第14話:真実の眼と、偽らざる色彩
「……それで、満足かい? ヤ・シュトラ。君が昨日から私の背後に展開している『魔力波形観測陣』、そろそろ演算限界で焼き切れそうだけど」
放課後の渡り廊下。夕闇が校舎を紫に染める中、ヒュトロダエウスは足を止めることなく、背後の「不可視の観測者」へ向かって軽やかに声をかけた。
柱の陰から姿を現したのは、魔導書を小脇に抱え、片目に奇妙なモノクルを装着したヤ・シュトラだった。彼女の周囲には、ヒュトロダエウスの歩調に合わせて明滅する、複雑な解析式が浮遊している。
「あら、気づいていたのね。……流石だわ。でも、これだけの偽装術式を重ねてもなお、あなたのエーテル放出量は一定の『凪』を保っている。まるで、世界そのものを書き換える予備動作すら見せないほどに。……不気味なほど完璧ね、ヒュトロダエウス先輩」
ヤ・シュトラがモノクルの焦点を合わせ直す。彼女の狙いは、エメトセルクの論理構造を解析した次のステップ……「事象を視る」という、ヒュトロダエウス固有の知覚メカニズムの解読だった。
「ふふ、不気味なんて心外だなぁ。私はただ、君たちの頑張りを眺めているのが好きなだけだよ。……でも、そんな数字の羅列で私を定義しようとするのは、少しばかり『味気ない』と思わないかい?」
ヒュトロダエウスは唐突に歩みを止め、ヤ・シュトラとの距離を詰めた。彼がその透き通った瞳で彼女を捉えた瞬間、ヤ・シュトラの周囲に展開していた解析陣が、ガラスが砕けるような音を立てて一斉に霧散した。
「……っ! 強制解除!? いえ、違うわ……術式の構成要素が、根底から『書き換わった』の?」
「いいや、単に『色』を付けただけだよ。……ねえ、ヤ・シュトラ。君の視る世界は、きっと正解を求めるための厳格な楽譜だ。でも、私に視える世界は、もっと……そう、無秩序で愛おしい即興劇なんだ」
ヒュトロダエウスが宙で指を弾くと、ヤ・シュトラの視界が変転した。モノクル越しに視える「解析データ」が、突如として鮮やかな色彩の奔流へと変わる。
「な、何これ……。廊下のエーテルが、歌っている……? 物理的な循環周期を無視して、感情のような熱を持って……」
「それはね、さっきそこをアゼムが走り抜けていった名残さ。アゼムが『今日のご飯は何かな』と考えただけで、空間の色はこんなに跳ねる。……そして、その騒がしい色を必死に整えようとして、今にも爆発しそうな青い色を振り撒きながら追いかけていったのがエメトセルク。……ほら、足元にまだ、彼の『苦労の残滓』が転がっているだろう?」
ヤ・シュトラは絶句した。彼女が理論として捉えようとしていた「魔力残滓」が、ヒュトロダエウスの干渉によって、極めて情緒的で、人間臭い「物語」として網膜に焼き付けられていく。
「解析なんて野暮なことはやめて、もっと『質感』を楽しんだらどうだい? 理屈で塗りつぶすには、この学園は少しばかり、彼らのせいで彩度が強すぎるからね」
ヒュトロダエウスは楽しげに笑い、困惑に固まるヤ・シュトラの頭を、子供をあやすように軽く撫でた。
「……冗談じゃないわ。こんな……主観に塗れた情報を『視覚』として共有されるなんて。……これじゃあ、私の論文がただのポエムになってしまうじゃない」
ヤ・シュトラは震える手でモノクルを外したが、その頬は微かに紅潮していた。彼女が今まで信じてきた「数値化できる真理」の向こう側に、あまりにも強烈な、個人の「湿度」を持った真実を見せつけられたからだ。
「ふふ、いいポエムになると思うよ。……おや、そろそろお迎えかな。ほら、そこから猛烈な『焦げた匂い』……もとい、怒りのエーテルが近づいてくる」
「……アゼム! ヒュトロダエウス! どこへ消えた! 購買部の限定パンを確保する術式に欠陥があったと言っているだろう、責任を取れ!」
遠くから響くエメトセルクの、理屈っぽくも必死な絶叫。
それを受け、ヒュトロダエウスはヤ・シュトラにウィンクを一つ送ると、優雅な足取りで「怒れる青い色」の方へと去っていった。
一人残されたヤ・シュトラは、手元の白紙の論文用紙を見つめ、溜息をついた。
「……『質感』、ね。……全く、あの先輩たちを相手にするには、私の理論武装はまだ……少しばかり『薄っぺら』すぎるようね」
彼女はそう毒づきながらも、羽ペンを取り出した。その論文の書き出しは、当初予定していた「エーテル循環の統計的考察」ではなく、「放課後の廊下に残る、馬鹿げたほど熱い友情の色について」という、極めて非論理的な一文に書き換えられていくのであった。




