敬愛
これまでに起きた出来事を反芻しながら宿題を片付けたせいで、俺は酷い寝不足のまま校門を潜った。
重い瞼を擦りながら、なんとかすべての授業をやり過ごした。
教科書のテキストが滑っていく中で、どうしても頭をよぎるのは、旧校舎の裏で聞いた市川先生の声だ。
「おい、大丈夫か?」
放課後の教室、荷物をまとめていると、市川先生が不意に声をかけてきた。
げっそりした俺の顔を覗き込むその瞳は、どこか不安そうに見えた。
「……ああ。先生。いや、ちょっと驚いたんすよ。宿題、思った以上にあったから」
「あれは前から出していたものだ。溜め込んで一日でやろうとする方が悪い」
「ははっ。それを言われたら、もう何も言い返せないっすね」
俺がいつものように茶化して笑うと、先生は僅かに口角を上げ、しかしすぐにまた険しい表情に戻った。
「……なぁ、最近、何かあったのか?」
「え……」
心臓がドクンと跳ねる。
あの電話のことが脳裏をかすめる。
「まぁ……何もないと言ったら、嘘になりますね」
正直に答えた。
先生を試したい気持ちと、どこかで救いを求めている気持ちが混ざり合っていた。
「話したくないなら無理には聞かん。だが、これだけは覚えておけ。一人で担ごうとするな。お前はまだ、ただの高校生なんだからな」
先生の言葉は、教師としての忠告以上の、切実な警告のように響いた。
『これ以上近づかせるのは危険だ』。
人気のない旧校舎の裏で電話をしていた市川先生の声がリフレインする。
この人の目的は何だ――?
俺を事件から遠ざけることで、何かから守ろうとしてくれているのだろうか?
それとも――
「……ありがとう、ございます」
俺はそれだけ言って、逃げるように教室を後にした。
ふと振り返ると、先生はまだ誰もいない教室で、窓の外のどんよりとした空を見つめていた。
(……この後、また誰かに電話するんだろうか)
そんな疑念を振り払うように、俺は急いで階段を降りた。
下駄箱の前で幸人たちと合流し、校門を出て暫く歩いていると、不意に路地裏から聞き慣れた低い声が聞こえてきた。
「颯介、ちょっといいか」
ムタだ。
「わりぃ、幸人! ちょっと忘れ物した! 先に帰っててくれ!」
「え? あ、うん。また後でね」
幸人は何かを察したように頷き、友人たちと一緒に去っていく。
俺はムタの待つ薄暗い路地裏へと滑り込んだ。
「どうしたんだ?施設長と青柳さんのこと、何か進展があったとか?」
「いや、その件は昨日の今日だ。まだ何も進展はない」
ムタの様子がおかしい。
いつもの威勢の良さがなく、尻尾が力なく垂れている。
「じゃあ何だ? 何か、話したいことがあるんだろ?」
俺が促すと、ムタは絞り出すようにぽつりぽつりと話し出した。
「……夢の続きを見た。十六年前、あの銀行で倒れていた妊婦……あれは、やはり俺の妻だった。彼女は、あの日を境に心身を削り、それでもお腹の子を守ることだけを考えていた。……自分が死ぬかもしれないと分かっていながら、彼女は産むと言い張ったんだ。……母親という生き物は、どうしてあんなに強くなれるんだろうな」
ムタはひどく悲しげに、自分の小さな前足を見つめていた。
「まだ、続きがあるんだろ?」
俺の問いに、ムタは微かに震えた。
ムタはこれ以上、話したくなかったのかもしれない。
だが、俺は聞いてあげなければならないような気がした。
かつて、一人の「人間」として生きていた彼の痛みを。
「ああ……。俺の妻は、子供を産んで間もなく死んだ。……俺は、最期に立ち会えなかった。駆けつけた時には、ただ元気に泣きわめく赤ん坊と、冷たくなった妻がいた。……悲しみよりも、自分への怒りで震えたよ」
沈黙が路地裏を支配した。
俺は、かけるべき言葉が見つからなかった。
ムタが思い出したのは、あまりにも重すぎる記憶だった。
「……なぁ、颯介。その子……俺の息子は今、どこでどうしているんだろうな。お前は、今まで……『寂しい』と思ったことはあるか?」
その問いが、鋭く俺の胸に刺さった。
ムタの息子であり、十六年前に生まれた男の子。
「……俺はさ。施設長や幸人たちがいたから、寂しいなんて思ったことなかった。でも、本当のことを知ったとき……胸の奥が空っぽになった気がしたんだ。それを『寂しさ』って呼ぶなら、それが初めて、寂しいと思ったときだよ」
「そうか……。俺の息子もどこかでお前のように、温かいと思える場所にいればいいんだがな」
ムタはそう言って、俺をじっと見つめた。
その瞳には、深い慈しみが宿っているように見えた。
「ムタと、その強い奥さんの間に生まれた子だろ? そんなの、強い子に決まってるじゃん。きっと、笑って生きてるよ」
「……はは。そうだな。颯介、ありがとう」
ムタは少しだけ、いつもの不敵な笑みを取り戻した。
「そうだ、大事なことをまだ言っていなかった」
「まだあるのかよ? 重い話はお腹いっぱいだぜ」
俺は照れ隠しに軽く受け流そうとした。
「前に話しただろ? 俺が『みんなのヒーロー』だったらしいって話だ」
「ああ、確かにそんなこと言ってたな。で、何だったんだよ。漫画の主人公にでもなってたか?」
「驚くなよ。……俺、刑事だったらしい」
ムタの言葉に、俺の思考が一時停止した。
「……刑事?」
「そうだ。それも、十六年前の強盗事件を追っていた担当刑事の一人だ。……あの時、犯人の一人が自殺したのは知ってるよな? あの送検車両に俺が乗っていれば何かが変わっていたかもしれないと、ずっと悔やんでいた記憶が蘇った。……俺は、正義のために動いていた『刑事』だったんだ」
刑事、そして、ヒーロー。
パズルのピースが音を立てて繋がっていく。
俺が憧れていた「ヒーロー」の定義と、ムタの失われた記憶。
「なぁ、颯介。以前、お前にとってのヒーローは何だって聞いた時のこと、覚えてるか?」
ムタは少し照れくさそうに、俺の反応を伺っている。
俺は、自分が言った言葉を鮮明に覚えていた。
けれど、今のムタを前にしてそれを口にするのは、何か気恥ずかしい。
「あれ?もしかして、覚えてなかったりして?」
ムタがちゃかしてくる。
「……あー、あれだろ。……刑事、だよ」
「ふふん! よくできました!」
ムタは、誇らしげに言った。
「……まだ、全部を思い出したわけじゃない。一緒に捜査していた仲間の顔も、まだ霧の中だ。だが……これだけは確かだ。俺はこの手で、あの未解決事件に決着をつけようとしていた。それが、俺の使命だったんだ」
嫌な奴だと思っていた時期もあったけれど、今のムタからは本物の「正義感」が漂っている気がした。
「……なぁ、ムタ。十六年前の事件のこと、青柳さんなら何か知ってるんじゃないか?」
「なるほど、あのへらへら警部か。よし、今夜あたり、施設に呼び出して問い詰めてやるか」
「待て待て、流石に急だと厳しいと思う。俺から連絡しておくよ。……明日の夜、施設に来てもらえるように」
「わかった。明日の夜、俺も施設に行く。……では、また明日な、颯介」
路地裏を去ろうとするムタの背中が、重い記憶を背負っているせいか、いつもより小さく、どこか危うく見えた。
「ムタ! ちょっと待って!」
俺は堪らず駆け寄り、その小さな体をぎゅーっと抱きしめた。
もふもふした毛並みの奥に、小さな、けれど確かな心音が響いている。
「おい! 颯介、急に何を……苦しいぞ、この野郎!」
「いーじゃん。たまには。……お前、フワフワっていうか、なんかブクブクしてんな」
「余計なお世話だ! 離せ!」
ムタはぶつぶつ文句を言いながらも、どこか嬉しそうに暗闇へと消えていった。
俺は一人、路地裏でスマホを取り出した。
「……もしもし、青柳さん?」
『颯介? こんな時間にどうしたんだい?』
「ねえ、青柳さん。単刀直入に聞くけど。……青柳さんって、十六年前の銀行強盗事件の捜査メンバーだった?」
『……ああ。そうだけど。……それが、どうかしたのかい?』
一瞬の沈黙、そのわずかな「間」を、今の俺は聞き逃さなかった。
青柳さんは、何かを知っている。
「話してほしいんだ。全部。……この連続殺人事件、十六年前の銀行強盗事件が絡んでるのは間違いない。なら、俺も部外者じゃいられないんだ。……明日の夜、施設に来てくれない?」
『……はは。こういうの、守秘義務ってのがあってね。……でも、仕方ないな。ここまで巻き込んじゃったしね』
「恩にきるよ、青柳さん」
電話を切った後、夜の風が頬を撫でた。
止まっていた十六年の時が、動き出そうとしている。
一方、警視庁の廊下で――
「あれ、青柳警部、何か楽しそうですね」
「そうかい?」
「ええ。普段、あんまり見ないですから。そうやって、純粋に笑ってるところ」
「何それ、失礼だなぁ。僕はいつだって純粋無垢な人間なのに」




