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第5話 苛立ちの矛先


「カーくんってさぁ、何でアタシのこと抱いてくれへんのぉ?」


 ある日の午後。診療所の簡易ベッドに寝転がったナギが、天井を見上げたまま言った。

 彼女は、いつも以上にふらつきながら診療所に入って来た。まるで階層検問の返却荷物の扱いように、どすんと乱暴にベッドに寝転がった。それからずっと天井を眺めている。

 普段ならいつの間にかきっちり塗り直されている赤いルージュは、今日は半分ほど落ちていた。代わりに、唇の端だけが妙に艶めいている。目はいつも以上にとろんと落ちていて、いつから起きているのか分からないほど眠たげだった。

 そこにきて、冒頭の台詞である。


 アリは診察机に座って、先日地上から買った医学書に目を落としたまま、頁を捲る手を止めた。


「――寝言は寝てから言え」


「起きてるよぉ」


「じゃあ余計タチ悪い」


 ナギはくすくす笑った。

 笑い声は普段と変わらなかった。けれど、いつもならこの後に決まって1つか2つ、軽口が挟まる。ナギはまるで、幼児が、天井に貼り付けた滅茶苦茶な福笑いで喜んでいるかのように、くすくす小さく笑い続けていた。


 ……嫌な予感が、アリの背筋を這った。


 アリは本から目を離し、ゆっくりと振り返る。


「……お前、何か飲んだな」


 ナギの睫毛が一度だけ揺れた。


「ちょっとだけ」


「またワンドリか」


 ――ワンドリ。通称「ワン・ドリーム」。アリがこの地下階層に来る前後から流行っている、錠剤型の合成ドラッグだ。

 主成分はオネイロール誘導体。次いで、軽い解離感を誘発するミラセチン系化合物。添加物として、神経の過敏を鈍らせるノクトリン酸塩が少量。

 依存性は低いとされるが、人によっては中途覚醒し、夢遊病のような症状を引き起こす。下層では、それだけで十分トラブルの火種になる。

 ナギのような昼も夜もない女にとって、それは副作用ではなく、シンプルに事故の入口でしかなかった。


「ちょぉっとだけって言ってるやん」


「量の問題じゃない」


「依存性ないよぉ。地上の痛み止めの方が、よっぽど常用してる人多いやろぉ」


「そういう話をしてない」


 アリは片手で読んでいない頁を捲った。機嫌が悪くなり始めたのを悟られたくなかった。

 ナギはベッドの上で仰向けになり、天井へ向けて素足を持ち上げていた。何に守られているのか、常に虫刺されの跡一つない細い足首が揺れている。それは性的というより、疲れた渡り鳥の首のように不安定に見えた。


「お前もう、そのクスリやめろ」


 口にしてから、アリ自身が少し驚いた。今まで、ナギの生活に踏み込むような事は避けて来た。それがこの街での礼儀であり、お互いの距離感だった。

 彼女は笑うのをやめ、ゆっくりと視線を天井からアリに向けた。


「……カーくん、今さらそれ言うん?」


「言うさ、医(・)者(・)と(・)し(・)て(・)」


「アタシの事、何も聞かんくせに」


「聞かない事と、知りながら放っておく事は違う」


 ナギは暫く黙っていた。それから、ふいと顔を逸らした。


「……つまんなぁ」


「どうしたナギ」


「カーくんさぁ、たまに急に地上の人みたいになるよね」


 その声には、子供が拗ねたようなま(・)せ(・)た(・)響きがあった。アリは心臓に冷たい血液が流れるのを感じた。

 ナギはすとんとベッドから降りると、ふらつく事なくヒールへ足を入れた。


「帰るぅ」


「送る」


「家の場所知らんやろぉ」


「ナギ」


 呼ぶと、彼女は振り返らずに手だけを振った。黒茶の長い髪が揺れた。


「またねぇ、カーくん」


 いつもの声だった。 ただ、こちらを見なかった。扉が開いてすぐに締まった。湿った夜の匂いが、ひとつかみ分だけ診療所へ入り込み、すぐに消えた。アリはしばらく、閉じた扉を眺めていた。

 舌の奥に、嫌なざらついた後味が残っていた。だが、自分が間違っているとも思えなかった。アリは苛立ちを肺の奥から吐き出したくて、深く息をしようと建物の外に出た。彼女の姿は既にどこにもなかった。

 生ぬるく、到底癒されない風が全身を舐めた。



***



 数日後。

 雨は昼過ぎに止んだが、街全体がまだ濡れていた。

 配管から滴る水が、診療所の外壁を伝っている。

 相変わらず蒸し暑くはあるが、時折、上層から迷い込んだような風が通路を抜け、濡れて滞留した壁の匂いを流して行った。


 その日の最後の患者は、腹痛を訴える中年の男だった。

 本人は「腐った合成肉に当たった」と主張していたが、熱はない。腹部は柔らかく、反跳痛もない。代わりに、右上腹部を押すと顔を顰め、食後に痛みが強くなると言う。

 アリは簡易エコーを当て、胆嚢の影を確認した。

 小さな結石らしきものがいくつか見えるが、必ずしも悪性ではない。急性炎症の所見は薄いが、油物と合成酒を控えろと言ったところで、ここの住民には食事を取るなと言うに等しい。


「痛みが強くなったら我慢するな。熱が出たら夜中でも来い」


「先生、お代は?」


「今日は薬代だけでいい。3日分出す」


「おいおい、安過ぎないかい」


「高くした方が安心するなら倍取るぞ」


 患者はやっと緊張が溶けたように笑い、薬袋を掴んで帰って行った。

 アリは患者が遠ざかったのを確認し、内側から鍵を掛け、カルテを書き始めた。


 ――胆石疑い。発熱なし。黄疸なし。経過観察。再診指示……

 再診指示で実際に患者がまた来る確率は稀だ。それでも、自分に出来る事をする。

ペン先が紙の上を滑る音だけが、診療所に響いた。



 その時、ふっと視界が、太陽が雲に隠れたように暗くなった。大きな影が、カルテの上に落ちていた。


「悪いね、今日はもう終了で――」


 そう言いながら顔を上げて、アリは言葉を失った。


 診察台の向こうに、知らない女が立っていた――



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