第3話 都市伝説の亡霊
彼女――ナギとの会話はいつも、一見どうでもいいように聞こえるが、この街の処世術として有益な事ばかりだった。
この店の料理は必ず下すから食うなとか。
この辺りの配管は雨季になると水が溢れるとか。
あそこの角にいる老婆はかなり情報通だとか。
あそこの路地は20時以降は絶対通るなとか。
あのサングラスの男には必ず先に挨拶しろとか。
金を払う時は、手元じゃなく相手の目を見ろとか。
ナギは、街の生き方をよく知っていた。
アリは、それをよく聞いた。
アリには、地上にいた頃の名前がある。
故郷もある。幼い頃に失った家族もある。
紛争地域の境界線の町で生まれ、巻き込まれた事。母親の顔を、もうほとんど思い出せない事。兄が一人いたが、今どこで生きているのか、あるいは生きているのかさえ分からない事。
医者になれたのは、自分が特別だったからではない。拾われた先が物凄く幸運だったからだ。養子先の人間が教育を与え、自分の力を最大限引き出せる機会を与えてくれたから。たまたま、人生においてそういう席に座れただけだ。
ナギは、どの時点の過去も聞かなかった。
「カーくんってさぁ、“上”では偉かったん?」と、以前一度だけ聞いてきたことはある。
「そこそこな」
と答えると、彼女はそれ以上踏み込んで来なかった。
「ふぅん。じゃあ偉そうにする才能は元々なんやねぇ」と笑った。
それで終わりだった。
アリが遅れて食事を終えた時、ナギはすっかり赤色が落ちた唇の端を舐めていた。そうしていいと言ったのはアリだが、彼女はちゃっかり違う屋台で、(恐らく本物じゃない)チョコレートシロップがたっぷり掛かったアイスを食べていた。
「カーくん、今日これから暇ぁ?」
スプーンで白と焦茶の塊を突付きながら、彼女は言った。
「暇じゃない。診療所にまた戻る」
「じゃあ暇じゃんかぁ。さっき今日はもう閉めたって言ったじゃぁん」
「――明日、地上に行くから、薬品とかの在庫の確認に戻るんだよ」
アリは言ってしまってからハッとした。ナギの事だから、地上なら一緒に行きたいと言い出すんじゃないかと後悔した。地上はここよりよほど安全だが、彼女が何かに目移りしてふらりと消えたら、連れ戻せる自信がなかった。何より、彼女を探して地上を歩き回り、誰か知り合いに出くわしでもしたら――
「カーくん、汗かいてる」
アリはまたもやハッとした。こめかみに、大粒の冷や汗をかいていた。彼は乱暴に服の肩あたりでそれをぬぐった。
「暑いな。そろそろ帰るぞ」
「そぉ?アタシ冷たいもん食べてるから分かんなぁい」
「……診療所、来てもいいけど邪魔するなよ」
「もちィ」
2人は椅子から立ち上がった。ナギはアイスの残りを大事そうに持っていた。さっき焼き飯を提供してくれた親父が、傘を持った巨人みたいな男と、やけに布の少ない華奢な女の組み合わせを不思議そうに見ていたが、すぐに興味を無くした。
***
「ねぇ、カーくん。都市伝説って信じる人ぉ?」
飯の後、ナギと診療所に戻り、薬品棚を開けながらクリップボードとにらめっこしていたアリは、突然の話の斜め具合に思わず眉を寄せた。
「……俺は医者だぞ。んなもん信じるか」
ナギは腹が満たされて心地良いのか、診療所のベッドの上で仰向けになりながら、コロコロ笑っていた。白くて細い脚が、天井に向かって無防備に縦に揺れていた。勘弁してくれ、とアリは思った。
「信じてるかはいいのぉ。面白いから聞いてよぉ」
「お前人の話聞けってよく言われるだろ」
ナギは気にせず続ける。
「ここも地下だけどさぁ、ここより更に更に、“マリアナ海溝の底”よりふかぁーい所に、瓦礫とか金属とか、何か分からん物でぐちゃぐちゃになった、昔の都市の跡があるんだってぇ」
「……“マリアナ海溝”は知ってんのか」
「えへへ。その地下都市にねぇ。かつて好きだった、死んじゃった女を生き返らせる為に、身体を再生できる魔法を探して彷徨い続けてる男の霊が出るんだってぇ。たった1人。何十年。何百年も」
「マジで都市伝説だな」
「その男に会ってお願いするとね、楽に終わらせてくれるんだってさぁ。痛くも苦しくもなくってぇ、気付いたらもう全部終わってるの。死体も残らないとか、名前も残らないとか、最初からこの街にいなかった事になるとか、話す人によってちょっと違うんよぉ。でも皆そこだけは一緒。“苦しまない”んだって。怖いけど、いいよねぇ」
「楽に自分を消してくれるねぇ……」
アリは彼女の話を聞いてはいたが、チェックボックスに印を入れる作業の方に気を取られていた。症状と世間話を織り交ぜる患者の話から必要な情報を得るには、必要なスキルだった。
「いいよねぇ。そんな能力あったら、この世界だったら一儲け出来るよねぇ。この街、死にたい人、いぃっっぱいいるもん」
アリのペンの動きが止まった。唐突に彼女から死の臭いを放たれ、話を切り上げたくなった。
「……お前それ、本気で信じてんのか?」
クリップボードから目を離しナギを見る。彼女は天井を眺めて揺れているだけだった。
「……第一、死体も名前も残らないなら、最初の一人目のやつだって“消されて”存在してないだろ。どうやって伝わったんだ。設定がガバいんだよ」
「カーくん夢なぁい。こういうお話は、細かい所はいいんだよぉ」
「分かったから、上で寝てるか今日はすぐ帰れ」
診療所の二階には、アリが自宅代わりにしている部屋の他に、もう一つ、患者用の狭い部屋があった。長時間安静にしている必要がある者のための部屋だ。ベッドと輸液スタンド、小さな棚だけがあり、飾り気はほとんどない。まだ実際に患者を寝かせたことはないが、設備としては用意してある。真意を確認しようがない与太話から派生した、この街の死の臭い。そんなものを、者悲しげに語った女を、このまま夜道へ帰すよりはましだった。
もちろん、アリはそんなものを心配とは呼ばなかった。
「でもいいよねぇ」
ナギが構わず天井を見つめて言った。先ほどチョコレートアイスを食べて、ルージュは端だけを残してほぼ消えかけていた。残った赤色が、蛍光灯の光を小さく反射していた。
「そこまで想って貰えるって羨ましい。この話のキモってそこじゃなぁい? 男はどうなったんだろう、女にまた会えたんだろうかって、“モーソーハカドル”よねぇ」
「……お前もう寝ろ。上使っていいから」
アリはクリップボードの角を天井に向けて、軽く上下させた。
ナギは2、3度瞬きをした後、蛹から羽化した蝶のようにゆらりとベッドから起き上がった。
そのまま2階へは行かず、無言でアリの横をすり抜け、診療所を出て夜の街に消えて行った。
その夜、ナギは結局、戻って来なかった。
アリはしばらく、外の小雨を眺めながら、煙草をふかして診療所の入口に立っていた。
蛍光灯の周りを、白い蛾が飛んでいた。
光に近付き、離れ、また近付く。自分が吐き出した白い煙が、光の一部を遮った。
「……Carpe diem、quam minimum credula postero.」
ふと、アリの口から漏れた。
子供の頃に祖母に教わり、気に入って何度も復唱していた、古いラテン語の詩だった。
今の今まで、忘れていた。
意味は、『明日のことを信じるのは最低限とし、その日の花を摘め。』
もっと意訳すれば、今を楽しめ、だった。
この街にいると、またその意味が違って見えた。




