渦巻く感情
俺が自室のドアを開けると、カーテン越しの柔らかな朝光の中で、幸人が机に向かっていた。
まだ連日の疲れが残っているのだろう。
時折、眠そうに目をこすりながらペンを動かしている。
「おはよう、颯介。珍しいね、君が僕よりも先に起きてるなんて」
幸人が穏やかに微笑む。
その慈しむような眼差しに、俺の荒んだ心が少しだけ解けるのを感じた。
「だな。幸人、相当疲れてたろ?今日は振替休日だし昼まで寝てりゃいいのに」
「そうしたいのは山々なんだけど、宿題を終わらせておかないと、後で君に泣きつかれるからね」
「げっ! 宿題……そうだった。忘れてた!」
「ははっ。また市川先生に『不真面目だ』って、倍の量を課されるよ?」
幸人は肩を震わせて笑っている。
以前、宿題を忘れたせいで、市川先生に宿題の量を一日だけ倍に増やされたことがあった。
その話が幸人にとってはすごく面白かったらしく、何かにつけてその話を持ち出してくる。
「まあ、その話はおいておいて……颯介、何かあった?」
幸人は笑うのをやめ、真面目に俺と向き合った。
「……なんでそう思う?」
「なんとなく」
「はは、お前にはかなわねぇな」
俺は、ずっと喉の奥に詰まっていたものを吐き出すように話し始めた。
「この前の学園祭でさ、施設長と青柳さんが話しているのを初めて見たよな。十年以上も顔を合わせてるはずなのに、俺たちの前では一度も会話したことがなかったあの二人が。……あの時、二人の間に流れてた空気、普通じゃなかった」
「……うん。僕も同じことを感じていたよ。施設長が、あんな表情を見せるなんてね。でも今は、直接聞いてもきっとはぐらかされるだろうし、まずは様子を見ようよ」
「ああ。俺もそうするつもりだった」
ムタにもこのことは相談しているし、今は自分で動くべきときではないだろうと思っていた。
「そう。じゃあ、次の話を聞かせて」
「本当、幸人にはかなわねぇな。お察しの通り、他にも気がかりなことがあるんだ」
俺は声を潜め、幸人の隣に座り込んだ。
「この間、市川先生が校舎の裏で、誰かとこっそり電話してるのを聞いちまったんだ。……俺が事件を嗅ぎ回ってることを報告してた。『これ以上近づかせるのは危険だ』ってさ」
幸人の瞳が驚愕に揺れた。
「市川先生が……? 颯介、それじゃあ先生も、あの事件の『当事者』なのかもしれないってこと?」
「いや、先生はあの強盗事件の現場にただ居合わせた第三者らしい。でも、俺たちの周りにいる大人は、みんな何かを隠して、俺たちを遠ざけようとしてる気がする」
幸人は深くため息をつき、俺の肩にそっと手を置いた。
その手の温もりが、今の俺には何よりの支えだった。
「……わかった。僕も気をつけて様子を見ておくよ。でも、颯介。無茶だけはしないでよね」
「ありがとう。それと、幸人にはまだ伝えておかなきゃいけないことがある」
「どうしたの?改まって」
「十六年前に病院から誘拐された乳児の記事、前に一緒に見ただろ?覚えてるか?」
「うん。覚えてるよ」
「それ、どうやら俺だったらしい」
俺は、施設長から聞いた自分の出自――十六年前に誘拐され、爆発の中で消えたとされる「あの赤ん坊」が自分であったことを幸人にも伝えた。
部屋が静まり返る。
幸人は言葉を失い、ただ俺を凝視していた。
「驚くよな。俺も、聞いたときは頭が真っ白になった」
「ごめん、何て言ったらいいのか……適切な言葉が見つからなくて」
「大丈夫、別に慰めてほしいとかじゃないし。ただ聞いてもらおうと思っただけ。お前に」
「そっか。強いな颯介は。話してくれてありがとう」
「ああ」
俺と幸人はお互いに微笑みあった。
「それと、もう一つ……俺たちがこの施設に集まったのは、偶然じゃない気がするんだ」
「どういうこと?」
「これから話すことは、まだ美紗には言わないでおいてほしい。……十六年前の銀行強盗事件で亡くなった男性客、美紗の父親だったらしいんだ」
「ガタガタガタッ!」
廊下で、乾いた音が響いた。
慌ててドアを開けると、そこには本が散らばっており、幽霊のように青ざめて立ち尽くす美紗の姿があった。
「……ごめんなさい。盗み聞きするつもりじゃなかったの」
そう言う美紗の声は震えており、瞳は今にも壊れそうなほどに揺れていた。
聞かせてしまったからには、秘密にするわけにはいかない――俺は覚悟を決め、美紗を部屋の中へ招き入れた。
「美紗、悪かったな……俺が不用心すぎた。……どこから聞いてた?」
「十六年前の銀行強盗事件で亡くなった男性客が、私のお父さんだって言ってたところをたまたま通りがかったの。でも、気にしないで。私も近々、施設長に聞きに行こうと思ってたから」
美紗は震える手で自分の胸元を抑えながら、笑顔を作った。
俺は改めて、施設長から聞いた真実を幸人と美紗に共有した。
「すごく妙な話だよね」
幸人が静かに口を開く。
「颯介、美紗、そして僕。……僕たちはみんな、十六年前のあの瞬間に人生を狂わされた被害者なんだ。同じこの場所で、家族のように過ごしてきた僕たちが、実は同じ悲劇の根っこで繋がっていたなんてね」
「俺が連続殺人事件に巻き込まれたのも、たまたまではない気がするんだ。この事件は間違いなく、十六年前の事件と関連している。――俺は、真実が知りたい」
「それが無慈悲な真実だったとしても……颯介は後悔しない?」
美紗は涙を堪えるように俯いたまま、絞り出すような声で俺に尋ねた。
幸人の方へ視線をやると、幸人は黙って頷き、俺を信じるという意思をその瞳に宿していた。
「真実を知らずに偽りの平穏の中で生きるより、泥を啜ってでも、誰が何のために俺たちの家族を奪ったのかを突き止めたい。俺はどんな真実が待っていたとしても、受け止める覚悟ができてる」
美紗は俺の言葉を噛みしめるように目を閉じた。
「……そう。あなたは、本当に強いのね。話してくれてありがとう」
美紗は、そう言って部屋を出ていった。
背中を向けて去っていく彼女の影が、あまりに濃く、暗いものに見えた。
「……颯介。美紗のことは、暫く気にかけてあげようね。丈夫そうに見えるものほど、あっという間に壊れてしまったりするからね」
「ああ。わかってる。……お前がいてくれてよかったよ、幸人」
「何言ってるの。僕こそ、君がいなきゃ、とっくに立ち止まっていたよ」
幸人はそう言って、俺の背中をポンと叩いた。
「お父さんが生きていたら?」
「お母さんも、私を捨てなかった?」
「私も、学校の友人たちのように、本当の家族に囲まれて幸せな生活ができてた?」
「すべて、十六年前の事件のせいで……私のすべてが狂った……」
俺たちが背負わされた運命の渦は、さらに速く、深く、俺たちを呑み込もうとしていた。




