日常
先生から逃げるように走って帰宅した俺は、玄関で呼吸を整えた。
俺は、物心がつく前から児童養護施設で生活をしている。
両親のことは何も知らないが、今のところは特に不自由もなければ、寂しくもない。
友達もたくさんいるし、親のように慕っている人たちもいる。
――時折、「本当の親」という言葉に、敏感になることもあるけれど。
この児童養護施設にある部屋は、基本的に二人で一部屋を使うことになっている。
俺は自分の部屋に戻り、二段ベッドの梯子に腰を掛けた。
「何かあったの?」
心配そうにこちらを見ている細身の男は、俺と同い年で、同じ部屋を使っている『幸人』だ。
十六年前の銀行強盗事件で、撃たれて亡くなってしまった銀行員の息子だそうだ。
母親は、幸人が幼い頃に病死しており、俺よりも後にこの施設へやってきた。
幸人は思いやりがあって、とても優しい性格で、すぐに俺を含む他の子供たちとも打ち解けた。
「なぁ、幸人。猫が喋ったらさ、どうする?」
俺は気が付くと、幸人にそう問いかけていた。
「颯介……海外ドラマの見過ぎで寝不足なんじゃない?今日は早く寝た方がいいよ。」
基本は優しいのだが、たまに厳しいことも言ってくれる――俺には特に。
優しいだけではなく、そういう面があるからこそ、俺は幸人を信頼している。
「食事当番だから、先に行ってるよ。」
幸人はそう言って、部屋を出ていった。
この施設では、食事の準備と片付け、お風呂の準備や掃除など、全てが当番制になっている。
また、食事の時間は、基本的に全員が集合することになっているため、賑やかになる。
ご飯ができたと幸人に呼ばれ、俺はいつもの席に座った。
「颯介、どうしたの?」
俺の顔を覗き込むようにして見る色白の女は『美紗』だ。
彼女も、俺や幸人と同い年である。
そして、俺と同じで両親のことを知らない。
というより、知りたがらない、と言うべきか。
思えば、美紗はいつも俺の隣にいた気がする。
ずっとこの施設で、一緒に育ってきたから。
美紗は引っ込み思案な性格で、自分の気持ちをあまり表に出さない。
俺は何かと美紗を気にかけていた気がする。
彼女にもいつか、両親のことを知りたいと思う時が来るのだろうか。
「なぁなぁ美紗、猫って喋ると思う?」
それと、美紗は大のオカルト好きである。
この手の質問に、食いつかないわけがないと俺は思った。
「そうね……猫には九つの命があるって言うものね。」
「それって、つまり?」
「喋っても、おかしくないと思うわ。その猫ちゃん、何回目の命なのかしら。」
俺の欲しかった回答が得られたかどうかは別として、ちゃんと質問には答えてくれた。
美紗は、学校の七不思議とか、迷信とかを信じるタイプでもある。
そういうところも相まって、誰かに騙されないだろうか…と、俺は美紗をいつも気にかけている。
「颯介くん、まだご飯残ってるけど、もう食べないの?」
そう声をかけてくれたのは、この施設で働く『みゆき先生』だ。
みゆき先生がここにやってきたのは、俺たちが小学生にあがった頃だった。
すごく綺麗で、色白で、大人の女性を見慣れていなかった当時の俺は、なかなか懐かなかったらしい。
当時はただ、照れていただけだと思うけれど、今となっては母親のような存在とも言える。
みゆき先生は、いつも同じペンダントをしている――シルバーのシンプルなデザインのペンダント。
一度、触ろうとしてしまったことがあり、軽く怒られたのを覚えている。
とても大切なものだと言っていた。
それともう一つ、年齢を聞くとすごく怒るので注意が必要だ。
ここだけの話だけど、みゆき先生がいないところで俺は、先生のことを『美魔女』と呼んでいる。
「美魔…みゆき先生は、喋る猫がいたら信じる?」
たまに、本人に言ってしまいそうになることがあるから気を付けないと。
「うーん、そんな猫がいたら、嬉しいわね。」
美魔女は、残ったご飯の片付けをしながら言った。
「だよねぇー。」
俺はそれ以上は何も言わなかった。
「颯介、今日はご飯のおかわり、しなかったのかい?」
いつも必ず、ご飯をおかわりする俺が、おかわりしなかったことに驚いた施設長が声をかけてきた。
施設長は、俺や美紗、幸人を幼い頃からずっと育ててくれた恩人であり、俺にとって父親のような存在だ。
子供好きで、穏やかな施設長のことを、この施設にいる子供たち全員が大好きで、慕っている。
歳はまだ若い――確か、俺の記憶が正しければ、三十代だったはずだ。
「施設長、猫って喋れると思う?」
「……伝えよう、読み取ろうとお互いに思えば、意思疎通はできるのかもしれないね。」
施設長が一瞬、目を丸くしたのを俺は見逃さなかった。
しかし、施設長らしい優しい返答――否定もせず、別の形で肯定してくれる。
結局、俺はみんなにどんな回答を求めていたのだろう?
猫は喋れるものだよ!……と、誰かがハッキリ言ってくれないかな、とでも思っていたのだろうか?
同じ質問をし過ぎて、自分の意図がよくわからなくなってきた。
それと、俺にはもう一人、父親のような存在がいる。
俺の物心がつく頃から、この施設に顔を出し、遊んでくれた『青柳さん』だ。
青柳さんは優秀な警部であり、容姿端麗、頭脳明晰、「エリート」という単語が最も似合う人。
でも、マイペースなところが玉に瑕。
昔から子供が好きで、警視庁の近くだからという理由でこの施設に通い、子供たちと遊んでくれているらしい。
かつて、十数年前に殉職した「赤川」という優秀な刑事とバディを組んでいたという。
青柳さんは昔から、その話をよくしてくれたし、俺も好きでいつも聞かせてもらっていた。
その影響か、俺は青柳さんのような警部になるのが将来の夢となっていた。
幼い頃、施設長にねだって推理小説を買ってもらい、読み漁っていた時期もあった。
みんなで探偵ごっこをするのも好きだったっけ――今思えば、楽しんでいたのは俺だけだったかもしれない。
「あれ?颯介、いつもと様子が違うけど、どうかしたのかい?」
青柳さんが今日も遊びに来たみたいだ。
――そんなこんなで俺は、両親がいなくて「寂しい」と思ったことは一度もない。




