疑惑
祭りの後の静けさが嘘のような、けたたましい鳴き声が早朝から響き渡った。
「颯介! 起きやがれ! 忘れてた、なんて寝ぼけた言い訳は通用せんぞ!」
窓の外から響くムタの怒鳴り声に、俺は無理やり意識を引きずり出された。
隣のベッドでは、幸人が泥のように眠っている。
ここ数日、学園祭の準備で睡眠時間を削っていたから、無理もない。
幸運なことに、幸人は猫の咆哮を心地よいBGMか何かだと思っているようだ。
俺は欠伸をしながら、部屋のカーテンを開けた。
そこには、尻尾を激しく左右に振り、今にも窓を蹴破らんばかりの勢いのムタがいた。
やはり、俺がムタを学園祭に連れていかなかったことを不満に思っているのだろう。
「……悪かったって。昨日は忙しくて、つい……」
「『つい』だと!? 俺がどれほど、お前の通う学び舎での祝祭を楽しみにしていたか分かっているのか!」
「分かった、分かったから。本当に悪かったよ」
「ふんっ!もういい!俺にかかれば、一人でだって入れるんだからな!」
「それならいいじゃないか、そんなにいじけなくたってさ」
「いじけてなどいない!実際、昨日はあちこちの屋台で余り物をもらったしな。どれも絶品だった。大満足だ」
「……さっきまでの文句は何だったんだよ」
「お前、まだ分かってないな。俺が怒っているのは、飯のことではない。お前が俺との『約束』を忘れた、その一点だ!!」
前足で窓枠を叩くムタの姿に、俺は思わず苦笑いした。
出会った頃からずっと、ムタは威圧的で、どこか人間臭い。
元は人間だったかもしれないという彼の推測を信じるなら、相当プライドの高い、偏屈な男だったに違いない。
「……本当、お前はどんな人間だったんだろうな。相当のキレ者だったのか、それとも部下に煙たがられるタイプだったのか」
「ふん、少なくともお前よりはしっかりしていたはずだ。……多分な」
そう言って、ムタは少しだけ視線を逸らした。
「……そういやムタ、学校で妙なことがあったんだ。市川先生……えっと、数学の教師が、旧校舎の裏で誰かとこっそり電話してるのを聞いちまってさ」
俺は、市川先生が服従するような態度で誰かに俺の動向を報告していたこと、そして以前口走っていた『あの人』の話をした。
「ふむ、お前が十六年前の事件について嗅ぎ回っていることを誰かに報告していたというのか。……その教師は一体何者なんだ?」
「実は、十六年前の銀行強盗事件に居合わせた一人だったんだ。その話を聞いたときだよ、先生が『あの人』と口走ったのは」
「単なる傍観者なのか、それとも――とりあえず、気は抜くなよ」
ムタの言葉に、俺は背筋が寒くなるのを感じた。
平和だと思っていた学校ですら、もう安全な場所ではない可能性が出てきてしまった。
ずっと喉の奥に刺さっていた小骨のような違和感は、もう一つある。
俺はさらに声を潜めて、ムタに打ち明けることにした。
「もう一つ……俺が考えすぎているだけなのかもしれないんだけど……」
「なんだ?」
「施設長と青柳さんのことなんだけどさ……お前も二人のこと、知ってるだろ?」
「もちろん知っているとも。あの、へらへらした警部と、お前んとこの施設長だろ」
「ああ。あの二人が話しているところを、昨日初めて見たんだ。青柳さんは十年以上もこの施設に通ってるというのに」
「え? 十年以上も通っていて、一度も会話がなかったのか?」
ムタも意外そうに耳をぴくりと動かした。
「そうなんだよ。いつも青柳さんが来るとき、施設長は奥に引っ込んでるか、庭で会釈する程度。会話ってものが一切なかったんだ。でも、この前の学園祭で、二人が会話しているのを初めて見た」
俺は、学園祭の喧騒の中で感じた、あの瞬間の冷ややかな空気感を思い出した。
「俺が聞きに行っても、二人とも誤魔化したんだ。施設長は、俺たちを危険な目に遭わせた青柳さんを警戒してるだけだって前に言ってたけど……」
「なるほど。確かに、単なる『警戒』のレベルを超えている気もするな。二人の間に、知られたくない過去……あるいは共通の隠し事があると考えるのが自然だろう」
「だよな……。でも、施設長が隠そうとしていることを、俺が暴いていいのかって、少し躊躇いもあって」
育ての親を疑いたくない気持ちと、真実を知りたい渇望。
その狭間で揺れる俺の背中を、ムタの鋭い一言が突いた。
「気になるんだろ? だったら、気の済むまで自分の意志を貫け。尻込みするのはお前らしくないぞ、颯介。真実から目を逸らして手に入る『平穏』など、いつか壊れる砂の城だ」
「……手厳しいな。猫のくせに」
「だから、元々は人間だったと言っているだろ。多分な……」
そう言って笑うムタの表情を見たら、不思議と心が軽くなった。
「今となっては、俺もこの児童養護施設には結構通っているからな。協力できることもあるかもしれん。最近は施設長から飯をもらうことだってあるぞ!」
ムタは偉そうに言った。
「まじかよ。ちなみに、施設長はお前のこと、なんて呼ぶんだ?」
「……男爵だ」
「男爵!? あはは! それは傑作だ! あの真面目な施設長が!」
「いいじゃないか、高貴な響きだ。俺は結構気に入っている。……それはともかく、俺も暫くの間は、毎日ここに通う。施設内で得られた情報はお前に教える。施設長も、人間には相談できないことでも、猫になら何かこぼすかもしれんからな」
「……なるほど。人間の代わりに猫に相談、か。案外、それが一番の近道かもしれないな。ありがとう、ムタ。よろしく頼むよ」
「任せておけ。お前は、あのシワの深い刑事やへらへら警部から情報を引き出しておけよ」
ムタは誇らしげに喉を鳴らすと、朝日を浴びてキラリと目を輝かせた。
施設長と青柳さん――
二人の間には、一体何があるのだろうか。
こういうときは猫の手を借りるのも、悪くないだろう。




