待ち伏せ
――翌日の夜。
冷たい静寂を切り裂くように、一台の車が正門近くに滑り込んできた。
交代の時間のようだ。
溝端刑事に代わり、今夜の監視に就いたのは青柳さんだった。
「やあ、颯介。あれから変わりないかな?」
車の窓を開け、青柳さんがいつもの飄々とした笑みを浮かべて声をかけてきた。
「……ああ。不審な影はないよ。溝端刑事もしっかり見張ってくれてたし。あんなに暑苦しい見張りがいたら、犯人も寄り付かない。今回ばかりは感謝だな」
俺は努めて軽く返したが、胸の奥ではざわつきが止まらなかった。
「ははは。溝端くんにも伝えておくよ、きっと喜ぶ」
「やめてよ!恥ずかしい」
「ははっ。冗談だって」
青柳さんがニコニコ笑っている。
「立ち話もなんだ。犯人に警戒されるかもしれないし、助手席に乗らないかい? 暇つぶしに僕の世間話に付き合ってよ」
青柳さんはそう言って、ドアのロックを解除した。
俺は誘われるまま、助手席に腰を下ろした。
車内には微かに煙草とコーヒーの匂いが混じっていた。
「学校は楽しいかい?」
ふいに投げかけられたのは、あまりに平穏な問いだった。
――俺はどこかで、事件の話を期待していたのかもしれない。
「……まあ、それなりに。あと三回遅刻したら単位を落とすから、必死だよ」
「はは、相変わらず遅刻魔をやっているのかい?まあ、人間そう簡単には変われないからね。ましてや、誰かの言葉一つでなんて……ね」
その言葉の響きに、俺は背筋が冷たくなるのを感じた。
冗談のようでいて、その実、底冷えするような諦念が混じっているような……。
「言っとくけど、宣告されてからは一回しか遅刻してないかんな!てか、言い方、酷くね?」
「はは、僕はただ、本当のことを言っただけだよ。颯介もそのうちわかるさ」
この時の青柳さんはなんだか、いつもの青柳さんとは違う気がした。
「青柳さんこそ、ずっとこの仕事をしていて飽きたりしないのかよ。事件なんて、尽きないだろ」
俺が問い返すと、青柳さんは窓の外、暗闇に沈む施設を見つめながら、独り言のように呟いた。
「飽きることもあるさ。だからね……そういう時は、楽しくなることを自分で作るしかない。大人になると、そうなっていくんだよ」
「……自分で作る?」
その言葉の意味を問いただそうとした時、窓の外を見ていた青柳さんが俺の方に向き直った。
「さて……颯介。少し、踏み込んだことを聞いてもいいかい?」
「……何?」
「この前、施設長さんが例の暗号を見て『ガブリエル』と言ったことについて。君、あの後何か聞いたんじゃないか?」
心臓がドクンと跳ねた。
『この暗号のことは、俺たち二人の秘密だ』と、俺はムタと約束している。
俺は言うかどうか迷った――青柳さんはこの事件を追っている警部で、幼い頃から俺を導いてくれた憧れの人だ。
「……いや。施設長、言いたくなさそうだったし、聞かなかったよ。やっぱり気になる?」
俺は窓の外へ視線を逸らし、嘘をついた。
青柳さんには本当のことを話さないことにした――敵を欺くにはまず味方から!と、よく聞くし。
「そりゃあ、気になるさ。その暗号の先に、消えた五千万が眠っているかもしれないわけだからね。ロマンがあるじゃないか」
「でも、暗号を解いたところで、青柳さんのものにはならないだろ?」
「ははは、冗談だよ!君は本当に真面目だな」
俺たちは、それからたわいもない話をしながら、数時間過ごした。
「そう言えば、青柳さんって煙草……」
「……っ!」
青柳さんが息を呑み、前方を指差した。
「あっちだ」
施設のカーブに沿って、一台の車が静かに停車した。
中から降りてきたのは……一人の女性だった。
街灯のオレンジ色の光に照らされ、その輪郭がハッキリと浮かび上がる。
「あそこは……施設長の部屋の真下じゃないか!」
彼女は周囲を警戒しながら、塀に手をかけた。
施設長室の窓を狙っているようだ。
「早く行かなきゃ!」
俺がドアに手をかけた瞬間、青柳さんの声が車内に響いた。
「シートベルトをして! 掴まって!」
鼓膜を震わせるような爆音と共に、車が急発進した。
猛烈な重力が俺をシートに押し付け、フロントガラスが夜の闇を切り裂いていく。
ヘッドライトの光に気づいた女性は、俊敏な動作で車に飛び乗り、猛スピードで方向転換をして逃走した。
ここからは、地獄のドライブだった。
美紗が言っていた『走馬灯が見えた』という言葉を、俺は身を以て理解した。
青柳さんの運転は、もはや理性の範疇を超えていた。
「あの車も盗難車だろうね。あれを追いつめる、いい方法はないかな……」
低い声で呟く青柳さんの瞳は、獲物を追う獣のように冷酷に輝いている。
目の前に犯人がいるのだ――ここで見失うわけにはいかない。
だが、俺は限界が近づいていた。
「青柳さん……遠心力、が……気持ち悪い……っ」
「ごめん、今は耐えて!」
路地裏を縫い、信号を無視して加速する。
このままでは、犯人を捕まえる前に俺が死ぬ――
そう確信した時、俺の脳裏にムタと散歩で通った道が浮かんだ。
「青柳さん! 三つ先の信号を右折して真っ直ぐだ! 行き止まりの道がある!」
「やるじゃないか、颯介! 賭けてみるよ。先回りして袋小路に追い込む!」
タイヤが悲鳴を上げながら、車体は大きく傾き、さらに速度を増した。
「……まいったね。見失ってしまった」
たどり着いた袋小路。
そこには、女性の車の影さえも残っていなかった。
青柳さんはステアリングを叩き、深いため息をついた。
俺は車を降りるなり、地面に膝をついて激しく咳き込んだ。
二度と、もう二度と青柳さんの車に乗るもんか――
「……でも、収穫はあったよ。施設長さんの部屋に盗聴器を仕掛けたのは、十中八九あの女性だろうね」
青柳さんの言葉に、俺は荒い息を吐きながら同意した。
盗聴器が外されたことは、盗聴していた本人にしか分からないはずだ。
「ああ。大山さんのマンションの下にいたのも、きっと同じ人物だ。あの神業みたいなハンドルさばき……間違いない」
「素晴らしいよ、颯介。僕も同意見だ。ただ、もう盗聴器を仕掛け直しに来ることはなくなるかもね。さて、次はどうやって、彼女をおびき出そうか」
青柳さんは笑っていた。
その笑みが、少し不気味に見えたのは内緒の話だ。
地獄のドライブのせいで、施設から少し離れてしまったため、青柳さんにそのまま施設まで送ってもらった。
青柳さんは普通の運転ができないわけではない、ということは、一応ここで言っておこう。
施設へと戻る帰り道、車内は静まり返っていた。
『楽しいことを自分で作る』。
青柳さんのあの言葉の意味を、俺なりに考えていた。
「じゃあ、またね。颯介。何かあったら、すぐに連絡して」
俺を降ろすと、青柳さんは何事もなかったかのように、車で夜の闇へと去っていった。
「……随分と遅かったな。何か収穫はあったか?」
いつものベンチに、ムタが座っていた。
その鋭い双眸は、俺の動揺を完全に見透かしているようだった。




