第2話 雨の屋台
彼女――ナギと出会ってから、およそ2ヶ月が経った。
今の状況が、彼女の“お膳立て”なのかどうかは分からない。全く確証が無いが、診療所に来る患者が、少しずつではあるが、着実に増えていた。本人に聞いたところで、きっとあの間延びした声で「知らなぁい」と言うだけだろう。
最初の頃は、夜の白い蛍光灯に誘われて、間違えて入って来る酔っ払いばかりだった。脈を診て、水を飲ませ、少し休ませて帰す。そんな一文にもならない人間ばかりだった。
それがいつの間にか、化膿寸前の切り傷を診て欲しいと言う土木作業員が来た。
夜中に急に高熱を出したという子供を抱えた母親が来た。
合成プラント食で胃を壊した老人が、腹を押さえて脂汗を滲ませながら扉を叩いた。
「材料費だけでいい。診療代は後でいい」と言うと、相変わらず大抵の患者は疑いの目をアリに向けた。後日追加で払いに来る者などいないのは分かっていた。最初の宣伝経費だと思って、割り切っていた。
それだけで、この街では十分な進捗状況だった。
診療所の外を歩いていても、声を掛けられる事が増えた。
「やぁ、先生」
最初は1人だった。
次に、2人。
それから、見覚えのない屋台の男が、牛なのか何の肉なのか分からない、よく焼けた串を1本寄越してきた。
「余りもんだよ。捨てるだけだから」
方便だろうと思ったが、ありがたく受け取った。後から知ったが、屋台の男は、先日高熱を出した子供の父親だった。
アリが礼を告げて去ろうとすると、屋台の男は視線を炭火に向けたまま、アリを見ないで軽く片手を上げた。
別の日には、機械修理屋の若い女が、真新しい防水布を置いていった。誰のツテなのか、彼女を診察した記憶は無い。今は必要ないが、とりあえず貰っておいた。
また別の日には、結膜炎を診てやった子供が、小さな缶入りの飴をくれた。中身は溶けて、ガラスのような鋭さのアメーバ状の塊になっていた。
この街では、感謝も借りも、あまり真っ直ぐな形では受け渡しされない。
アリはそれを、少しずつ覚えていった。
もっとも、声を掛けられる理由の半分は、単純に目立つからでもあった。
190以上ある大柄な男が、白衣の上にくたびれたコートを羽織って歩いていれば、嫌でも人目を引く。
「あのデカい先生」
それで十分“界隈では”通じるらしい。
アリとしては甚だ不本意だったが、名前を覚えられるより早いのなら、それで良い気もした。
彼女。ナギの姿も、時々街で見掛けた。
一度は、派手な上着を羽織った、足より先に腹で歩いているような小金持ち風の男の腕に絡んで、狭い通路の奥へ消えていく所だった。こちらに気付いた彼女は、悪びれもせずにんまり笑って、片手をひらひら振って路地の奥に消えた。
別の日には、道端の屋台に立っていた。
エプロンと呼ぶには胸元がざっくり開き過ぎた布を身に付け、合成甘味料たっぷりのドロドロしたジュースを売っていた。氷は貴重なので、代わりに冷却石を沈めた安い飲み物だ。
彼女はまたもアリに気付いた。
「カーくん、暇ぁ?買ってくぅ?」
「じゃあ一杯貰おうか」
アリは屋台に近付いた。他の客がアリを見て、見慣れないものを警戒するように一瞥したが、そういう視線には慣れっこだった。
ナギはにこにこしながら、プラスチックコップへどろどろとした液体を注いだ。
オレンジ色が強い蛍光色のジュースは、舌が馬鹿になりそうなくらい甘かった。確実に言えるのは、毎日飲むもんじゃない。
アリは内心、この飲み物をこっそり何処で捨てようか考えながら、ナギに聞いた。
「お前、いくつ仕事持ってるんだ」
「そのときどきぃ」
「忙しいんだな」
「カーくん程じゃないよぉ」
いや、お前の方が大変そうだよ。と言いそうになって止めた。余計なお世話だと思った。
ナギという女は、街に住んでいればたまに見かけるが、その度によく分からなくなる。
客と歩いている夜があるかと思えば、屋台で働いている夕方がある。
どこかの階段に座って煙を吸っている朝方がある。
診療所へ顔を出し、薬品棚を勝手に眺め、「どれが何だかぜぇんぜん分かんない」とだけ言って帰る日もあった。
何をして暮らしているのか。
どこに住んでいるのか。
誰と眠っているのか。
だがアリは聞かなかった。聞かないから知らないままだった。
彼女もまた、アリの過去を聞かなかった。というよりも、そこまでの仲でもなかった。
***
別の日の昼下がり、ナギが診療所の前で暇そうにたむろしている時だった。ナギの前に野良猫が現れた。アリは一人と一匹を眺めながら煙草を吸っていた。
地下深いこの階層にも、僅かに地上から光が落ちる時間帯がある。
配管と鉄板の隙間を縫って差し込む、痩せた日光だった。猫はその細い光の上にごろんと仰向けになり、グリグリと地面に躰を擦り付けていた。
「かわえぇ」と、ナギはその場に屈み込んだ。
黒茶の長い髪が肩から落ちる。
細い指を、猫に伸ばそうとして、ぴたりと止めた。野良犬や野良猫に触らない方がいいのを理解しているのだろう。
屈んだ拍子に、彼女の腰の皮膚がちらりと見えた。
――赤茶色く、引き攣れていた。
幾筋にも焼け爛れた細い痕が、古い布同士を雑に縫い合わせたように、皮膚の上で硬く突っ張っている。
アリは、《《その傷の意味を知っていた》》。
幼い頃、家の中で逃げ場を持たなかった人間――ことに女性に、時々見られる痕だった。
加害者は、父親か、もしくは義父が圧倒的に多い。“印”を付けて、娘を自分の所有物だと思い込む事で、《《罪悪感》》を消す。歪んで間違ったおぞましい行為の痕だった。
ナギは日を浴びる猫を見て、赤い唇を緩めていた。
アリはその横顔を黙って見ていた。
***
2日に1回は雨が降るようになった。蒸し暑い時期だった。アリは今日最後の患者を帰し、少し早めに診療所を締めた。
最後の患者は、食肉加工作業中に、うっかり前腕を裂いた男だった。古いスライサーの刃が滑ったらしい。傷口には男自身と家畜の両方の脂と血が混じり、深々と切れていた。見ると幸い、腱までは達していなかった。アリは十分過ぎるほど洗浄し、局所麻酔を打って5針縫った。抗生剤を渡し、「赤く腫れて熱を持ったら、必ずまた来い。腕一本失うぞ」と脅すと、男は神妙な顔で何度も頷いた。
明日は月に1~2回、“地上”に医療資材を調達しに行く日だった。今晩の内に、在庫の確認を入念にしておきたかった。
ついでに、地上で書籍を色々仕入れよう。医師免許は持っているが、前職では長い事“人工人間の開発”という、共通点は多々あれど、絶妙に畑違いの研究をしていた。患者が少しずつ増え、再度勉強の必要性を強く感じて来た。衛生端末が使えればそれが一番良いのだが、何せこの地下階層は電波が常に悪かった。
ほどよい疲れだった。相変わらず儲かってはいないが、少しずつ手応えを感じ初めていた。
一旦飯にしようと、アリは通りを出て歩いて5分ほどの屋台街に出掛けた。静かに雨が降っていた。辺りは下水臭さと油の臭いが漂っていた。
アリが傘を指すと、自分の傘から滴る雫を、大抵の人の上に降らせてしまう。彼は出来るだけ周りからから距離を取った。
雨でも活気のある煙の中を歩く。どこの店からも騒がしい音楽が聴こえる。ほんの数人だが、何人かの店員がアリを見て片手を上げたり、チラリと笑顔を見せてくれた。
とある店の屋外飲食スペースに、珍しい姿を見掛けた。
ナギが1人で飯を食っていた。“客”も連れず、煙草も吸ってない。“食べ物と1人のナギ”という、考えれば普通だが珍しい組み合わせだった。
アリはその近くの屋台の店員に手短に注文を伝えて金を払うと、「あそこに居る」とテーブルを指差してから、ナギの前に座った。
「――お嬢さん、ご一緒いいですか」
ほんの冗談のつもりだった。だが器から顔を上げたナギは、一瞬、死を覚悟した怯える子鹿のような凍りついた目をした。それからアリを認識して、いつもの口元が緩んだ笑顔を見せた。
「なぁんだ、カーくんじゃあん」
アリは申し訳無い事をしたと思った。二度としないと誓った。
「……今日は早く診療所を閉めたんだ。ここで飯食っていいか」
「いいよぉ」さっき一瞬だけ見えた表情はもう無かった。
「でも私、もう食べ終わるよぉ」
「いいよ、デザート食えよ」
ナギは麺料理を食べていたが、確かに残り少なかった。彼女は嬉しそうにまた麺をすすった。箸の持ち方がいやに綺麗なのが、色々彼女の過去を詮索してしまいそうで、アリは思考を振り払った。煙草に火を付けた。
人々の雑踏。店の音楽。バイクの走行音。断続的なクラクション。辺りが音に満たされているお陰で、沈黙が苦ではなかった。
程なくして、屋台の親父が、皿に盛った焼き飯をアリの前へ置いた。
脂が多く、塩気も強い。地上にいた頃なら、まず食べなかったメニューだ。だが人間慣れるもので、不思議とこれが病みつきになる。
ナギは自分の麺料理の器から、トッピングで乗っていた薄切り肉の残りを全て、アリの飯の上に乗せた。
「カーくん、食べなぁ。成長期やろぉ」
「もうとっくに終わってるよ。お前わざと言ってるだろ」
「えへへ。まだ伸びそうやん」
「これ以上伸びたら、広場で突っ立って、待ち合わせスポットになるアルバイトでもするよ」
ナギは赤い唇で箸の先を舐め、楽しそうに笑った。
アリは、彼女が寄越したう肉を口に運んだ。
茹で過ぎなのか、固くパサパサで味が薄く、正直不味かった。
(……こいつ、分かっててよこしたな)
言ってやろうかと思ったが、何だか面倒臭くなって、アリは黙って飲み込んだ。




