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満月の夜に猫は微笑む  作者: 涼木あきこ
29/50

盗聴器

バスを降りてからの道のりは、生きた心地がしなかった。


楽しかったはずの遊園地の記憶は、あの電話のノイズ一つで塗り潰された。


俺たちは一言も発することなく、夜の帳が下りた施設へと駆け込んだ。


「施設長!!!!!」


俺は玄関の鍵を開けるなり、迷わず施設長室へと走り、ドアを乱暴に開けた。


「颯介? 幸人に美紗、みゆき先生まで……どうしたんだい、そんなに血相を変えて」


机に向かっていた施設長は、穏やかな顔で俺たちを迎え入れた。


その『いつも通り』の光景に、俺の心臓はさらに激しく打ち付ける。


ここが、俺たちの聖域が、何者かに『聞かれている』かもしれないのだ。


しまった――今の会話も聞かれてしまっただろうか。


「施設長。さっきの電話、この部屋で出た?……それと、この部屋のコンセントはいくつある?」


俺は震える声を抑え、至近距離まで近づいて耳打ちした。


「え? ああ、さっき電話くれたときは、この部屋で出たよ。……コンセント? この机の下と、ベッドの裏に一つずつあるが……それがどうかしたのかい?」


施設長は困惑しながらも、俺の尋常でない気配を察し、同じように声を潜めてくれた。


俺はポケットからハンカチを取り出した。


指紋を残さないため、そして何より、得体の知れない悪意に直接触れるのが怖かったから。


机の下のタップを確認し、次にベッドをずらして、壁のコンセントに手をかける。


「……あ」


施設長が、ベッド裏の三口タップを見て声を漏らした。


「こっちの机の下のものは私が買ったものだが……そのベッドの裏のやつは、備え付けた覚えがないな……」


俺は息を止めて、ハンカチでそのタップ掴み、慎重に引き抜いた。


タップの裏側を見ると、そこには不自然な糊の跡があった。


「……シールを剥がした跡だ」


俺は心臓が口から飛び出しそうなのをこらえ、ゆっくりと、何事もなかったかのようにタップを元の位置へ挿し直した。


「颯介……?」


背後で立ち尽くす幸人や美紗に、俺は唇に人差し指を立てて『喋るな』と合図した。


この壁の外側、あるいはもっと遠い場所で、誰かが俺たちの吐息さえも拾っている。


そう思うと、背筋に氷を押し当てられたような寒気が走った。


「……これは盗聴器だ」


俺は、ジェスチャーでみんなを近くに呼び、囁くように言った。


「今、これを壊せば、仕掛けた犯人に俺たちが気づいたことがバレる。そうなった場合、何が起こるかわからない。このまま、気づかないフリをしよう。明日の朝一番で、青柳さんを呼ぶ」


一瞬、施設長は苦虫を噛み潰したような険しい表情を浮かべたが、盗聴器を仕掛けられているとなれば話は別――


施設長は深く頷き、俺の判断を受け入れた。




俺たちは出来るだけ音を立てないように、施設長室を出た。


廊下の冷たい空気に触れて、ようやく呼吸が少しだけ楽になった気がした。


俺はすぐに青柳さんにメッセージを送り、明朝の来訪を約束させた。


「施設長、今夜は俺たちの部屋で一緒に寝るか?」


「あんなものがある部屋で寝るのは、気持ち悪いでしょ?」


俺と幸人は必死に訴えたが、施設長は寂しげに微笑んで首を振った。


「ありがとう。でも、私が部屋を空けたら、それこそ不自然だ。……私は大丈夫だよ。いつも通りの一日を演じるだけさ。それより君たち、今日は遊び疲れただろう? 明日のためにゆっくり休みなさい」


施設長はそう言って、再び自室へと戻っていった。


その背中は、どんな時よりも孤独で、少し危うく見えた。




「美紗、大丈夫か?」


今にも倒れそうなほど青ざめている美紗に、俺は努めて明るい声で話しかけた。


「大丈夫よ、颯介。盗聴器のことは明日、青柳さんに何とかしてもらえるのよね。……それと、今日は本当に楽しかったわ。ありがとう。おやすみなさい」


美紗はそう言って、自分の部屋へと入っていった。


美紗を見送った後、俺たちも部屋に戻った。


「また、変なことになったね」


「ああ……何事もなければいいんだけど……」


「何かあったら、相談してよ?僕たちは家族も同然、なんでしょ?」


幸人は微笑みながら、そう言った。


「ははっ。そうだな。いつもサンキュー、幸人」


つい数時間前まで、遊園地で笑い合っていた光景が、遠い昔のことのように思えた。



俺は一旦、外の空気を吸ってくると言い、暗い庭へと出た。


茂みの奥で光る二つの瞳……ムタだ。


お土産の約束なんて、今は頭の片隅にもなかった。


「ムタ!」


「颯介、ようやく帰ったか。……ほう、何か面白い手土産を持って帰ったようだな」


ムタは俺の顔を見るなり、すべてを察したように瞳を細めた。


「施設長の部屋に盗聴器が仕掛けられてた。しかも、コンセントの裏にシールを剥がした跡があったんだ。盗聴器によくある、チャンネル名を示すシールを剥がしたんだと思う」


俺はムタに、今日起きた出来事を一気にまくしたてた。


「……なるほど、まずいな。あの部屋での会話――特に施設長の『昔話』を聞かれていた可能性はあるか?」


「ああ。あの暗号が解かれてしまうかもしれない。……やっぱり、あの仮面の女の仕業かな?」


ムタは前足で器用に耳の後ろを掻いた。


「颯介。……例の女は、極めて用意周到だ。逃走車両に指紋や髪の毛一本残さないほどに。……そんなやつが、タップの裏にシールの跡を残すようなヘマをすると思うか?」


「それもそうだな……」


俺はムタの言葉を聞いて、納得した。


「正面からは防犯装置が作動するはずだから、窓から侵入して仕掛けている途中で施設長が戻ってきた。慌てて取り付けて、また窓から脱出した。これだったらシールの跡についてはあまり気にならないけど……」


「例の女だとしたら、ここに来る前にしっかり剥がすだろうよ」


「……どういうことだよ。わざと残したってのか?」


「あるいは、仕掛けたのが『別の誰か』であるか……。少なくとも、あの女の完璧主義とは矛盾するな。まあ、明日あのへらへら警部が来るんだろ?あいつにしっかり後始末をさせることだ」


ムタは夜の闇に同化するように、音もなく塀の上へ跳び上がった。


「俺もしばらくはこの施設を重点的に見張ってやる。……安心しろ」


ムタなりの不器用な励ましを感じ、俺は小さく笑った。




――翌日。


朝を告げる小鳥のさえずりが、これほど疎ましく感じたことはなかった。


約束の時間、青柳さんと、いつもの仏頂面をした溝端刑事が施設に現れた。


「またお前か……。っていうか、お前も何かと大変な奴だな」


溝端刑事が、いつになく同情を含んだ声を漏らした。


「別に、溝端刑事に同情される筋合いはないよ。……早く、調べてくれ」


「ふん。相変わらず可愛くないな」


「そりゃどうも」


「褒めたわけではないんだがな……!?」


「はいはい、そこまで。……颯介、盗聴器はどこに仕掛けられていたんだい?」


青柳さんの表情はいつものように飄々としていたが、その瞳は笑っていなかった。


「……施設長の部屋だよ」


青柳さんの表情が少しだけ曇った。


「施設長さんの部屋か……案内してくれるね?」




俺は施設長室へ、青柳さんと溝端刑事を案内した。


施設長は席を外しているようだ。


――恐らく、青柳さんがここへ来ることを知っていたからだろう。


「颯介、施設長さんから何か聞いてる?」


青柳さんが俺に小声で聞いた。


「……ベッドの裏のタップ、心当たりがないってさ。それから、裏に糊の跡があった」


溝端刑事が手慣れた手つきで証拠品袋を取り出し、例のタップを回収した。


「……あとは任せてほしい。盗聴器が外されたと知れば、犯人は焦る。必ず次のアクションを起こすはずだ。……今晩から、僕と溝端くんが交代でこの施設を見張ることにするよ」


青柳さんのその言葉を聞いて、ようやく俺の肩の力が少しだけ抜けた。




青柳さんと溝端刑事が帰って暫くすると、施設長が帰ってきた。


どこかに出かけていたようだ。


俺は施設長に、警察が暫く見張ってくれることになった旨を伝えた。


「そうか……でも、私の大事な子供たちに危害が加わるのは避けたいからね……」


施設長はまた渋い顔をしている。


「俺らはもう子供じゃないよ」


「あはは、そうだったね」


そう言うと、施設長はいつもの笑顔に戻った。




夜になると、溝端刑事がやってきて、施設の傍に車をつけた。


約束通り、児童養護施設に不審人物が侵入しないか見張ってくれているようだ。


それから暫くして、ムタが施設の庭にやってきた。


俺は、溝端刑事には見えない場所から手招きをして、ムタにいつものベンチに来るよう促した。


「どうなった?盗聴器は」


「溝端刑事が取り外したよ。盗聴器が外されたことを知った犯人がまた仕掛けに来るかもしれないから、今晩から暫くの間、見張ってくれるってさ」


「そうか。あの暑苦しい刑事が見張っているなら、下手な真似はできんな」


ムタは不満げに鼻を鳴らした。


「ムタ、本当は……施設長が心配なんだろ?」


「ふん。男爵として、飯の礼をするだけのことよ」


ツンとそっぽを向くムタを見つめた後、俺は夜空を見上げた。


守らなきゃいけない――この場所も、ここにいる人たちも。


闇の中で光るムタの瞳だけが、この夜の不気味な静寂を切り裂いていた。

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