終幕
アダムはリンゴが欲しかったから食べたのではなく、禁じられていたからこそ食べたのだ
〜マーク・トゥエーン〜
恭弥に逃げられたことにより放心状態になっていたボクを他所に雪さんと紅葉さんは全力で粉雪ちゃんの治療に当たっていた。
だが、治療の甲斐なく粉雪ちゃんの治療は間に合わなかった。
『雪さ…ん。さっきの…話。いいです…よ。常時、この人を…殺しにかかれる、なんて最高じゃない、ですか』
そう言って彼女は事切れたらしい。
最後まで強い少女だった。
自分の命の危機も関係なくボクを殺そうとずっと策を巡らせていた。
そこまで考えて煙草に火を付ける。
歩き煙草は世間一般的にはダメらしいがボクには関係ない。
煙草の煙で肺を満たしゆっくりと吐き出す。
うむ、うまい。
至上の味とはまさにこの事だ。
『凜、いつまでマンションの前で煙草を吸い続けてんのよ。早く私にそれを渡して雪ちゃんの所に行きなさい』
『…七花さんに渡したら最後、全部吸っちゃうじゃないですか』
『まあね』
そう言って七花さんは笑う。
彼女も食人鬼に襲撃されたはずだが一番ピンピンしている。
どのように戦ったのか。
少し気になるが、まあ気にしないようにしよう。
どうせ、この人は心臓を刺しても死ななそうだし。
それより、風下さんが一番ボロボロだったのがなぜなのか気になるところだ。
いまでこそ、普通に暮らしているが当時は一歩も動けないくらいの重症だったのだから。
どんな敵と戦ったんだろうか。
少しどころかかなり気になる。
『ほら、さっさと行け。雪ちゃんが待ってるわよ』
ボクの煙草を吸おうとしている七花さんは早くマンションに入るようにしつこく促してくる。
『はいはい、わかりましたよ』
それに嘆息しマンション内へと歩いていく。
ああ、嘆息と言えば霊華さんだ。
全壊した警察署の近くで倒れ伏していた彼女の肉体が一番ひどい傷を負っていた。
ショベルカーに潰されてもこうはならないと医師に言われるくらいなのだ。
その傷は凄まじい物だ。
まあ、ボクはまだ彼女に会っていないので詳しいことはわからないが。
でも、彼女の事だ。
すぐに治ってしまうだろう。
そんなことよりも彼女は警察署の事で対応に追われていてここ数日嘆息しながら病院のベッドで仕事をしているらしい。
ご苦労なことだ。
『雪さん、呼び出された通り来ましたよ』
『おや、凜くん。遅かったね』
雪さんはいつも通りリビングの回転椅子でクルクルと回りながら温かいミルクを飲んでいた。
と言うか、遅いのは当たり前だ。
出掛けてる最中に急に呼び出されたのだから。
用事を放置してまで来たので後々面倒くさい。
『それで、今日はどうしたんですか?食人鬼の事はケリがついたんですよね?』
『ああ、今日はその食人鬼の事で君を呼んだんだよ。会わせたい子がいてね。入っておいで』
雪さんの一言と共に訪れたのは殺気。
それとこちらに襲い来る影。
『なっ⁉︎』
それを体を捻ることでかわし身体中に仕込んであるナイフを引き抜く。
だが、相手はかわされた途端に殺気を消し雪さんの元へと跳躍した。
そこにいたのは少女。
齢十を越えるか越えないかという位の年齢に見える小さな身体に、紫陽花色の薄紫の髪に同じ色の瞳、薄手の白いワンピースを着ている可愛げな少女。
この死んだはずの少女の名前をボクは知っている。
そう、少女の名前は歌虚粉雪。
恭弥に殺されたはずの少女だった。
『ふふ、驚いたかい?彼女が完治するまでは紅葉君と二人だけの秘密だったからね。ボクの実家で療養させていたのさ。また、神楽院君に襲われても困るしね』
ピクッとその瞬間に条件反射で反応してしまう。
だが、そんなことは後回しだ。
今は彼女に言わなければならない事がある。
『雪さん』
『なんだい?』
『いっぺん死んでください』
『いつかね』
ボクの心を込めた一言をサラリと受け流し粉雪ちゃんの頭を撫でる。
それに対し粉雪ちゃんは気持ち良さそうに目を閉じ身を任せている。
随分と仲良くなったものだ。
羨ましい。
『死ぬのは貴方ですよ。殺人鬼』
雪さんに撫でられながら粉雪ちゃんはこちらを睨みつける。
こっちは随分嫌われたものだ。
泣きたくなる。
『君が悪いんじゃないか。自業自得だよ』
『人の心を読まないでください、雪さん』
首をコキコキと鳴らしながら衣服の中からナイフを取り出す。
『それじゃ、ボクは今から殺しにかかられるのかな?粉雪ちゃん』
『ええ。と、言いたい所ですが雪さんと約束したので今日はもう襲いません』
雪さんへと寄り添いながらこちらを見てくる彼女に殺気は感じられない。
どうやら、本当に襲いかかってくるつもりはないようだ。
ふと、聞いていて気付いたが不思議なコメントがあった。
雪さんと約束?
『雪さん、どういうことですか?』
『おや、やっぱり気付いたかい。耳がいいよやっぱり君は。この前、粉雪君にボクのマンションに住めば君を襲ってもいいと言っただろう?』
ニヤニヤと笑いながら雪さんは立ち上がりこちらに近付いてくる。
裸足だからかペタペタと歩く音が可愛らしい。
そのままボクの元まで歩いて来るとこちらに顔を近付けながらこう言った。
『襲ってもいい代わりに彼女に課した条件は三つ。マンションの中の物を壊さないこと。マンションの住人を巻き込まないこと。後は、襲ってもいい回数は一日一回。この条件下なら君も納得だろう?』
『それなら、たしかに』
『ふふ、だろうと思ったよ。君は約束は守る子だしね。まあ、それはそれとしてだ。主に無礼を働いた罰を受けてもらうよ?』
その言葉を聞いた瞬間、口を何かに覆われた。
目の前に見えたのは雪さんの白い綺麗な顔。
それは、俗に言うキスと言うものだった。
そう認識した瞬間、身体中の力が抜ける。
驚いて飛びのこうとするが床へと倒れこんでしまった。
『なにを、するんですか…雪さん』
『なにって、お仕置きだよ。君が主を愚弄するからさ。美味しかったよ、凜君』
雪さんはそう言うがこんなお仕置きありえない。
まさか、貧血寸前まで血を抜かれるとは…
『ざまあないですね、殺人鬼。いや、凜さん』
雪さんの向こう側では粉雪ちゃんがボクを馬鹿にしながらニヤニヤと笑っている。
それを見て嘆息してからフラフラする膝を抑え立ち上がる。
『ああ、まあね』
ボクはそう言って笑う。
久し振りにこんな風に笑った気がする笑いだ。
こんな風に笑えたのも雪さんのおかげだろうか。
感謝しなくては。
『それじゃ、このまま花見でも行こうか。凜君。うちの実家の庭にいい桜の木を見つけたからね。七花君もそろそろ準備が終わっているところだろうし。粉雪君も出発準備万端だ』
『…花見なんて聞いてないんですが』
『今、言っただろう?』
雪さんはそう言って意地悪く笑う。
いつもの彼女の笑いだ。
もう、こうなったら彼女の意見を変えられないだろう。
『はぁ…はいはい、わかりましたよ』
貧血に悩みながら雪さんの元へと歩いていく。
粉雪ちゃんもゆっくり歩き出し雪さんは自室の玄関の扉を開ける。
『さあ、早く行こうか。七花君が待ってる』
寒空の下、そう言って雪さんは笑った。
だから、ボクはそれに
『はい、雪さん』
そう答えて…笑った。
第一話 食人鬼編
これにて終幕。




