裏切り
「ムタ、ちょうどよかった」
青柳さんの車を降りてすぐ、俺はいつものベンチに座るムタを見つけ、駆け寄った。
俺は今しがた見てきたあの『地獄のドライブ』と、逃げ去った女性の影について、全てムタに話した。
「ほう……マンションの下で逃走した影と、盗聴器を仕掛けた犯人は、十中八九その女というわけか」
ムタは鋭い眼光を崩さず、不自然なほど静かに聞いていた。
「何か気になることでもあんのか?」
「……やはり、盗聴器に残されたあの『シールの剥がし跡』が引っかかるな。あの女の仕事は完璧だったはずだ。車に指紋一本残さぬ奴が、なぜあんな初歩的なミスを? それに、発見されやすいコンセント型をあえて選んだのも妙だ。……仕掛けたのは、別の誰か……もう一人の『男』ではないのか?」
ムタの言葉に、俺の背筋が冷たくなる。
十六年前の強盗グループの生き残りはあと二人。
あの用意周到な女性と、大山さんの備忘録に書かれていた『首謀者の男』。
「……仕掛けたのは男で、外されたことがわかって、女の方が仕掛け直しに来た、ってことか?」
「いや……女は別の目的できたんじゃないか」
「どういうことだよ?」
「盗聴器を通じて、施設長が口にした『ガブリエル』の正体――五千万円の隠し場所がこの児童養護施設だと、確信を得たから偵察に来たのだろう」
ムタの低い声が夜の静寂に響く。
「ちょっと待て……!じゃあもう、五千万円の在りかがバレたってこと?」
「……俺の推理が正しければな。そして、ここからが本当の地獄だ」
ムタはベンチから飛び降りると、俺を見上げて言った。
――共犯であったとしても、目的が五千万円を独り占めすることならば、きっともう一人、被害者がでるだろう。
少し前に、俺とムタはそう推測していた。
「俺らの推理、間違ってるかもしれないぜ?五千万円の在りかがわかるまで、二人で協力していたわけだろ?今になって、裏切るってあり?」
俺はムタに言った。
「……俺はどちらかが、必ず裏切ると思っている」
「……どうして?」
「欲に目がくらんだ人間は、昨日までの仲間さえ平気で切り捨てるものだ。お前はまだ純粋だがな、颯介。大人になるにつれて、見たくないものまで見えてきたりするもんだ。……まあ、今のお前には酷な話だったな。忘れてくれ。そのうちわかる」
「そのうちわかる、か。……青柳さんにも、さっき同じことを言われたよ」
俺は、いつもと違う青柳さんの雰囲気を思い出し、自分の腕を抱きしめた。
「あのへらへら警部も、そんなこと言うんだな。少し意外だ」
ムタが笑いながら言った。
「お前、青柳さんのこと馬鹿にしすぎじゃね?……そう言えば、青柳さんも施設長が言った「ガブリエル」って言葉を気にしてたな。俺にも聞いてきたくらいには」
「ほう……それで、お前は何と答えた?」
「施設長が言いたくなさそうだったし、聞かなかったって。嘘をついた」
「そうか……お前、あいつのことを信頼しているようだから、てっきり話していると思ったが」
「だって約束したじゃん。暗号のことはムタと俺の二人の秘密だって」
「……フン。急になんだ。お前、かわいいところもあるじゃないか」
「か、かわいくねーし! ただ、約束を守っただけだよ!当たり前のことだろ!」
猫にかわいいと言われるのは、なんだか不思議な気分だ。
不敵に笑うムタを見ていると、少しだけ現実感が戻ってきた。
ムタと話しているうちに、もう一つの疑問が出てきた。
「なあ、ムタ……今思えば、どうして施設長の部屋に盗聴器が仕掛けられてたんだろう?まるで、施設長が何かを知っていると、犯人も知ってたみたいじゃないか?」
「それは、俺も気になってはいた。他の箇所にも複数仕掛けられていた、とかならわかるんだが、施設長の部屋にピンポイントで仕掛けられていたとなると……」
ムタも頭を抱えていた。
俺たちが気が付かないうちに、どこかから偵察されていたのだろうか。
そもそも、俺たちだって、施設長から「ガブリエル」という言葉を聞くまでは、施設長が暗号の手掛かりを握っているなんて、一切思いもしなかった。
見えそうで見えない――謎は増えていくばかりだ。
俺もムタも、胸のざわつきを簡単に消すことはできなかった。
――そして翌朝。
青柳さんからの電話によって、最悪の予感が現実となったことを知らされた。
『颯介。……例の女が今日、遺体で発見されたよ。港の近くで、射殺だ』
「……っ!」
呼吸が止まり、耳の奥でキーンという金属音が鳴り響いた。
――俺は、この事件に巻き込まれて初めて、恐怖を感じた。
昨日まで仲間だった人物を、人はこうもあっさりと、切り捨てることができるのかと。
ムタの言った通りだ――
青柳さんの声が電話越しに聞こえてくるが、内容が全く頭に入ってこない。
『颯介? 大丈夫かい?』
青柳さんの声は、いつも通り優しく、穏やかだった。
けれど、その優しい声さえも、今の俺には、凍りつくような冷気にしか感じられなかった。
「……ごめん。あとで、かけ直すよ」
俺は震える指先で電話を切って、スマートフォンをベッドに放り投げた。
視界がぐらりと揺れる。
「颯介……顔色悪いよ。何かあったの?」
いつからそこにいたのか、幸人がドアの隙間から俺を覗き込んでいた。
その穏やかな、いつもと変わらぬ眼差しに触れた瞬間、俺の中の何かが決壊した。
「幸人……」
俺は幸人の肩を強く掴んだ。
指先がガタガタと震えて止まらない。
「お前は……お前だけは、俺を裏切らないよな?」
俺の問いに、幸人は驚いたように目を見開いた。
それからすべてを包み込むような、深い慈愛を込めて微笑んだ。
「何言ってるの、颯介」
幸人は俺の震える手を、自分の手でそっと包み込んだ。
その手の温もりが、冷え切った俺の心に痛いほど染み渡る。
「何があったかわからないけど、僕が君を裏切るなんて、天地がひっくり返ってもありえないよ」
幸人は俺の瞳をじっと見つめながら、言葉を重ねた。
「もしも、僕が君を『裏切った』ように見える時があるとしたら……それはきっと、颯介を守るためかもしれないね」
その言葉は、あまりに重く、純粋な覚悟に満ちていた。
幸人は優しくはにかむと、俺の肩をポンと叩いた。




