一つの終わりか始まりか5
自室に戻って女官の件を相談してみると、ミバヤさんはすぐにルメーリアを連れ、諸々の手続きに出かけていった。
彼女と似たような理由で――つまり、結婚から逃げる形で――王宮入りするお嬢さんというのは、時折いらっしゃるようだ。ただ、結婚も貴族の義務である以上、嫌だからと言って逃げてこようが基本的には受け入れないそうだが。未成年はご両親の了解を取って下さい、ってな感じか。
とはいえ、原則があるからには例外もまた存在する。従って、ある程度、そういう場合のためのやり方なるものも存在するのだという。
まあ、「あんのくそ親父――こほん、お父様をぎゃふんと言わせたいのです!」ときらきらした瞳で言い募るルメーリアには、ミバヤさんもさすがに唖然としてたけど。
というか結婚から逃げることよりもお父さんに思い知らせることの方が重要な目的なの? それで結婚も延期するってことになるから一緒といえば一緒なのか?
それからあの子の語彙が本当に気になる。どんなデイモール語なんだ、ぎゃふんって。しとやかなご令嬢のイメージが崩れるぞ。
つい思い出し笑いをしてしまった。参ったなあ、と呟く声は自分のものだ。
部屋に戻る少し前。あの一連の騒ぎがあった場所。
ルメーリアはあたしに抱きついたままだった。アサキオや侍従達をからかいながら、自然と、二人して柱の陰に引っ込むような形になった。
そうして、他の人には聞こえない声量で尋ねられたのだ。
「ハス、気持ちは変わらないかしら?」
「ん、なにが?」
「ピーチュ・エミといったかしら。あの子を助けたいって、まだそう思ってる? 例えあの子に拒否をされても?」
「……うん。思ってる。こんなの、間違ってるよ。あたしがいることで、こんな。もしあたしがいなかったら、ピーチュの伯母さん達だって、あんな事件を起こそうとは思わなかったでしょう?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それは仮定に過ぎないわ」
「うん、そうだね」
あたしは頷いた。ルメーリアは言い淀んだ。
「あのね、たぶん、あなたが何度行っても変わらないと思うわ。むしろ逆効果になるかもしれない。あの子は、離れることが、あなたのためだと思っているから。だからね」
あたしは返事をせずに、少しだけ身体を離して彼女を仰いだ。彼女はあたしの手を握って、真面目な顔をしていた。
「まともに話したのは今日が初めての身で、こんなことを言って、信じてもらえないかもしれないけど……」
ルメーリアの手はとても温かかった。
「あの子の説得、わたくしに任せてくれない?」
その温かさが、あたしを頷かせたのだと思う。
ジギリスがなにを思って、「真実」をあたしに投げつけたのか、今なら少しだけ理解できる。
あの子がただの、意地悪なご令嬢なら良かった。
ルディカを殺そうとしたターレン家の娘のような、明確な「悪役」なら。
それならまだ、良かったのにね。
ナノがやって来たのは、夕飯を食べ終えて、暫くしてからのことだった。
「ハス」
あたしは窓際のソファで、少しばかりうとうとしていた。恐る恐ると掛けられた声に、ゆっくりと瞬きをする。ぼやけた視界に、そうして赤髪の少年の姿を認めた。
「あ、ナノだ。やっほー」
答えて、軽く欠伸をする。
今日はだれと会っても久し振りに感じる。ずっと寝ていたせいかな。昨日、今日と、とっても目まぐるしかったせいもあるかな。
「もう、平気なのか?」
「うん。今日はその手の言葉をたくさん聞いた気がするよ。平気とか大丈夫とかお加減はとか」
女官や女中、だれかしらの従者、近衛の兵士達。直接声を掛けてくる人もいれば、仲間内でひそひそ囁く人もいた。
「それは当たり前だろ」
「うーむ、それだけ広まってるってことかあ」
病欠した翌朝の学校よりも居心地が悪い。一挙一投足を見守られることには、ここに来てからずいぶん慣れたつもりでいたけど、やっぱ全然馴染んでないや。
真に心配されているのはあたしなのか、それともルディカなのか。なあんて、また意地の悪いことを考える。
区別なんてないよね、分かってる。ここの人達にとって、ルディカという符号は、あたし以外のなにものをも示さない。ルディカでないあたしなんて、そもそもこの世界には存在しないのだ。
「本当に平気なのかよ」
「大丈夫だよ、あたしは。皆、心配性なんだから」
唇を尖らせながら少し離れたところに立つナノは、その不機嫌そうな表情とは裏腹に、どことなく所在なさげだった。
ソファから立ち上がって、主張するように笑いかける。
「ほら、ぜーんぜん不都合なし」
窓際を歩いて、くるっと回ってターン。観察するような視線が追いかけてくる。
「ナノこそ怪我は大丈夫なの? 確か血が出てたよね」
戸惑うようにナノが近づいてきた。一歩、二歩。思った通り、袖口から包帯が覗いていた。
「こんなの、大した怪我じゃない」
「痛くないの?」
「……俺なんかよりお前だろ」
「だから、あたしはなんともなくて」
ナノが俯いた。唇が動いたけれど声は聞こえなくて、あたしは「え?」と聞き返す。
一歩、二歩。もう一歩。不安定な動きで、目の前の身体が踏み込んでくる。
あたしの眼前で、ふわり、カーテンがひらめく。理解する間もなく、あっという間に、あたしはカーテンにくるみ込まれる。
「わっ。な、なに?」
だれの仕業かは問うまでもない。この部屋には今、あたしと彼しかいない。
でもどうして? なんのために?
「あの……ナノ?」
こつりと軽い音が鳴る。額を窓ガラスにもたれかけさせた音だ。
布一枚が、あたし達を隔てている。
彼はこんなに背が高かっただろうか。
「ごめんな、ハス」
降ってくるような声。彼の手が震えているのに気づいて、つい動きを止めた。
きめの細かい布地に、織り込まれたのは繊細な花模様。ルディカの居室にふさわしくあつらえられたカーテンは、この国では高級な部類に入る。
布越しの微かな体温を意識する。
表情は見えない。あたしの視界は閉ざされたまま。
「ごめん、辛かったな。ごめんな」
「ナノ、どうしたの」
その声は、なんだか不自然だ。
あたしを宥める言葉を掛けながら、彼こそが限界を感じているような。
「俺、守れなかった」
落ちてくる言葉は弱々しい。
どうしちゃったの? こんなナノは見たことがない。いつだって明るくて、その脳天気さに苛立つこともあったけど、それでもあたしの気持ちを楽にしてくれた。
ねえ、どうしたんだよ、ナノってば。いつもみたいにへらへら笑って、兄貴達に苛められたとか話してよ。あたしは必死に言い募る。
「そんなことないよ。なんでそんなこと言うの? ナノがいなかったら、あたし、どうなってたか分かんないよ」
なんたって危険に鈍い現代っ子だ。振り上げられた銀色を思い出して、今更ながらに身震いする。
あたしは自分が狙われているなんて思いもせずに、うかうかと出歩いていたわけだ。紙一重で気づいて、的確に動いてくれた。実際のところ、ナノの判断がなかったとして、あたしは今ここに、なんともない状態でいられたのか。
「でも、守れなかったじゃないか」
「そんなことない。守ってくれたよ」
「気づいていたのに。ハスが怖がっていること。それなのに、あんなところに置き去りにした」
ナノが、あたしの背をぽんぽんと軽く叩く。いたわるようなその動きで、覚えず、自分の身体が震えたことを自覚した。
あたしの怖いもの。
閉じた場所。夕日。焼き菓子の甘い香り。鮮やかな赤。鉄のにおい。
「ごめん。気づいてたのに。分かってたのに。ハスは怖がってた。ただでさえあんな状況で不安だったのに、わざわざ隠れ場所にあんなところを選ばなくても良かった」
どうして、と喉元まで言いかけた。
なぜそこまで分かってしまったのか。あたしはそこまで……そこまで耐えられなかったのか。
息を呑み、口をつぐむ。言葉を舌の上で転がす。
「……ナノは悪くないよ」
出てきたのは、そんな陳腐なものだったけど。
そう、あたしとて理解している。兵士としてのナノの判断は、あたし自身のそれよりも信用が置ける。まして、この王宮に詳しいのはどう考えてもナノの方だ。
あの時はあれが最善だった。
ただ、色々な要素が、あたしを混乱させただけ。
「あたしは平気だよ。ナノはちゃんと、あたしを助けて守ってくれたんだよ。なんにもないのに倒れたりして、むしろびっくりさせちゃって、ごめん」
言葉を重ねても、ナノの姿が見えない。それが不安だった。
「それから、助けてくれて、ありがとう」
――感謝してるよ。
――だから、お願い。あたしに認めさせないで。
一瞬だけ強くなった力は、その後、徐々に弱まっていった。身体に巻きついていた布地がほどけ、視界が解放される。
揺れるカーテンの先、ナノは眉根を寄せたまま微笑んだ。
「ハスは強いな」
あたしは頷く。
――そう、あたしは強い。
――あたしはつよいから、だいじょうぶ。
見上げて、ふと違和感を覚えた。視線が吸い寄せられるように、彼の右耳に向かう。ああ、近くにいるから気づけたのか。
「そのピアス……」
ああ、とナノはいつも癖でするように、くるくると耳飾りを弄った。
「いつの間にか壊れてた。困ってる」
「それ、ひびが入ってるの? 酷いな、そんなことあるんだ」
彼の片耳を彩る緑石に、亀裂が入っていた。一度気がついてみると、いやに際だって見える。
「金具はいつか壊すんじゃないかと思ってたけどね……弄りすぎで」
「確かに金具もだいぶ緩んでたな。たまに取れたし」
いつか落っことすんじゃないかとはらはらしてたんだけど、やっぱりか。
「まあ、そろそろ寿命だったんだろうな」
そう呟くナノの横顔は、なんというのだろう、寂しげ、悲しげ、切なげ……?
家族からの贈り物だって言ってたもんね。年季も入ってそうだし、壊れちゃっても仕方ないのかな。
ん? でも古いからって石がそう簡単に割れるもの?
不思議に思って尋ねると、ナノもまた、曖昧に首を傾げた。
「たぶん、この石自体はそんなに高価なものじゃないし。どこかにぶつけでもしたのかな」
「衝撃に負けちゃったのかー」
このピアスのこともあって、今回の落ち込みは倍だったんだろう。可哀想に。
ナノは身を引いた。
「俺、そろそろ行くよ。と言っても今日はここの見張りの日だから、この後も外にはいるけど」
「ああ、うん」
「本当は顔だけ見てすぐに出る予定だったんだけど……」
ナノの顔がじわじわと赤く染まる。
「なんというか、うん、取り乱してごめんな……」
徐々に後ろに下がる彼を見て、あたしも落ち着かなくなってきた。
ばか、い、いまさら恥ずかしがるなよ!
頬が熱い。さっきの状況、端から見れば、あれは……。
やめろ考えるな!
カーテン! カーテン! カムバック!
「じゃ、おやすみ、ハス」
「おやすみなさい」
お互いに早口で挨拶して、ナノが出て行こうとした。ちょうどそこで、ぱたぱたと足音が聞こえた。
扉が勢いよく開け放たれる。危うくぶつかりそうになり、うわっ、と情けない悲鳴を上げるナノ。
「ルディカ!」
息を切らせながらそこに立っていたのは、えーと、シラとか呼ばれていたっけ。ミバヤさんにくっついていた、小さい女官の子。
「あの、あの、大変なんです。おみま、おみまいが」
うん、どうした?
息が満足に整わないうちに話し出そうとして、慌てっぷりも最高潮。一生懸命なのは伝わるんだけども。
「おみまいが、ここに、ここまで。ルディカ、大変なんです!」
なにが?
泣きそうに顔を歪める彼女には悪いが、なにがなんだか伝わらない。お見舞いの品物が襲ってきたとでも言うのか?
「……えっと」
「……少し落ち着いた方が良い」
ナノがまともに助言する。うん、仰る通りだ。
「深呼吸して。はい、すーはー、すーはー」
言うと、女の子は素直にすーはー息を吐いた。よろしい。
それで、お見舞いがなんだって?
シラはきっとりりしい表情をして、慌てて手を突き出した。
「明日こちらの部屋に、王太子殿下がおいでになります! 王太子殿下が、ルディカのお見舞いにいらっしゃいます!」
手の中にあったそれは、なんだか上品な紙だということだけが分かった。初めと終わりに大きめな文字で宛名と署名。どうやら、あたしに宛てた書状らしい。
部屋の空気が凍るのを感じる。
うん、文章作成能力は回復したらしい。さっきと違って、言葉の意味はちゃんと取れた。
そのうえで聞こう。ええっと。
……なんですと?




