日常
先生の追撃を振り切るように全力で走り、たどり着いた玄関。
開け放たれたドアの隙間から滑り込み、俺は荒い呼吸を整えた。
ここが俺の家――物心がつく前から、俺はこの児童養護施設で生活している。
「両親」という概念を知識としては知っていても、その温もりは知らない。
それでも、今の生活に特に不自由はなかったし、耐えがたいほどの孤独を感じることもなかった。
ここには気心の知れた仲間たちがいて、親代わりとして慕える大人たちがいる。
――ただ、ふとした瞬間に「本当の親」という言葉が耳に入ると、胸の奥がチクリと痛むこともある。
この施設の居室は、基本的に二人一組。
自室のドアを開けると、使い込まれた二段ベッドの梯子に、いつものように腰を下ろした。
「……何かあった?」
ノートから視線を上げ、心配そうにこちらを見つめる細身の少年。
俺と同い年で、ルームメイトの『幸人』だ。
彼は、十六年前に起きた凄惨な銀行強盗事件で、命を落とした銀行員の息子だと聞いている。
母親も幼い頃に病で亡くし、俺よりも後にこの施設へやってきた幸人は、持ち前の穏やかさと優しさで、すぐに周囲の子供たちに受け入れられた。
「なぁ、幸人。猫が喋ったらさ、どうする?」
俺は気が付くと、幸人にそう問いかけていた。
「颯介……海外ドラマの見過ぎで脳が疲れてるんじゃない?今日はもう、早く寝た方がいいよ」
基本は優しいのだが、たまに厳しいことも言ってくれる――俺には特に。
優しいだけではなく、そういう面があるからこそ、俺は幸人を信頼している。
「食事当番だから、先に行ってるよ」
幸人は苦笑いを残して、部屋を出ていった。
食事、片付け、風呂掃除――この施設では全ての家事が当番制だ。
夕飯の時間は、全校生徒ならぬ全入居者が一堂に会する。
食堂は、いつも爆発したような賑やかさに包まれる。
「ごはんできたよ!」という幸人の声を合図に、俺はいつもの定位置に腰を下ろした。
「……颯介、何か変よ?」
隣の席から俺の顔を覗き込んできたのは、透き通るような色白の少女『美紗』だ。
彼女も俺や幸人と同い年だが、俺と同じく両親の顔を知らない。
いや、彼女の場合は「知りたがらない」という意思を感じる。
赤ん坊の頃から、ずっと隣で育ってきた美紗。
極端に引っ込み思案で、感情を内側に閉じ込めてしまう彼女を、俺は放っておけなかった。
いつか、彼女も自らのルーツに目を向ける日が来るのだろうか。
「なぁ美紗、猫って……喋ると思う?」
美紗は大のオカルトフリークだ。
この手の話題に彼女が乗らないはずがない。
「そうね……。猫には九つの命があるって、昔から言うでしょう?」
「それって、つまり……?」
「言葉を操る個体がいても、何ら不思議ではないわ」
箸を止めて真剣に答える美紗。
求めていた答えとは少し違う気がするが、彼女らしい。
学校の怪談や古くからの迷信を、心から信じている純粋なところがある。
「誰かに簡単に騙されるんじゃないか……」と、俺がいつも美紗を気にかけている理由は、ここにある。
「颯介くん、手が止まってるわよ」
凛とした声で促したのは、この施設で働く『みゆき先生』だ。
彼女がここに来たのは、俺たちが小学生になる少し前。
大人の女性に免疫がなかった当時の俺は、あまりの美しさに照れてしまい、なかなか懐こうとしなかったそうだ。
今では、時には厳しく、時には温かく俺たちを見守ってくれる、母親のような存在だ。
彼女の胸元には、いつも決まってシンプルなシルバーのペンダントが光っている。
幼い頃、無邪気に触れようとして、ひどく真剣な顔で叱られた記憶がある。
それは彼女にとって、魂の一部のような「大切なもの」なのだ。
ちなみに、年齢の話は禁句だ。
冗談でも触れれば、その日の夕食がいくら豪華だったとしても喉を通らなくなるほど叱られる。
陰ではこっそり『美魔女』なんて呼んでいるが、本人の前では死んでも言えない。
「美魔……じゃなくて。みゆき先生、もし喋る猫がいたら、信じる?」
危うく口を滑らせそうになりながら、俺は尋ねた。
「うーん。そんな猫とお喋りできたら、きっと楽しいでしょうね」
彼女は食器を片付けながら、優雅に微笑んだ。
「だよねぇー。」
俺はそれ以上は聞かなかった。
「どうした、颯介。今日はおかわりをしないのかい?」
『施設長』が、声をかけてきた。
いつも茶碗を空にして真っ先に炊飯器へ向かう俺が、座ったままでいるのを不思議に思ったのだろう。
彼は、俺や美紗、幸人を赤ん坊の頃から育ててくれた恩人だ。
その深い慈愛に満ちた人柄を、施設にいる誰もが慕い、「お父さん」のように頼りにしている。
年齢はまだ30代と若いが、その包容力は計り知れない。
「施設長。猫って、喋れると思う?」
「……伝えよう、読み取ろう。お互いにそう願えば、いつか言葉の壁を越えて意思疎通ができるのかもしれないね」
一瞬、施設長が目を丸くしたのを俺は見逃さなかったが、施設長らしい優しい返答だ。
いつも、否定はせず、別の形で肯定してくれる。
結局、俺はみんなにどんな回答を求めていたのだろう?
「猫は喋れるものだよ!」……と、誰かがハッキリ言ってくれないかな、とでも思っていたのだろうか?
同じ質問をし過ぎて、自分の意図がよくわからなくなってきた。
そして、俺にはもう一人、憧れという言葉では足りないほど、大きな存在がいる。
俺の物心がつく頃からこの施設を訪れ、忙しい合間を縫って遊んでくれる『青柳さん』だ。
彼は警視庁の優秀な警部であり、容姿端麗、頭脳明晰。
「エリート」という言葉を擬人化したような、完璧な男。
だが、どこか超然としたマイペースさを持っているのが、玉に瑕。
「職場に近いから」という理由で頻繁に顔を出し、子供たちの目線まで降りてきてくれる。
彼にはかつて、伝説的に優秀だった『赤川』という相棒がいたそうだ。
十数年前に殉職してしまったというその相棒の話を、青柳さんはよく話してくれた。
俺はその英雄譚に目を輝かせ、いつしか彼のような警部になることを夢見るようになっていた。
幼い頃、施設長に頼み込んで推理小説を買い与えられ、寝食を忘れて読みふけった。
みんなを巻き込んで「探偵ごっこ」に明け暮れたのも、今となってはいい思い出だ。
――その中心には、いつも青柳さんの穏やかな笑顔があった。
「あれ?颯介、いつもと様子が違うけど、どうかしたのかい?」
背後から、凛とした、それでいてどこか冷涼な秋風のような声が響いた。
振り返ると、そこには完璧な仕立てのスーツを纏い、いつもの涼やかな笑みを湛えた青柳さんが立っていた。
その瞳には、静かな光が宿っている。
この人がいれば、俺は何も怖くない。
――そう、俺は両親がいなくて「寂しい」なんて、思ったことは一度もないんだ。




