ムタの正体
夜の闇を切り裂くように、ムタは颯介がいる施設へと駆けていた。
十六年分の空白が埋まっていく感覚で胸の奥が脈打つ。
自分の正体が、あの憎き事件を追う刑事だったこと。
愛する妻が命と引き換えに遺した『息子』が颯介であるということ。
一刻も早く、颯介の顔が見たかった。
この真実を、この小さな体で、今すぐにでも伝えなければならないという衝動に突き動かされていた。
夜中の二時。
風呂から上がった俺は、まだ熱を帯びた体を冷ましながら自室へ戻った。
幸人は規則正しい寝息を立てて眠っている。
俺は彼を起こさないよう、二段ベッドの梯子に静かに足をかけた。
その時、窓の外から、焦燥に満ちた声が聞こえた。
「颯介! ちょっと外に出てこい!」
ムタが俺を呼んでいる。
こんな真夜中にあいつが来るなんて、ただ事ではない。
胸騒ぎを覚え、俺は急いで外へと飛び出した。
夜風が肌を刺す。
ひんやりとした空気が、高鳴る鼓動を一層煽るようだった。
「悪いな、こんな時間に」
ムタの声は、いつになく震えていた。
「まだ起きてたから大丈夫だ。……んで? どうしたんだよ、そんなに慌てて」
俺は努めて平静を装ったが、ムタの瞳の奥に宿る、ただならぬ光に、全身が硬直するのを感じた。
「俺の……俺の正体が、わかったんだ。聞いて驚くなよ、颯介!」
ムタは、まるで自分自身に言い聞かせるように、震える声で告げた。
「猫が喋って、本当は人間で、刑事で……これ以上、俺を驚かせることなんて、もうないだろ」
俺は強がって澄ました顔で答えたが、この後、自分の世界が根底から覆されるほどの衝撃が走ろうとは、まだ知る由もなかった。
ムタは俺の目を真っ直ぐ見つめ、深く息を吸い込んでから、重い口を開いた。
「俺の名前は……赤川正史。お前もよく知っているだろう? かつて、青柳とバディを組んでいた刑事だ。あの頃は、俺たちにかかれば、解決できない事件はないとまで言われていた。……あの銀行強盗事件を除いては、な」
その声には、深い後悔と、拭いきれない悲しみが滲んでいた。
「お前が……赤川刑事!? 嘘だろ……! 殉職したって、青柳さんが……!」
驚かないと豪語したはずの口は、半開きになったまま、震えが止まらない。
全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
「俺もまだ、全ての記憶を取り戻したわけじゃない。だが、もう一つ、はっきりと蘇った記憶がある。俺の息子の名前は……颯介。十六年前、病院で誘拐され、俺は脅迫状を頼りに、あの倉庫へ向かったんだ」
脳が、その言葉の意味を処理しきれない。
「待ってくれ……。その颯介って……俺? 俺が……赤川刑事の息子だって、言いたいのか……?」
俺の問いに、ムタは静かに、しかし力強く頷いた。
「……ああ。その通りだ」
俺の頭の中は、激しい嵐が吹き荒れているようだった。
ムタが赤川正史――
そして、その赤川正史の息子が、この俺――颯介。
あまりにも突飛で、あまりにも残酷な真実。
「……それって、何か証拠はあんのかよ。夢で見た、なんて……それだけで全部信じるってのは難しい」
俺は、縋るようにムタに問いかけた。
「今すぐに見せられる証拠は、この体じゃ持ち合わせていない。だが、俺の夢は……俺の記憶は、そう告げている」
ムタの瞳が、僅かに揺れた。
「お前は……俺が父親であることが、嫌なのか?」
その声には、深い悲しみと、恐る恐る尋ねるような響きがあった。
俺はハッとした。
「ごめん……そういう意味で言ったんじゃない。ただ……あまりにも、非現実的すぎるだろ? 猫が喋って、その猫が実は人間で、刑事で、しかも俺の父親だなんて……。普通、誰が信じるんだよ」
俺は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
美紗だったら、もしかしたら信じたかもしれない。
だが、今の俺には、あまりにも重すぎる現実だった。
ムタは、俺の動揺を鎮めるように、ゆっくりと、そして慈しむような声で、俺の母親のことを語り始めた。
「とにかく、太陽のような笑顔が素敵な女性でな。俺のことを、会ったときから『ヒーロー』って呼ぶから、最初はものすごく照れくさくて、困ったもんだと思ったが……」
「そういえば、前にもそんな話、聞かせてくれたよな。会ったときからって、どういうことなんだ?」
半信半疑だった俺の心に、少しずつ温かい光が差し込んでくる。
「ひったくりに遭った彼女を助けたのが、俺たちの始まりだった。その時に彼女が言ったんだ。『まるで、ヒーローね』って。そこから連絡先を交換して、仲良くなって……」
「素敵な出会いだな」
ムタが照れたように目を伏せる姿は、どこか人間らしくて、俺は少しだけ笑みがこぼれた。
ムタは「ごほん」と一つ咳払いをして、真剣な表情に戻った。
「さっきお前は、証拠はあるのかと尋ねたな。今すぐに見せられるものはない。だが、俺自身が確信しているんだ。颯介、お前は間違いなく、俺とあいつの息子だ。だって……言うことも、やることも、そっくりなんだよ。あいつに」
ムタはそう言って、夜空に浮かぶ三日月を見上げた。
その瞳には、十六年分の愛情と、深い悲しみが宿っているように見えた。
そんなムタの姿を見て、俺はもう疑うことができなかった。
この俺の猜疑心はきっと、この真実が『そうであってほしい』と願う、心の叫びだったのかもしれない。
「そっか……そうだったんだ。お前が俺の父親で……母さんは、命がけで俺を産んでくれたのか……」
気がつけば、熱い涙が止めどなく溢れていた。
これは、悲しみの涙なのか、それとも、十六年越しに知った親の愛情への、感謝の涙なのか。
俺には、よくわからなかった。
俺が嗚咽を漏らしながら泣き続ける間、ムタは何も言わず、ただ静かに俺の傍にいてくれた。
その温かい存在が、冷えた心をゆっくりと溶かしていく。
本当に、父親みたいだ――十六年ぶりに触れた、父の温もり。
「なぁ……これからは、なんて呼べばいい?」
俺は、掠れた声で尋ねた。
「今のままでいい。急に『父さん』なんて呼ばれてもな。お前の友達もきっと心配するぞ」
ムタは、俺の足に頭を優しく擦りつけながら言った。
その言葉には、俺の今の生活を尊重しようとする、父としての深い愛情が込められているように感じた。
「ははっ! それは間違いないな。幸人が聞いたら、大騒ぎしそうだ」
俺とムタは、静かに笑い合った。
ムタは、去り際に、あの篠原由美の遺体発見現場での単独調査について話してくれた。
「そういえば、死んだ女の服から、知っている『匂い』がしたんだ」
その言葉に、俺の心臓が再び嫌な音を立てた。
「え……? どんな匂い?」
「どんな、と聞かれても……形容しがたい。猫レベルの嗅覚でないと感知できない、微かな、しかし確かな匂いだ。ただ一つ言えるのは、もう一人の犯人は、思っているよりもずっと、お前の身近なところに潜んでいるかもしれない、ということだ」
ムタの真剣な眼差しは、その言葉が冗談ではないと、痛いほどに伝えてくれていた。
「なるほど……。俺も警戒しておくよ。……でも、遺体で見つかったあの女しか、あの暗号は解けてなかったんだよな?ってなると、もう一人の犯人はどうやって答えを導き出すつもりなんだ?もう一度、盗聴器を仕掛けるなんて、さすがにもうできないはずだろ?何か、とっておきの策でもあんのかな……」
夜空の下、俺とムタは、沈黙の中で、それぞれの思考を巡らせていた。




