第4話 継ぎ目と欲の渦
午前中の診療が途切れた頃、アリは手洗い場の下に水が溜まっていることに気付いた。
最初は、蛇口から跳ねた水を拭き忘れただけかと思った。地下階層の水道は水圧が安定しない。朝は弱く、妙な時間に急に強くなることもある。
だが、靴底が不自然に滑った。
視線を落とすと、水は手洗い場の足元から、床の目地に沿ってじわじわ広がっていた。大きな水溜まりではない。だが放っておけば、安物の床材などすぐに浮いてしまう。
アリは蛇口を閉め、しゃがみ込んで棚板の下を覗いた。露出している管に目立った亀裂はない。接続部も湿ってはいるが、そこから噴いているわけではなかった。
壁の方を見る。
手洗い場の背面、古い壁紙の下部が濡れている。紙がふやけ、境目が少し浮いていた。その奥で、かすかに水の音がした。壁の中だった。
「……嘘だろ」
アリは低く呟いた。
診療所を開いて、まだ数ヶ月だった。内装の古さは承知していた。床は傾いているし、換気口は妙な音を立てる。夜になると壁の向こうを何かが走るような音もする。
だが、そういうものは地下階層では珍しくないと聞いていた。
多少の不具合なら、自分でどうにかなると思っていた。
壁の中の配管は、どうにもならない。少なくとも、医学知識ではどうにもならない。アリは濡れた壁の前に立ち、腕を組んだ。そして、唸った。
その時、出入り口のガラス越しに人影が止まった。
「……先生、何やってんの?」
顔を出したのは、近くの賭け屋で使い走りをしている若い男だった。以前、指を挟んで腫らした時に診てやったことがある。その後も、ちょっとした怪我や咳でちょこちょこやって来る。髪を白に近い金髪に染めているが、今日はそこにトサカのような寝癖があった。
「見れば分かるだろ」
アリは壁を睨んだまま言った。若者は診療所へ入り、床を見た。
「水漏れ?」
「壁の中の配管が漏れてるらしい」
「あー、やばいやつじゃん」
「分かってるさ」
「先生、自分で直せんの?」
「考えてる」
「道具あんの?」
「ない」
「じゃあ、何で壁の前で威嚇してんの」
「考えている」
「壁、怖がんないと思うけど」
アリは若者を見た。若者は笑いもせず、床の水溜まりをサンダルの先で避けた。
「知り合いに配管工いるから呼んでくるわ」
「今からか」
「今じゃなきゃ床腐るだろ」
「頼む」
言ってから、アリは内心ラッキーだと思った。若者は少し目を丸くしてから、にやっと笑った。
「先生、珍しく素直じゃん」
「早く行け」
若者は外へ駆けていった。
アリは古いタオルを探し、床に広げた。診療所にある布類は医療用が多い。床の水を吸わせるには惜しいものもある。かといって、惜しんでいる場合でもなかった。
バケツの水を外へ捨てる。戻る。その間にも、壁の下から新しい水が滲んでくる。完全に止めるには、やはり配管を見なければならない。
20分ほどして、賭け屋の若者が戻ってきた。彼の後方に、灰色の作業着を着た配管工らしい男がいた。肩から工具袋を下げ、眠そうな顔をしていたが、壁を見るなり目つきが変わった。
「先生、水漏れなら、まずは元栓を閉めなきゃあ」配管工は笑った。
アリは固まった。知識としては知っている。水漏れの時は元栓を閉める。そんなことは、子供でも教えられる生活知識だ。だが、目の前で床が濡れ、壁がふやけ、どう処置しようか考えている内に、その基本が頭から抜けていた。
ダイアトロン社にいた頃なら、設備管理部に内線すれば、それで終わりだった。自分が壁の前で唸る必要などなかった。
「……元栓はどこだ」アリが低く言うと、賭け屋が噴き出した。
「先生、そこから?」
「うるさいぞ」
配管工は手洗い場の下や床の端を覗き、やがて入口横の鉄蓋を指差した。
外へ出て蓋を開けると、古いバルブがあった。配管工が回そうとしたが、固かった。途中でアリが手を貸すと、重い抵抗の後にようやく動いた。
診療所へ戻ると、水の滲み出す勢いは落ちていた。配管工は壁紙の濡れている範囲を押し、音を聞くように壁を軽く叩く。
「あぁ、よくあるやつだから大丈夫だよ」
「よくあっていいものなのか」
「問題ないさ」
配管工は小型の鋸を取り出した。アリはそれで壁を切るのかと思わず眉を寄せたが、男は慣れた手つきで壁紙に刃を入れた。濡れて柔らかくなった壁材を四角く切り取り、中の古い配管を露出させる。湿ったカビの臭いが広がった。壁の中の配管には、ごく小さな穴が空いていた。
「この程度であれだけ濡れるのか」
「水圧だよ、先生」
配管工は古い管の穴の空いた部分を切り取り、新しい塩ビパイプを出した。地下階層でよく見る安いものより、表面が均一で厚みもある。
「この辺で使われてるやつより、良いパイプ持って来たよ。こないだ娘を診てもらったからね。ほら、帯状疱疹の子」
アリは一瞬、考えた。
そうだ、6歳くらいの子供だった。顔の片側に発疹が出て、母親がひどく慌てた様子で連れてきた。抗ウイルス薬を処方し、清潔に保つよう指示して終わった。アリにとっては、その程度の記憶だった。だが、親にとってはそうではなかったらしい。
「……ああ。あの子か。もう痛みは引いたか」
「おかげさんでね。痕も残らなさそうだ。娘があれから、せんせぇ、せんせぇってうるさくてさ」
配管工はパイプの端を温め、元の配管に被せ、手早く位置を合わせた。さらに補修用のテープを巻き、継ぎ目をきっちり締めていく。アリは邪魔にならないよう、その作業を黙って見ていた。壊れたものを切り、悪い部分を取り除き、新しいものを繋ぎ、漏れないように留める。それはどこか処置に似ていた。
配管工の横で、若者が工具を渡している。
「それじゃない。青い柄の方」
「これ?」
「違う、それは切るやつ」
「先に言ってくれよ」
「見りゃ分かるだろ」
「俺、頭わりぃんだよ」
配管工が笑った。
賭け屋はそれでも、次第に道具の位置を覚えていった。テープを持つ。ライトを当てる。切り取った壁材をどかす。暇だから戻ってきたと言っていた割には、配管工の後輩のようによく動く。
アリは、いつの間にか診療所の中が作業場のようになっていることに気付いた。
壁には四角く穴が開き、工具が床に並び、水を吸った布が散らばっている。普段なら消毒液の匂いで満たされている部屋には、湿った壁材と、樹脂の焦げる匂いが混ざっていた。
小一時間ほどで、水漏れは直った。
元栓を開け直し、蛇口を捻る。新しい継ぎ目からは水が漏れていない。念のため何度か水を出したり止めたりし、手洗い場の下も確認する。問題なし。ただし壁には、四角く切り取られた穴が残った。
配管工は持参した板材で、その穴を塞いだ。元の壁紙とは微妙に色が違う。古い白壁の中に、そこだけ薄茶の板が貼られたようになっている。
「目立つな」アリは壁をまじまじと眺めた。
「剥き出しよりいいだろう」
「それはそうだが」
「地下の壁なんてそんなもんだ」
手洗い場は使えるようになった。薬品棚や処置台の周囲にも被害はなかった。
アリは鍵付きの引き出しから少額紙幣を取り出し、若者と配管工へ渡した。
「手間賃だ」
配管工は少し驚いた顔をして、それから笑った。「先生、そういうとこは上から来た人っぽいね」
「気を悪くしたか」
「悪くないよ。ちゃんとしてる」
若者は紙幣を光に透かした。
「本物?」
「疑うなら返せ」
「冗談だって」
配管工は次の現場があると言って帰り、若者もひらひら手を振って出ていった。
診療所がやっと静かになった。
アリは床をもう一度拭き、道具の跡を片付け、壁に貼られた新しい板材を眺めた。
見た目はひどい。
だが、水は漏れていない。
完全に直ったわけではない。けれど、今は使える。
この街のものは、たぶん、何もかもそうやって持たせていくのだろう。
建物も。
配管も。
身体も。
生活も。
アリは洗面台の前に立ち、そこだけ色が変わってしまった壁の板材を、コンコンと指で軽く叩いた。
乾いた音がした。
悪くない音だった。
***
夜になると、街は別の顔を見せた。
アリは2階の窓を大きく開け、サッシに前腕を乗せるような姿勢で体重を掛け、煙草に火を点けた。
煙が湿った空気の中で薄く伸びる。
雨はもう上がっていたが、通りのあちこちに水の気配が残っている。配管の下で滴る音がし、看板の縁から落ちる雫が、薄汚れた路面を黒く濡らしていた。
下の通りでは、夜の商売が始まっている。
目に刺さる赤色や青白い蛍光色、濃いピンクや眩し過ぎる黄色など、街は猥雑な明かりで入り乱れていた。
人々の顔はその色の中で、実際よりも濡れて見えた。
その中で娼婦たちの声が聞こえた。客引きの声に、言葉の意味を持たない酔った男たちの笑い声が混ざり合う。
この街では、夜になると“欲の渦”が出来る。
それは決して綺麗なものではないが、「汚い」の一言で片付けられるものでもなかった。
人々の欲は金になり、金は家賃になり、家賃は寝床になり、寝床は明日の身体を繋ぐ。
抱かれること、飲むこと、笑うこと、薬で忘れること、誰かの隣で一晩だけ寒さを誤魔化すこと。その全部が、地下の湿った通りを、血流のように絶え間なく流れている。
アリは煙草を深く吸った。煙が肺に入り、少しだけ苦味を残して出ていく。
――なぜ、もっと静かな場所に、診療所兼自宅を借りなかったのかと思ったこともあった。
単に、自分が内見できた物件の中で、この雑居ビルの壁材等が一番マシだっただけだ。それにアリは、この2階の窓から眺める、蛍光色の営みが嫌いではなかった。
1本目の煙草が短くなったところで、アリは火を消して窓から離れた。
寝室を抜けキッチンに行き、冷蔵庫の奥に押し込んであった、安い酒の瓶を1本取り出す。
キッチンの空気には、昼間に配管工が熱していた塩ビパイプの焼けた臭いが、まだわずかに残っていた。
アリは、昼間に配管工が塞いでくれた、壁の四角く浮いた板材を思い出した。
元の壁紙とは色も質感も合っていない、不格好な継ぎ目だった。水漏れは止まったが、傷跡は残った。ただ、今夜は漏れていないし、また壊れるまでは使える。人間も、あるいは似たようなものなのかもしれないと思った。
アリは瓶を開けた。蓋がころんと音を立てて床に落ちる。安いアルコールの匂いが鼻に触れた。
喉へ流し込むと、胃の底がぼんやり温まった。それだけだった。以前からずっとそうだ。酒を飲んでも、身体が温まるだけで、他の感情が上がってこない。
窓辺に戻ると、下の通りでは相変わらず人が流れていた。
娼婦も、客も、店の灯りに寄ってくる男たちも、明日の朝まで同じ形で残っている保証はない。
この街では、誰もが継ぎ接ぎで今日を越えている。
笑い、飲み、抱かれ、忘れたふりをし、壊れた場所から何かが漏れないように、手で押さえながら生きている。
ふと、ナギが以前語っていた都市伝説を思い出した。肉体も、名前も、痕跡も消し去る亡霊。あんな与太話を、あの女は笑いながら羨ましがっていた。その時は、まともではないと思った。
だが今なら、その願望の輪郭くらいは分かる気がした。アリの中にも、自分ごと消したいものがあるのだ。
アリは酒瓶を持ったまま、通りの奥に目をやった。娼婦が2人いるのが見えた。
1人は壁を背にして、白孔雀のような派手な上着を肩に引っ掛け、気怠そうに客待ちをしていた。
もう1人は客の腕を取りながら笑っている。笑い声は不安になるほど擦れて軽かった。
――アリはそれを見て、何かを感じるべきだと思った。
軽蔑でも、艶羨でも、哀れみでもいい。
だが、胸の奥は深い水底のように静まり返っていた。自分の中には何も湧かない。正確には、何も湧かないのではなく、欲を水面まで浮かび上がらせることに、もう疲れている。
その事実を、アリは安い酒を呷りながら受け止めた。
元から無かったわけではない。無い男ではなかった。
むしろ、過去に“執着し過ぎたから”こそ、扱いを間違えた。
欲を愛情と取り違え、救済と取り違え、相手を現実へ引き戻すためだと名前を付けた。
綺麗な理屈を重ねて、結局、自分が見たくないものを押し付けた。
――その詳細を、今ここで思い出す気はなかった。
ただ、押し殺しているうちに、いつの間にかそれが“通常”になった。
身体が反応を拾うより早く、頭のどこかが冷えて、その手前で蓋が降りる。手足の動きも、肌の近さも、網膜には映している。気付いてはいる。だが、それ以上へ進む回路が、途中でショートしたように途切れる。
アリは半分ほどに減った酒瓶を床に置き、2本目の煙草に火を付けた。
看板の明かりが、濡れた通りに伸びていた。客と娼婦の影が、その光の上を行き交い、ヒトの輪郭が歪んだ。
自分の欲は、どこかで壊れたのかもしれない。
そう思った。
言葉にしてみても、驚きはなかった。
むしろ、前から薄々分かっていたことに、ようやく名前を付けただけのような気がした。
壊れたものは、直せるのだろうか。
昼間の水道管の水漏れのように、破損個所を整えればいいのだろうか。
それとも、壁の中の配管そのものが腐っていれば、部分的にいくら継ぎ接ぎしても、意味がないのだろうか。
アリは短く笑った。
医者のくせに、自分のことになると診断が荒い。いや、そもそも自分は精神科医じゃない。
煙草の灰が落ちそうになったので、アリは窓際の古い皿へ灰を落とした。
下ではまだ、女たちが笑っている。
その声は、どこか懐かしいようで、同時に自分にとってひどく遠かった。
この街のものは、たぶん何もかも、こうやって一晩ずつ持たせていくのだろう。
建物も、身体も、生活も。
アリは煙草を最後まで吸い、火を消した。
今夜は2階を降りなかった。




