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満月の夜に猫は微笑む  作者: 涼木あきこ
33/50

記憶の断片その四

事件現場から戻ったムタは、いつもの室外機の上に飛び乗った。


別れ際の颯介の、あのどこか頼りない背中が脳裏に焼き付いている。


だが、あいつは一人じゃない――自分とは違う形で支えとなる友がいる。


だから、そこまで心配はしていなかった。


それよりも、胸の奥で燻る、あの『匂い』の残滓が気になって仕方がない。


篠原由美の服から嗅ぎ取った、あの微かな、しかし確かな記憶の断片。


「やはり、あの匂い……どこかで嗅いだことがある」


猫の嗅覚は人間の数万倍から数十万倍。


その鋭敏な感覚が、過去の記憶を呼び覚まそうと、必死に掻きむしっている。


「しかし、何の匂いなんだ……?」


答えの見えない問いを抱えながら、ムタは深い眠りへと落ちていった。




――ここは、どこだ?


視界に飛び込んできたのは、白と黒で統一された厳かな空間。


中央には、優しい笑顔を浮かべた女性の遺影。


葬儀場だ。


気がつけば、熱い雫が頬を伝っていた。


止めようとしても止められない、胸の奥から込み上げる、言葉にならない悲しみと絶望。


これから、どうしていけばいい――?


そんな途方もない喪失感に、心が押し潰されそうになる。


「何があっても、あの子を守るって言ってくれたじゃない!」


背後から、すすり泣く声が聞こえた。


義理の母が、縋るように俺の服の裾を掴んでいる。


その言葉が、凍り付いた心を揺さぶった。


そうだ、俺にはまだ、やらなければならないことがある。


妻が命を削ってまで守ろうとした、あの小さな命――


そして、妻をこんなにも弱らせた、あの銀行強盗事件の犯人たちを、絶対にこの手で捕まえてやるんだ。


悲しみは、一瞬にして燃え盛る復讐の炎へと変わった。


「絶対に、逃がすもんか……!」


固く握りしめた拳が震えている。




妻が残してくれた、かけがえのない命――その小さな体は、まだ病院の保育器の中にあった。


自分は刑事として、銀行強盗事件の捜査に明け暮れる日々を過ごしていて、家には帰れていなかった。


義理の父母も、娘を亡くした深い悲しみの中で、とても子供の世話ができる状態ではなかった。


苦渋の決断だったが、暫くの間、病院に預けることにした。


だが、この判断が、後に取り返しのつかない過ちとなることを、この時はまだ知る由もなかった――




数週間後、事件は起きた。


病院のナースステーションから、看護師たちの悲鳴にも似た焦燥の声が聞こえてくる。


「颯介くんがいないんだけど、誰か知らない!? 入浴の時間はまだのはずなのに、見当たらないの!」


「まさか、誘拐かしら……!?」


「と、とにかく、防犯カメラを見てみましょう!」


その言葉が、俺の耳に届いた瞬間、全身の血が凍り付いた。


「さっき見に行った時にはいたはずなんだけれど……あ! 赤川さん!! 大変です! 颯介くんがいなくなってしまって……今から、防犯カメラを確認してみようと思いますが……」


看護師の言葉を最後まで聞くこともなく、弾かれたように、息子がいるはずの病室へ駆け出した。




もぬけの殻となった小さなベッド。


そこには、一枚の紙切れが冷たく置かれていた。


脅迫状だ――


俺は震える手でそれを握りしめ、犯人がまだ近くにいるかもしれないという焦燥感に駆られ、病院を飛び出した。


「赤川さん! 防犯カメラには不審な人は映ってなかったです! 一体、誰がこんな……」


背後から聞こえる看護師の声も、今の俺には届かない。




自分の車に飛び乗り、荒い息を整えながら、脅迫状の内容を改めて確認する。


「○○区△△の倉庫へ来い。さもなければ、子供の命はない。―――」


差出人の欄に書かれた、不気味なアナグラム。


何と書かれていたかは、まだはっきりと思い出せない。


どうして、妻だけでなく、息子の命まで奪われなければならないんだ――


ハンドルを握る手に、力がこもる。




ムタはハッと飛び起きた。


辺りはまだ暗い。


街の灯りも、店の灯りも、消えている。


これまでの夢はきっと、夢ではなく、自分の記憶の断片だったのだろうと確信していた。


同時に、ムタは思った。


こんなにも、ツイていない男がこの世に存在するだろうか、と。


愛する妻を失い、その数週間後には息子を誘拐され――。


だが、あの脅迫状の差出人のアナグラムだけが、どうしても思い出せない。


記憶の霧が、最後のピースを隠している。


「……あれ? あの看護師、俺のことなんて言ってたっけ………………赤川? ってことは、俺の正体は、かつて青柳とコンビを組んでた赤川正史!? 子供の名前は確か………………颯介ぇぇぇぇぇ!? 待て、落ち着け、俺……!! いや、落ち着けるわけがないじゃないか!! 早くあいつのところに行かなければ……!!」


脳裏に閃光が走った。


バラバラだった記憶の断片が、一瞬にして繋がり、一つの恐ろしい真実を形作る。


俺の名前は赤川正史、そして、颯介は俺の息子。


ムタは室外機から勢いよく飛び降り、夜の闇を切り裂くように、颯介の元へと全速力で駆け出した。

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