第18話:高潔な悪党と、十四の矯正 前編
「……クソっ、なんだよ。この階段、座標がわずかに『揺らいで』やがったな。空間構造の維持管理が甘いんじゃないか? ったく、どこのどいつの担当だよ……!」
放課後の西階段。ナプリアレスは、手すりに背中を預け、投げ出した右足首を押さえて悪態をついていた。5年生ともあろう者が、階段を三段飛ばしで転移しようとして、空間の僅かな歪みに足を取られたのだ。無様極まりない。
「……あら。そこに転がっている不格好な概念は、確かナプリアレス。あなた、自分の存在境界すら正しく定義できなくなったのかしら? 学園の美観を損なう位置で、一体何を表現しているの?」
頭上から降り注いだのは、氷の結晶が触れ合うような、冷徹で透き通った声。
同じく5年生、エメロロアルスが、重厚な医学書を片手に、眼鏡の奥の瞳を細めて見下ろしていた。
「……げっ、エメロロアルスか。……いや、別に。ちょっと重力の指向性を身を挺して計測してただけだ。……痛っ! ったく、笑わせんなよ、エーテルが響くだろ」
「重力の計測? 随分と原始的な……いえ、野蛮な言い訳ね。あなたのその『軽薄な魔力運用』が、階段の静止慣性を乱した結果にしか見えないけれど」
エメロロアルスは溜息をつくと、優雅な所作で階段を下り、ナプリアレスの前に屈んだ。彼女の周囲には、医学と弁論の権威らしい、極めて精密な術式が幾何学模様となって浮遊している。
「おい、エメロロアルス。……なんだその物騒な術式は。ひねっただけだ、自分で座標を戻せる」
「黙りなさい。……いい? 治療とは、乱れた事象を『正しい形』へと言い聞かせる行為よ。あなたの患部のエーテルは今、主人の管理能力の低さに悲鳴を上げているわ。……少し、知性が震えるわよ」
彼女がナプリアレスの足首にそっと指先を触れた瞬間、ナプリアレスの視界に膨大な情報が流入した。それは、肉体を構成する全細胞のベクトルを、強制的に「あるべき位置」へと書き換える、暴力的なまでの正論(治療魔法)だった。
「ぐ、あああぁっ!? 待て、エメロロアルス! 術式の圧が強すぎる……! お前、これ半分は嫌がらせだろ!」
「当然よ。あなたのその『逃げ腰な魂』ごと、正しい座標に固定してあげているの。……ナプリアレス、あなたはいつもそうやって瞬間に頼って現実を誤魔化しているから、肝心なところで事象に裏切られるのよ。……ほら、ここ。結合組織が迷子になっているわ。恥を知りなさい」
エメロロアルスは、ナプリアレスの悶絶を無視し、淡々と、しかし極めて冷徹な情熱を持って、断裂した組織を再構成していく。彼女の指先は、まるで熟練の彫刻家が粘土を捏ねるように、ナプリアレスの肉体を「概念的な正解」へと引き戻していく。
「……はぁ、はぁ。……相変わらず、可愛げのない女だ。……アゼムなら、もっとこう……笑い飛ばして治してくれるのによ」
「……あの方と比較しないで。あの方の治療は『奇跡』という名の事故。私の治療は『真理』という名の断罪よ。……ほら、終わりよ。立ちなさい。あなたの無様な屈折は、私がすべて『矯正』しておいたわ」
エメロロアルスが最後に指先でパチンと魔力を弾くと、ナプリアレスの足首を覆っていた過剰なまでの圧力が、霧散するように消えていった。
「……ふん。痛くねえな。……っていうか、魔力の巡りが……前よりスムーズになってやがる」
「当然よ。余計な『雑音』を削ぎ落としておいたから。……ただし、一週間は過度な空間転移を禁じます。もし勝手に座標を飛ばそうとしたら、あなたの存在確率を私が直接ゼロにしてあげるわ。……分かった?」
エメロロアルスは立ち上がり、何事もなかったかのように医学書を抱え直した。その立ち姿は、夕日を浴びて、誰よりも気高く、そして傲慢だった。
「……あー、はいはい。分かったよ。……全く、お前と話してると、足首より先に脳が疲れちまう」
ナプリアレスは、驚くほど軽くなった足取りで階段を駆け下りていった。その背中に、階段を上り始めたエメロロアルスが、振り返りもせずに言葉を投げた。
「……ナプリアレス。次は、無様な転倒ではなく、その『歩み』で私の論理を納得させてごらんなさい。……まあ、期待はしていないけれど」
「……へっ。言ってろよ。次は俺が、お前のその完璧な論理に『穴』を開けてやるからな!」
ナプリアレスは、快調すぎる足取りで廊下の向こうへと消えていった。その様子を上階から見ていたヒュトロダエウスが、「おや、エメロロアルスのあの『矯正』、案外彼のお気に入りになったみたいだねぇ。アゼムに報告してあげようかな」と、瞳を細めて笑っていた。




