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満月の夜に猫は微笑む  作者: 涼木あきこ
32/50

急展開

潮の香りと錆びついた鉄の匂いが混じり合う、深夜の港。


「私、例の暗号、解けちゃったの。だからもう、あんたはただの邪魔者ってわけ」


女が冷ややかな笑みを浮かべ、男に銃口を突きつけた。


しかし、男は動じることなく、すかさず駆け寄り、女の腕を捻って銃を奪った。


形勢は一瞬で逆転する。


「……待ってよ。私を殺しちゃったら、また振り出しに戻るわよ。……それでも、あなたは私を殺す?」


女の必死の命乞いに対し、男はただ無慈悲に引き金を引いた。


「パアンッ」


乾いた銃声が夜の静寂を切り裂き、女が鮮血を散らして崩れ落ちる。


「あなたは……本当に、非情な……人……ね……」


命の灯が消えゆく間際、女が漏らしたその言葉さえ、男は一顧だにせず闇へと消えた。




幸人の真っ直ぐな言葉に救われた俺は、放課後の誰もいない教室で、青柳さんに電話をかけた。


「……青柳さん? 今朝は急に切ってごめん。例の女の件、もう一度詳しく教えてほしいんだ」


スマホ越しに聞こえる青柳さんの声は、いつも通り穏やかだった。


青柳さんから事件の現場を聞き出し、俺は覚悟を決めて向かうことにした。


「……誰と話していたんだ?」


背後から低く響く声。


振り返ると、市川先生が鋭い眼差しで俺を見つめていた。


「昔からお世話になっている人です」


「施設長さんか?」


「いや、もう一人いるんです。俺の父親みたいな人が。……っていうか先生、施設長のこと、知ってるんすか?」


俺が何気なく尋ねると、先生の表情が一瞬だけ強張った。


「……いや。直接会ったことはない。ただ、担任としてお前の家庭状況は把握している。それだけだ」


「それもそうっすね」


「家には真っ直ぐ帰らないのか?


「はい、今日はちょっと寄るところがあるんで」


「施設長さんが心配しているはずだぞ」


今日の先生はやけに食い下がってくる。


まるで、俺をどこかへ行かせたくないかのような、あるいは――


「俺はもう子供じゃないって、この前自分でも言ったんです。遅くならないうちにちゃんと帰るんで、安心してください」


「……そうか。引き止めてすまなかったな」


先生はそれ以上何も言わず、深い影を落とした背中を向けて去っていった。




「……私です。彼が今、校門を出ました」


『そうですか。……どんな様子でした?』


「先ほどまで、誰かと連絡を取っていたようです。……後を追いましょうか?」


『いや、下手に動いて、疑われるわけにはいかないですから……十六年前の『あの日』から、我々が守り続けてきたものを、これ以上……』


「分かっています。……私は彼の教師でもありますので」


『頼みましたよ、先生』




「ムタ。……やっぱり、お前の言った通りになったよ」


俺は事件現場へ向かう前に、いつもの路地裏へ足を運んだ。


「ほう……。例の女が『消された』か。……ショックだったか? 人間の底知れぬ悪意に触れて」


室外機の上で、ムタが静かに俺を見下ろしている。


「……ああ。割とな。でも、裏切らない人もいるって、俺は信じることにしたんだ」


「フン、お前らしいな」


ムタの不敵な笑みに、俺の心も少しだけ落ち着きを取り戻した。


「さて……それじゃあ行こうか。真実の続きを拝みにさ」


俺はいつものように、ムタをリュックへと招き入れた。




港の現場は、規制線の黄色いテープが潮風にバタバタと煽られていた。


「また来たのか、お前! 呪われてるんじゃないのか!?」


俺を見つけるなり、溝端刑事が頭を抱えた。


「ここまで来たら、最後まで見届ける義務がある気がしてさ」


「んまあ……そうか。って、何納得してんだ俺は!? こいつはただのガキだぞ!?」


自分を叱咤する溝端刑事を横目に、俺は奥に立つ青柳さんを見た。


「やあ、颯介。来たんだね」


青柳さんがこちらに気付き、溝端刑事に、事件についての情報を俺に教えるよう命じた。


溝端刑事は「なんで俺がこいつに……」と、小声でぶつぶつ文句を垂れながらも、今回の事件について教えてくれた。




被害者の名前は「篠原由美」。


年齢は三十六歳。


かつて銀行強盗事件に関わった一人であり、そして今回の連続殺人を実行した張本人。


この女の遺体には、今までの事件と同じく、銃で撃たれた形跡があり、凶器と思われる拳銃が、遺体の傍らに落ちていた。


警察の調査で、その拳銃は、今までこの女が使用していた拳銃と同じものであることが分かったらしい。


「……自分の銃で、撃たれたのか?」


「ああ。銃弾も、これまでの事件現場で見つかったものと一致した。さらに、彼女のポケットからは盗聴の受信機も見つかった。施設長さんの部屋を盗聴していたのも、彼女で決まりだろうよ」


溝端刑事の説明を聞きながら、俺は冷たい戦慄を感じていた。


今回、亡くなったこの女が、後藤さんと大山さんを殺した犯人であることは間違いなさそうだ。


ただ、何故、女が所持していた拳銃が凶器になったのか――


俺は気になっていた。




青柳さんと溝端刑事に先に帰ると言って、俺は現場から少し離れた公園に行き、ムタをリュックから出した。


「はぁ……。いつまで経っても、この息苦しさは慣れないな……」


ムタはのそりと出てくると、入念に毛づくろいを始めた。


「ムタ、さっきの話……どう思う? 女の銃が凶器だった件。聞こえてただろ?」


「ああ、簡単なことさ。裏切りには裏切りを、だ。受信機を持っていた女が、先に隠し場所を突き止め、独り占めを企んで相棒を撃とうとした。だが、相手が一枚上手だった。返り討ち、といったところだろうな」


「なるほど……女が先に裏切ろうとしたってことか」


「ああ。そうなることを、もう一人の犯人は読んでいたんだろう」


ムタが淡々と話す一方で、俺は自分でもわからない、複雑な感情が渦巻いていた。


「颯介、どうかしたのか?」


そんな俺に気が付いて、ムタが声をかけてきた。


「今朝の女……篠原由美は、十六年前の銀行強盗事件で二人と、今回の連続殺人事件で二人、そして、もう一人を殺そうとして返り討ちにあったわけだけど……四人もの人を殺してるんだよな。そう考えると、当然の報いなんじゃないかと思ってしまう俺がいるんだ……」


「なるほどな……気持ちはわからんでもない。だが、この世に死んでもいい人間なんていないと俺は思う」


ムタは真面目に言った。


「……どうして?罪のない人を殺したとしても?それが、誰かの人生を大きく狂わせたとしても?」


「お前は、『死』だけが、償いだとでも思っているのか?」


「え……?」


「違うだろう。生きて、地を這ってでも、奪った命の重さを背負い続ける。それが本来あるべき姿だ。……命を奪うことで解決しようとする連中と同じ土俵に立つな」


ムタの言葉に、俺は自分の未熟さを突きつけられた気がした。




施設に帰ると、玄関の明かりの下で施設長が立っていた。


「颯介、おかえり。……また、寄り道をしていたのかい?」


その瞳には深い心配の色があった。


「……ああ、ちょっとな。でも、夕飯の時間には間に合ったし、いいだろ?」


「そうだね。ただ……あまり、無茶はしないでおくれよ」


施設長の手が俺の肩に置かれる。


その温かさは、嘘であってほしくないと、俺は心の底から願っていた。


「大丈夫だよ。俺一人でどうにかしようなんて、これっぽっちも思ってないし」


こんな言葉で、施設長が安心してくれるかは分からなかったが、俺はそう言って自室へ向かった。




自室のドアを開けると、幸人が机のライト一つで本を読んでいた。


「……颯介、おかえり。ニュース、見たよ。例の女性、亡くなったんだね」


幸人は本を閉じ、真っ直ぐに俺を見た。


少ない情報から、今朝亡くなったのが、十六年前の銀行強盗事件かつ今回の連続殺人事件の犯人である女性であることを推測したようだ。


「……なあ幸人。お前の親父さんを殺した女が死んだって聞いて、どう思った?」


俺の問いに、幸人は悲しげに、しかし毅然と答えた。


「……悔しいよ。すごく」


「悔しい……?」


「うん。彼女には、生きて欲しかった。生きて、僕たちがどれほど苦しんで、それでもどれほど幸せになろうとしてきたかを見せつけたかった」


幸人の瞳に宿る静かな怒り。


「なるほど、そういうことか」


「どうかしたの?」


「いや、何でもない。とりあえず、いつもサンキューな」


またしても、俺は幸人に救われた――今なら、ムタが言いたかったこともわかる気がする。




一方で、ムタは颯介と別れたあと、単独で遺体発見現場付近を調べていた。


警察の目、というか溝端刑事の目を忍んで、女の遺体のそばまでやってきた。


女は、黒いタンクトップにジーンズといった、身軽な服装だった。


颯介のリュックの中からでは、分からないことがたくさんある。


「ん?この匂い……どこかで……」


猫の超嗅覚が、微かな、しかし確かな残滓を捉える。


恐らく、銃口を向けた女の腕をひねり、銃を奪ったときにでも密着したのだろう。


その時に匂いが移ったと考えれば、納得がいく。


「……意外と近いところに潜んでいるかもしれないな」


そう思い至ったとき――


「あ、こらこら!猫ちゃんは立ち入り禁止だよ~!」


溝端刑事の猫なで声が遠くから聞こえてきて、ムタは退散することにした。




「くそ、何か掴めそうだったのに、見つかっちまったな……ん?誰かの話し声が聞こえる」


話し声のする方向へ、ムタは走った。


このあたりに住んでいる猫たちが集会を開いているようだ。


「あら、見ない顔ね」


真っ白で長毛の、綺麗な猫が言った。


「いや、オレはどこかで見たことあるぞ」


茶トラのまるまる太った猫が言った。


「急にすまない。昨日の夜、このあたりで、大きな音が聞こえなかったか?」


ムタは、藁にも縋る思いで、猫たちに尋ねた。


「ええ、聞こえたわ。花火の音みたいな――」


「ああ、確かにしたな。花火にしちゃ、おかしくないか?一回しか聞こえなかったからな」


猫たちは、銃声を聞いたようだ。


「他にも何か、聞こえなかったか?些細なことでも、なんでもいい」


ムタはさらに質問を続けた。


「ああ、そういや、花火の音がした後、車の音が聞こえたな」


犯人は、あの女を撃った後、車で逃走したということだろうか。


「あと、大きな音がする前に、人間が話しているのも聞こえたわね。低い声と、高い声が交互に聞こえた気がするわ」


低い声と高い声ということは、男と女が話していたということだろうか。


そうだとしたら、その男が恐らく、十六年前の銀行強盗事件を企てたやつに違いない。


「恩に着る!参考にさせてもらうぞ!」


ムタはそう言って、猫たちの集会を後にした。

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