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満月の夜に猫は微笑む  作者: 涼木あきこ
30/50

待ち伏せ

――翌日の夜。


冷たい静寂を切り裂くように、一台の車が正門近くに滑り込んできた。


交代の時間のようだ。


溝端刑事に代わり、今夜の監視に就いたのは青柳さんだった。


「やあ、颯介。あれから変わりないかな?」


車の窓を開け、青柳さんがいつもの飄々とした笑みを浮かべて声をかけてきた。


「……ああ。不審な影はないよ。溝端刑事もしっかり見張ってくれてたし。あんなに暑苦しい見張りがいたら、犯人も寄り付かない。今回ばかりは感謝だな」


俺は努めて軽く返したが、胸の奥ではざわつきが止まらなかった。


「ははは。溝端くんにも伝えておくよ、きっと喜ぶ」


「やめてよ!恥ずかしい」


「ははっ。冗談だって」


青柳さんがニコニコ笑っている。


「立ち話もなんだ。犯人に警戒されるかもしれないし、助手席に乗らないかい? 暇つぶしに僕の世間話に付き合ってよ」


青柳さんはそう言って、ドアのロックを解除した。


俺は誘われるまま、助手席に腰を下ろした。


車内には微かに煙草とコーヒーの匂いが混じっていた。


「学校は楽しいかい?」


ふいに投げかけられたのは、あまりに平穏な問いだった。


――俺はどこかで、事件の話を期待していたのかもしれない。


「……まあ、それなりに。あと三回遅刻したら単位を落とすから、必死だよ」


「はは、相変わらず遅刻魔をやっているのかい?まあ、人間そう簡単には変われないからね。ましてや、誰かの言葉一つでなんて……ね」


その言葉の響きに、俺は背筋が冷たくなるのを感じた。


冗談のようでいて、その実、底冷えするような諦念が混じっているような……。


「言っとくけど、宣告されてからは一回しか遅刻してないかんな!てか、言い方、酷くね?」


「はは、僕はただ、本当のことを言っただけだよ。颯介もそのうちわかるさ」


この時の青柳さんはなんだか、いつもの青柳さんとは違う気がした。


「青柳さんこそ、ずっとこの仕事をしていて飽きたりしないのかよ。事件なんて、尽きないだろ」


俺が問い返すと、青柳さんは窓の外、暗闇に沈む施設を見つめながら、独り言のように呟いた。


「飽きることもあるさ。だからね……そういう時は、楽しくなることを自分で作るしかない。大人になると、そうなっていくんだよ」


「……自分で作る?」


その言葉の意味を問いただそうとした時、窓の外を見ていた青柳さんが俺の方に向き直った。


「さて……颯介。少し、踏み込んだことを聞いてもいいかい?」


「……何?」


「この前、施設長さんが例の暗号を見て『ガブリエル』と言ったことについて。君、あの後何か聞いたんじゃないか?」


心臓がドクンと跳ねた。


『この暗号のことは、俺たち二人の秘密だ』と、俺はムタと約束している。


俺は言うかどうか迷った――青柳さんはこの事件を追っている警部で、幼い頃から俺を導いてくれた憧れの人だ。


「……いや。施設長、言いたくなさそうだったし、聞かなかったよ。やっぱり気になる?」


俺は窓の外へ視線を逸らし、嘘をついた。


青柳さんには本当のことを話さないことにした――敵を欺くにはまず味方から!と、よく聞くし。


「そりゃあ、気になるさ。その暗号の先に、消えた五千万が眠っているかもしれないわけだからね。ロマンがあるじゃないか」


「でも、暗号を解いたところで、青柳さんのものにはならないだろ?」


「ははは、冗談だよ!君は本当に真面目だな」


俺たちは、それからたわいもない話をしながら、数時間過ごした。




「そう言えば、青柳さんって煙草……」


「……っ!」


青柳さんが息を呑み、前方を指差した。


「あっちだ」


施設のカーブに沿って、一台の車が静かに停車した。


中から降りてきたのは……一人の女性だった。


街灯のオレンジ色の光に照らされ、その輪郭がハッキリと浮かび上がる。


「あそこは……施設長の部屋の真下じゃないか!」


彼女は周囲を警戒しながら、塀に手をかけた。


施設長室の窓を狙っているようだ。


「早く行かなきゃ!」


俺がドアに手をかけた瞬間、青柳さんの声が車内に響いた。


「シートベルトをして! 掴まって!」


鼓膜を震わせるような爆音と共に、車が急発進した。


猛烈な重力が俺をシートに押し付け、フロントガラスが夜の闇を切り裂いていく。


ヘッドライトの光に気づいた女性は、俊敏な動作で車に飛び乗り、猛スピードで方向転換をして逃走した。




ここからは、地獄のドライブだった。


美紗が言っていた『走馬灯が見えた』という言葉を、俺は身を以て理解した。


青柳さんの運転は、もはや理性の範疇を超えていた。


「あの車も盗難車だろうね。あれを追いつめる、いい方法はないかな……」


低い声で呟く青柳さんの瞳は、獲物を追う獣のように冷酷に輝いている。


目の前に犯人がいるのだ――ここで見失うわけにはいかない。


だが、俺は限界が近づいていた。


「青柳さん……遠心力、が……気持ち悪い……っ」


「ごめん、今は耐えて!」


路地裏を縫い、信号を無視して加速する。


このままでは、犯人を捕まえる前に俺が死ぬ――


そう確信した時、俺の脳裏にムタと散歩で通った道が浮かんだ。


「青柳さん! 三つ先の信号を右折して真っ直ぐだ! 行き止まりの道がある!」


「やるじゃないか、颯介! 賭けてみるよ。先回りして袋小路に追い込む!」


タイヤが悲鳴を上げながら、車体は大きく傾き、さらに速度を増した。




「……まいったね。見失ってしまった」


たどり着いた袋小路。


そこには、女性の車の影さえも残っていなかった。


青柳さんはステアリングを叩き、深いため息をついた。


俺は車を降りるなり、地面に膝をついて激しく咳き込んだ。


二度と、もう二度と青柳さんの車に乗るもんか――


「……でも、収穫はあったよ。施設長さんの部屋に盗聴器を仕掛けたのは、十中八九あの女性だろうね」


青柳さんの言葉に、俺は荒い息を吐きながら同意した。


盗聴器が外されたことは、盗聴していた本人にしか分からないはずだ。


「ああ。大山さんのマンションの下にいたのも、きっと同じ人物だ。あの神業みたいなハンドルさばき……間違いない」


「素晴らしいよ、颯介。僕も同意見だ。ただ、もう盗聴器を仕掛け直しに来ることはなくなるかもね。さて、次はどうやって、彼女をおびき出そうか」


青柳さんは笑っていた。


その笑みが、少し不気味に見えたのは内緒の話だ。




地獄のドライブのせいで、施設から少し離れてしまったため、青柳さんにそのまま施設まで送ってもらった。


青柳さんは普通の運転ができないわけではない、ということは、一応ここで言っておこう。


施設へと戻る帰り道、車内は静まり返っていた。


『楽しいことを自分で作る』。


青柳さんのあの言葉の意味を、俺なりに考えていた。


「じゃあ、またね。颯介。何かあったら、すぐに連絡して」


俺を降ろすと、青柳さんは何事もなかったかのように、車で夜の闇へと去っていった。



「……随分と遅かったな。何か収穫はあったか?」


いつものベンチに、ムタが座っていた。


その鋭い双眸は、俺の動揺を完全に見透かしているようだった。


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