記憶の断片その三
颯介と別れたムタは、冷え込み始めた路地裏にあるいつもの室外機の上で一人考え事をしていた。
丸めた体とは裏腹に、その脳内は昼間の対話の残滓で騒がしい。
「施設長と青柳ねぇ……」
十数年もの間、同じ場所を接点にしながら、一度も交わらなかった二つの点。
颯介や幸人が抱いた違和感は、ムタの直感をも鋭く刺激していた。
これもまた、十六年前のあの惨劇に関係しているのか。
もしムタが見る夢が、失われた過去の断片なのだとしたら、あの銀行で起きた出来事はすべてを狂わせた震源地だ。
「あまり信じたくはない話だがな……」
重い瞼を閉じると、深い闇の中から、忘れ去られたはずの記憶が静かに滲み出してきた。
――ここは、病室?
一定の間隔で時を刻むモニターの電子音だけが、静寂を支配している。
視線を落とすと、ベッドに横たわった一人の女性がいた。
透き通るような色白の肌の女性が、ゆっくりとこちらを見つめ、ひび割れた唇を動かす。
「……そばにいてくれたの? ありがとう。でも、ダメよ。あなたが今、為すべきことは、犯人たちを捕まえることなんだから」
彼女は慈しむような瞳で、俺の手を弱々しく握った。
「私の心配はしないで。……みんなのヒーローさん」
場面は一転し、病院の庭園。
ベンチに座り、枯れかけた花を見つめている女性の横顔があった。
暫く見つめていたら、視線に気づいた彼女がこちらを見て、優しく微笑んだ。
「……何かあったの? 悔しい! って顔をしているけれど」
彼女は俺の心を見透かすように言った。
「そう……犯人の一人が自殺しちゃったのね。でも、あなたはその場にいなかったんでしょ?……自分を責めないで。犯人を死なせてしまったことを悔やむなんて、やっぱりあなたは優しい人ね」
――犯人が自殺?
彼女は俺の手を自分の膨らんだ腹部へと導いた。
「こうして、毎日少しの時間だけでも会いに来てくれる。それだけで十分よ。……あ、今、この子も動いたわ。きっとパパを応援してるのね」
夜の病室、月明かり。
「思いつめた顔をして、どうしたの?」
「進展がない……? でも、まだ事件から一週間も経ってないのよ。きっと、これからだわ。どうしてあなたが謝るのよ、悪いのは犯人なんだから!」
彼女の声に、微かな力が宿る。
「私の傍にいられないことなんて、最初から分かっていたこと。……私はあなたと結婚すると決めたときから、覚悟できていたもの。みんなのヒーロー――刑事の妻になる覚悟がね」
闇の中で、声だけが響く。
「……本当によろしいのですか? あなたの身体が、もたないかもしれませんよ」
「構いません。この子は、私たちにとっての宝物なんです。最初から、選択肢なんてありません」
「旦那さんには、もう伝えたのですか?」
「……いえ。主人には、まだ言わないでください。……ちゃんと、時期を見て自分から話します」
――この会話は何だ?
冷たいベッドの上に横たわる女性。
彼女の頬には、一筋の涙の痕があった。
「さすが、刑事さんね。……実は私、死ぬかもしれないって言われているの。この子を産んだら、ね」
拒絶しようとした俺の唇を、彼女の細い指が静かに遮った。
「嫌よ。私はこの子を産むって決めたの。あなたが何と言おうと。可能性の話でしかないわ、助かることだってありえるもの。……わかってくれるわよね?」
その微笑みは、どんな正義よりも強く、残酷なほど美しかった。
そして、産声が響き渡る。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
「元気な男の子ですよ」
だが、その歓喜の裏側で、心電図の音が非情なフラットラインへと変わる。
「……奥さん? 奥さん!!」
女性は、ベッドの上に横たわったまま、ピクリとも動かない。
どうして――
さらに記憶の底。
凍てつく潮風が吹く夜の埠頭。
「……無理はしない方がいい」
隣に立つ男が、煙草に火を付けながら言った。
顔は見えないが、聞き覚えのある落ち着いた声だ。
「俺のことは構わねえ。……あいつらを野放しにはできねえんだ。あの日始まったことは、俺がこの手で終わらせる」
「残された子供はどうする?」
「だからだよ。あの子が生きていく未来を、あんな汚い連中に踏み荒らされたくないんだ。……もし俺に何かあったら、あの子を頼む」
「……馬鹿なことを言うな」
「大丈夫だ。俺は……みんなのヒーローだから」
ムタは、弾かれたように飛び起きた。
喉が焼け付くように熱く、胸が激しく波打っている。
また、夢を見ていた――
「……俺は」
月明かりの下、震える肉球を見つめる。
「俺は、刑事だったのか」
みんなのヒーローというのは、そういうことだったのか。
颯介が言っていた通りだった。
あの女性は俺の最愛の妻で、銀行強盗事件に巻き込まれたショックで命を削った。
そして、自分の命と引き換えに一つの命を遺した。
だが、その子は今、どこにいる?
父親である俺は、なぜこんな姿で、あの子を独りぼっちにしている?
「思い出したくないことも……あるもんだな……」
ムタは天を仰いだ。
冷たい夜空に、亡き妻の微笑みが重なっては消えた。




