舎裏で、誰かと密かに電話をしていたときのことが脳裏をよぎる。
俺はまだ、この人を信じていいのかどうか、確信が持てなかった。
「……今は、話せないです。自分でも、まだうまく整理がついてなくて。でも……いつか必ず、先生にも話したいと思っています。俺たちのことを」
俺が真っ直ぐに見返すと、市川先生は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから大きくため息をついた。
「いいか。自分の分を弁えろ。お前はただのガキだ。あまり深い闇に踏み込んで、戻ってこれなくならんようにな」
突き放すような物言いだったが、それは彼なりの忠告……あるいは警告のようにも聞こえた。
「心配させるなよ。お前が学校に来なくなると、俺の仕事が増えるんでな」
先生はそう吐き捨てると、一度も振り返ることなく教室を去っていった。
そして、その日の夜。
静寂を切り裂くように、施設に一台の車が滑り込んできた。
「やあ、颯介。少し、時間をくれるかい?」
突然現れたのは、青柳さんだった。
外で顔を合わせることはあったが、彼が施設を直接訪ねてくるのは、あの盗聴器事件以来のことだ。
俺は青柳さんを自室へと招き入れた。
幸人はちょうど風呂に向かった後で、部屋には俺一人だった。
「どうしたんだよ。急に」
「急にって、颯介。いつもそうでしょ?」
「確かに!」
青柳さんはいつものように飄々とした笑みを浮かべていたが、その瞳の奥には、微かな焦燥の光が揺らめいているように見えた。
「もしかして、事件の調査がなかなか進まないから、お悩み相談にでも来た?」
「おや、鋭いね。流石だよ、颯介。……実は、その通りなんだ。少し行き詰まっていてね」
青柳さんがあまりにもあっさりと白旗を上げたことに、俺は不意を突かれた。
「冗談だろ? 警視庁のヒーローがさ」
「……ヒーローも、時には道に迷うものさ。……だから、君の知恵を貸してほしい」
青柳さんの笑みが、ふっと消えた。
真剣な眼差しが俺を射抜く。
「君が隠している『ガブリエル』の正体について。……教えてくれないか」
「なっ……何のことだよ」
「……颯介、君は嘘をつくとき、無意識に視線を逸らす癖がある。あの日、施設長さんが呟いたその名を聞いたときから、君は何かを掴んでいるはずだ」
青柳さんの声は優しかったが、逃げ場を塞ぐような確信に満ちていた。
俺の心臓が激しく脈打つ。
ムタ……父さんとは『二人の秘密だ』と約束したはずだ。
だが、今目の前で困っている青柳さんは、十六年もの間、俺を導き、守ってくれた恩人の一人だ。
警察の捜査が進めば、犯人は捕まり、美紗や施設長の焦燥も終わるのではないか。
そう思うと、もう黙り続けることはできなかった。
俺は迷いを断ち切り、施設長から聞いた話を話し始めた。
裏庭の三本の木のこと。
その木には、左からミカエル、ガブリエル、ラファエルという名前があること。
そして、『家と赤ん坊を抱いたガブリエル』が、この施設の幻の紋章であるということ。
話し終えた瞬間、俺の胸の中にムタに対する裏切りのような罪悪感が広がった。
だが、青柳さんの役に立ちたかった。
それに、十六年前の犯人は残り一人になったわけだ。
どんな手を使って、暗号を解く気でいるのだろうか――
警察には暗号の意味を知らせておいた方が安全だろうと、自分に言い聞かせることで罪悪感をかき消した。
「……そうか。ありがとう、颯介。君のおかげで、霧が晴れたよ」
青柳さんは何かを確信したように深く頷くと、足早に俺の部屋を後にした。
ドアが閉まる直前に、会話が聞こえてきた。
「おっと、ごめん、幸人くん。もしかして、ずっとそこで待たせてしまったかい?」
「いえ、お風呂から上がったばかりで。ちょうど今、戻ったところですよ」
二人の短い会話が聞こえた後、幸人が少し慌てた様子で部屋に入ってきた。
「青柳さんが、来てたんだね」
「ごめん、もしかして、本当はドアの前にずっといた感じ?」
「颯介にしては察しがいいね。ごめん、聞くつもりはなかったんだけど、話が聞こえてしまって」
幸人は気まずそうに目を逸らした。
「……いずれは話すつもりだったし、いいよ。ってか、青柳さんにはなんで嘘を?」
「あの人、昔から掴みどころのない人だなって思ってて。つい、咄嗟に。あんなにスムーズに嘘が出たのは、僕自身も驚いたよ」
幸人が咄嗟に吐いた『今戻ったところ』という嘘。
それは、青柳さんという人物に対して彼が抱いている、拭いきれない不信感の表れのようにも感じられた。
青柳さんにすべてを話したことに対して、俺は後悔しているわけではない。
だが、幸人の言動もあり、心に引っかかるものがあった。
「そうだ、お風呂上がりに食べようと思って、プリンを買ってきたんだった。気が向いたら、リビングにおいでよ」
幸人はそう言って、俺の肩を軽く叩いた。
その温かな気遣いが、俺の心を僅かに鎮めてくれた。




