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満月の夜に猫は微笑む  作者: 涼木あきこ
21/50

渦巻く感情

俺が自室のドアを開けると、カーテン越しの柔らかな朝光の中で、幸人が机に向かっていた。


まだ連日の疲れが残っているのだろう。


時折、眠そうに目をこすりながらペンを動かしている。


「おはよう、颯介。珍しいね、君が僕よりも先に起きてるなんて」


幸人が穏やかに微笑む。


その慈しむような眼差しに、俺の荒んだ心が少しだけ解けるのを感じた。


「だな。幸人、相当疲れてたろ?今日は振替休日だし昼まで寝てりゃいいのに」


「そうしたいのは山々なんだけど、宿題を終わらせておかないと、後で君に泣きつかれるからね」


「げっ! 宿題……そうだった。忘れてた!」


「ははっ。また市川先生に『不真面目だ』って、倍の量を課されるよ?」


幸人は肩を震わせて笑っている。


以前、宿題を忘れたせいで、市川先生に宿題の量を一日だけ倍に増やされたことがあった。


その話が幸人にとってはすごく面白かったらしく、何かにつけてその話を持ち出してくる。


「まあ、その話はおいておいて……颯介、何かあった?」


幸人は笑うのをやめ、真面目に俺と向き合った。


「……なんでそう思う?」


「なんとなく」


「はは、お前にはかなわねぇな」


俺は、ずっと喉の奥に詰まっていたものを吐き出すように話し始めた。


「この前の学園祭でさ、施設長と青柳さんが話しているのを初めて見たよな。十年以上も顔を合わせてるはずなのに、俺たちの前では一度も会話したことがなかったあの二人が。……あの時、二人の間に流れてた空気、普通じゃなかった」


「……うん。僕も同じことを感じていたよ。施設長が、あんな表情を見せるなんてね。でも今は、直接聞いてもきっとはぐらかされるだろうし、まずは様子を見ようよ」


「ああ。俺もそうするつもりだった」


ムタにもこのことは相談しているし、今は自分で動くべきときではないだろうと思っていた。


「そう。じゃあ、次の話を聞かせて」


「本当、幸人にはかなわねぇな。お察しの通り、他にも気がかりなことがあるんだ」


俺は声を潜め、幸人の隣に座り込んだ。


「この間、市川先生が校舎の裏で、誰かとこっそり電話してるのを聞いちまったんだ。……俺が事件を嗅ぎ回ってることを報告してた。『これ以上近づかせるのは危険だ』ってさ」


幸人の瞳が驚愕に揺れた。


「市川先生が……? 颯介、それじゃあ先生も、あの事件の『当事者』なのかもしれないってこと?」


「いや、先生はあの強盗事件の現場にただ居合わせた第三者らしい。でも、俺たちの周りにいる大人は、みんな何かを隠して、俺たちを遠ざけようとしてる気がする」


幸人は深くため息をつき、俺の肩にそっと手を置いた。


その手の温もりが、今の俺には何よりの支えだった。


「……わかった。僕も気をつけて様子を見ておくよ。でも、颯介。無茶だけはしないでよね」


「ありがとう。それと、幸人にはまだ伝えておかなきゃいけないことがある」


「どうしたの?改まって」


「十六年前に病院から誘拐された乳児の記事、前に一緒に見ただろ?覚えてるか?」


「うん。覚えてるよ」


「それ、どうやら俺だったらしい」


俺は、施設長から聞いた自分の出自――十六年前に誘拐され、爆発の中で消えたとされる「あの赤ん坊」が自分であったことを幸人にも伝えた。


部屋が静まり返る。


幸人は言葉を失い、ただ俺を凝視していた。


「驚くよな。俺も、聞いたときは頭が真っ白になった」


「ごめん、何て言ったらいいのか……適切な言葉が見つからなくて」


「大丈夫、別に慰めてほしいとかじゃないし。ただ聞いてもらおうと思っただけ。お前に」


「そっか。強いな颯介は。話してくれてありがとう」


「ああ」


俺と幸人はお互いに微笑みあった。


「それと、もう一つ……俺たちがこの施設に集まったのは、偶然じゃない気がするんだ」


「どういうこと?」


「これから話すことは、まだ美紗には言わないでおいてほしい。……十六年前の銀行強盗事件で亡くなった男性客、美紗の父親だったらしいんだ」


「ガタガタガタッ!」


廊下で、乾いた音が響いた。


慌ててドアを開けると、そこには本が散らばっており、幽霊のように青ざめて立ち尽くす美紗の姿があった。


「……ごめんなさい。盗み聞きするつもりじゃなかったの」


そう言う美紗の声は震えており、瞳は今にも壊れそうなほどに揺れていた。


聞かせてしまったからには、秘密にするわけにはいかない――俺は覚悟を決め、美紗を部屋の中へ招き入れた。


「美紗、悪かったな……俺が不用心すぎた。……どこから聞いてた?」


「十六年前の銀行強盗事件で亡くなった男性客が、私のお父さんだって言ってたところをたまたま通りがかったの。でも、気にしないで。私も近々、施設長に聞きに行こうと思ってたから」


美紗は震える手で自分の胸元を抑えながら、笑顔を作った。


俺は改めて、施設長から聞いた真実を幸人と美紗に共有した。


「すごく妙な話だよね」


幸人が静かに口を開く。


「颯介、美紗、そして僕。……僕たちはみんな、十六年前のあの瞬間に人生を狂わされた被害者なんだ。同じこの場所で、家族のように過ごしてきた僕たちが、実は同じ悲劇の根っこで繋がっていたなんてね」


「俺が連続殺人事件に巻き込まれたのも、たまたまではない気がするんだ。この事件は間違いなく、十六年前の事件と関連している。――俺は、真実が知りたい」


「それが無慈悲な真実だったとしても……颯介は後悔しない?」


美紗は涙を堪えるように俯いたまま、絞り出すような声で俺に尋ねた。


幸人の方へ視線をやると、幸人は黙って頷き、俺を信じるという意思をその瞳に宿していた。


「真実を知らずに偽りの平穏の中で生きるより、泥を啜ってでも、誰が何のために俺たちの家族を奪ったのかを突き止めたい。俺はどんな真実が待っていたとしても、受け止める覚悟ができてる」


美紗は俺の言葉を噛みしめるように目を閉じた。


「……そう。あなたは、本当に強いのね。話してくれてありがとう」


美紗は、そう言って部屋を出ていった。


背中を向けて去っていく彼女の影が、あまりに濃く、暗いものに見えた。


「……颯介。美紗のことは、暫く気にかけてあげようね。丈夫そうに見えるものほど、あっという間に壊れてしまったりするからね」


「ああ。わかってる。……お前がいてくれてよかったよ、幸人」


「何言ってるの。僕こそ、君がいなきゃ、とっくに立ち止まっていたよ」


幸人はそう言って、俺の背中をポンと叩いた。




「お父さんが生きていたら?」


「お母さんも、私を捨てなかった?」


「私も、学校の友人たちのように、本当の家族に囲まれて幸せな生活ができてた?」


「すべて、十六年前の事件のせいで……私のすべてが狂った……」




俺たちが背負わされた運命の渦は、さらに速く、深く、俺たちを呑み込もうとしていた。

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