記憶の断片その二
颯介と別れたムタは、夜露に濡れた路地裏の室外機の上で、丸くなって考えに耽っていた。
「今日もまた、妙な事件に巻き込まれてしまったな……」
あのギタリストが残した『MASK』の文字――そして、仮面の女。
十六年前の銀行強盗事件の忌まわしい記憶が、今もまるで亡霊のようにこの街を彷徨っているのは間違いない。
ムタは自らの「記憶の断片」を繋ぎ合わせようとしていた。
あの夢に現れる、陽だまりのような微笑みを浮かべる女性。
彼女は間違いなく俺にとって特別な存在であり、俺はかつて、あの女性と同じ地平に立つ「人間」だったのではないか――
だが、記憶は依然として欠落している。
自分が人間だったとして、一体どんな男だったのか。
なぜ今、四本の足で泥にまみれているのか。
自分が人間であったというのも、確信は持てない。
もしかすると、あの女性が自分の飼い主であったという可能性もある。
そうこう考えているうちに、意識が混濁し、心地よい眠りの渦へと飲み込まれていく。
――ここは一体?
こちらを見つめて、いたずらっぽく笑う彼女。
「ねえ、ハネムーンはどこに行く? 私は海が見えるところがいいな。でも、あなたの職場からはあまり離れない方がいいわよね。近場にしましょう? ……だって、あなたはみんなの『ヒーロー』なんだから」
彼女の左手の薬指で、控えめな銀色の輪が月光を反射して輝いている。
ハネムーン――
新婚旅行の計画だろうか。
ヒーロー――
その言葉の響きには、一点の曇りもない尊敬と愛情が込められていた。
俺は……誰かの、ヒーローだったのか?
場面が溶けるように入れ替わる。
夜の埠頭、二つの人影が見える。
一人は、真っ直ぐな背筋で海を見つめる実直そうな男。
もう一人は、その隣で煙草を燻らせる、どこか底の知れない空気を纏った男。
『――ねえ。正義って何だと思う?』
煙草をくゆらす男が、低く冷ややかな声で問いかけた。
『市民を守ることだ。当たり前だろう。』
隣の男が迷いなく答える。
『……眩しすぎるな。光が強ければ強いほど、その分だけ影は濃くなる。君のような「ヒーロー」には分からないかもしれないけど』
『何の話だ……?』
煙草の灰が、暗い海へと落ちていくのを見つめながら、男は微かな笑みを浮かべていた。
場面は再び、穏やかな日差しの中へ。
オーシャンビューのホテルだろうか。
一面に広がる海に夕日が反射し、キラキラと宝石のように光っている。
「見て、海が光ってる。」
そう言った女性の笑顔もまた、宝石のようにキラキラと輝いて見えた。
――なんて美しい人なんだろう。
彼女の指先が、自分のふっくらとしたお腹を愛おしそうに撫でている。
「聞いて! 男の子だって。名前、いくつか考えていたけれど……あなたのように、颯爽と駆けつけて、たくさんの人を助けられるヒーローになってほしい。だから――」
子供の名前は、風の音にかき消されて、肝心な響きだけが耳に届かない。
景色が突然、モノクロームの惨劇へと急変する。
無数のフラッシュ、張り詰めた規制線のテープ、怒号と叫び声――
そこは、かつて銀行だった場所、かつて日常だった場所。
一人の女性が倒れこんでいる。
その傍らには、男性が血の海の中で横たわっていた。
そこにいる他の人々は、恐怖に肩を震わせていた。
「……まったく、ヒーローの真似事なんてするから」
どこからか、あの冷ややかな声が聞こえた気がした。
倒れている女性の元へ駆け寄ろうとしたが、足が鉛のように重かった。
死んではいない……恐らく、気絶しているだけだろう。
女性は妊娠していたようだ。
激しい怒りと、引き裂かれるような喪失感が、胸の奥を焼き尽くしていく。
「……っ!」
ムタは激しい動悸とともに飛び起きた。
また、夢を見ていた――あの忌まわしくも美しい、失われた過去の残像。
小さな心臓が、まるで壊れた機械のように跳ねている。
あの女性は、俺と結婚していたのだろうか?
あの女性は俺を、『みんなのヒーロー』と言っていた気がする。
ヒーロー?
どういう意味だ……?
『君のような「ヒーロー」には分からないかもしれないけど』
夢の中で聞いた、あの男の言葉が耳から離れない。
男の子を妊娠していて、子供の名前も決めたと言っていたが、聞き取れなかった。
子供の名前も、俺の記憶と何か関連があるのだろうか?
「……いや、考えすぎか」
ムタは乱れた呼吸を整え、夜の街を眺めていた。
ふと、自分の前足を見つめる。
かつて誰かの手を握り、誰かの命を守ったはずのその手は、今は鋭い爪を持つ獣のものだ。
だが、その奥底で疼く「誰かを守らなければならない」という焦燥感だけは、以前よりも強く、熱くなっていた。
「……今日も、あいつに会いに行かなければ」
暗闇から這い出そうとするムタにとって、颯介は、いまや唯一の道標になりつつあった。




