第1話 ナギ
――あれは、今から約4か月前の事だった。
雨が多く蒸し暑い時期と、凍えるように寒い時期以外は、季節感を肌で感じる事が難しい、地下深い世界だった。暦で今日を確認する癖を怠れば、すぐに今が何月か分からなくなってしまう。
男はまだ、この仄暗い階層での歩き方を知らなかった。
数ヶ月前まで上層で使っていた名刺も、資格証も、肩書も、ここでは殆ど意味を持たなかった。
医師免許を持っているのは本当だった。偽装ではない。しかしこの街で医者だと名乗れば警戒され、材料費のみでいいと言えば裏があると疑われ、無料だと言えば罠だと思われた。
診療所の看板は出していた。
だが、開いて間もないこの場所に、患者はぽつぽつとしか来なかった。それも、半数は、ここが夜でも白く明るい蛍光灯の灯った空間だから、羽虫が誘蛾灯に誘われるように入って来てしまう、ただの酔っ払いだった。
男は、その時は水を与え、脈や血圧を診てやり、一言二言会話をし、問題なければそのまま帰す。つまり一文にもならない。
怪我人も、病人も、街には掃いて捨てるほどいるはずだった。それなのに、誰も簡単には扉を叩かない。
当然だった。この街では、“助ける”という言葉にいちいち値段が付いている。“善意”というのはその殆どが、罠なのだ。
アリはそれを、まだ頭でしか理解していなかった。
幸い、当面の間、資金には余裕があった。
かつてのアリは、地上の「ダイアトロン・オーグ社」という、世界有数の生体工学系大企業に所属していた。
医師免許も持っていたが、仕事内容は主に、人工生命の開発研究だった。肩書きは「生体組成工学部門 統括主任補佐」。生物工学の博士号も持っている。アリの“地上”での肩書きは立派なもので、社会的地位も、収入もそれなりにあった。中央政府内に知り合いも何人かいた。
――そんなアリは、ある日“事件”を起こした。
事件内容を思い出すのは、傷を抉られるのでもうしないようにしていた。
ともかく彼はその“事件”で不起訴になった。“被害者”も訳あって被害届を出さなかった。
更に、彼は、ダイアトロン社と中央政府の癒着を、洗いざらいマスコミに公表する事により、一部の世論を味方に付けた。
結果的にお咎め無しになったが、研究所や、“地上”に、もう彼の居場所は無かった――
ダイアトロン社時代の貯蓄は、幾つかの暗号資産へ分散して、この地下階層へ持ち込んでいた。
当面の医薬品、消毒剤、脱脂綿や包帯。発電機、精製水、縫合糸、ブドウ糖……それらを揃えるだけの金はあった。
だが、いつまでも持つ訳ではない。
診療所が地域に根付かなければ、ただ資材を地下へ垂れ流す事になる。
正直、焦りはあった。
だが焦っていて誰かが助けてくれる程、ここは甘い場所ではなかった。
その夜、アリは薬品の補充を終え、診療所の戸締りをしっかり確認し、薄暗い路地を歩いていた。
雨季が近いのか、じっとりと空気が肌に纏わりつく、蒸し暑い夜だった。何か、屋台で冷たい酒を一杯引っ掛けたい気分だった。
上を見上げると、遥か頭上から黒い配管が、巨大生物の内臓のように絡み合っている。その壁面から滲んだ汚水が筋を作っていた。
湿気と油。古い煙。プラスチックが焦げた匂い。アンモニアと、それ以上に鼻を付く何かの薬品の臭い。
遠くで野犬の鳴き声がした。誰かが笑い、別の誰かが咳き込んでいた。
アリはそれらの“街の標準”を全部飲み込んで、まだ営業している屋台を横目で物色していた。この4ヶ月で、だいぶ腹も壊さなくなった。
ふと、屋台とビルの間。路地の影になっている場所から、女の声がした。
「――だからぁ、今日払うって言ってるじゃぁん。一日だけやろぉ」
間延びした声だった。媚びているようにも、相手を小馬鹿にしているようにも聞こえる独特の抑揚だった。だがその声の奥に、わずかな必死さと緊張が混じっていた。
アリは足を止めた。
非常灯の赤い明かりの下、数人の若い男が、一人の女を囲んでいた。
男たちは揃って安い合皮の上着を羽織り、その内一人は亜熱帯の鳥のように派手に髪を染めていた。靴先には泥がこびりついている。どれも街の下っ端らしい雑な格好で、凄みよりも、虚勢の方が先に立っていた。
関係性は分からないが、女も男たちと同じく若かった。
女は壁際に追い込まれている。長い黒髪が肩へ流れ、赤い唇だけが妙に艶やかで、非常灯と同じ系統色の筈なのにやけに浮いて見えた。
服装は派手ではない。ただ、布が少ない。
細い肩と脚が、湿った空気に無防備に晒されている。
「今日払えるんだろ?」
囲んでいる男の1人が言った。
「だからぁ、そぉ言ってるじゃぁん」
女が追い詰められたまま、独特の抑揚で言った。恐らく家賃か借金の話だろう。
「じゃあ金取りに一緒に家行ってやるよ」
女は長い髪を振りながら言った。
「やだよぉ! あんたすぐ痛くすんじゃん!」
男の顔が不愉快そうに歪んだ。
「調子乗ってんじゃねぇぞ」言い終わるか終わらないかの内に、男は女の腕を掴んだ。
その所作は、少し離れた所から見ていたアリには、到底、異性に対して行うものには見えなかった。
生きた鶏を絞めるのに、両脚を逆さで掴む時のような動きだった。
逃げられないように、男は女の細い腕に指を食い込ませた。
女は身を捩った。
「だからぁ、痛いってぇ」
端から見れば、ふざけた声だった。
男が自分の腕を引いて引き寄せる。
次の瞬間、女の身体がよろめき、彼女の膝が、配管の繋ぎ目の角に勢いよくぶつかった。
「……いっだぁ……!」
女が顔を歪めた。
そこでアリは歩み寄った。
「おい、そのくらいにしとけ」
男たちが一斉にアリを見上げた。
この階層へ来てから、ことに自分の身体の大きさが、交渉材料になる場面は多かった。
自分の出生を考えると、何でこんなに育ったのか不思議な、195センチは優にある身長。広い肩幅。中東系の血が入った彫りの深い顔――
黙って立つだけで、相手が勝手に一瞬で計算して、勝手に怯んでくれる。
ここでも同じだった。男たちの視線が、アリの顔から肩、胸元、手元へ流れる。
「誰だ、お前」
「――通りすがりだ」アリは答えた。
「通りすがりが口出すな」
「医者をしてる。彼女が今そこで膝を切った。放置すれば感染症になる」
男たちは一瞬だけ顔を見合わせた。
「医者」という単語は、この街では金にもなるし、面倒事の火種もなる。
アリは掴まれた女の腕へ視線を流した。
「離してやれ。折れてからだと治療費がはね上がる」
腕を掴んでいる男の眉が動く。
「オッサン、俺らを脅してんのか」
「ただの料金説明だよ」
沈黙が落ちた。男は舌打ちして女の腕を離した。
女は掴まれていた腕の部分を擦りながら、配管に寄り掛かった。男たちの興味がアリに移ってくれたようだった。
「――街の新入りか」
「そうだ、よろしく頼む」
「オッサン。この街の面倒、買い過ぎると早死にするぞ」
「あぁ、覚えておくよ」
男は配管に寄り掛かったままの女の方を向き、低く言った。
「今日中だぞ」
「守るってばぁ」
相変わらず間延びした声だった。
男たちは最後にアリを一瞥し、アリの分からない言語で短く、恐らく差別用語を吐きながら、路地の奥へ消えていった。
残された女は、配管にもたれたままアリを見上げた。
「おにぃさん、デカぁ」
最初の感想がそれだった。
アリは眉を寄せた。
「お嬢さん、膝を見せろ」
「こんなん平気だよぉ」
「この街で怪我を放置していたら感染症になるぞ」
「あんた何なん?医者ってホンマぁ?」
「本当だ。資格証見るか?」
アリはポケットからHPKIカード(携帯用ICカード)を取り出して女に見せた。
女はカードを見詰め、数秒黙り、それから目を細めた。
「見てもよぅ分からん」
本当に分かっていなさそうな顔だった。
女は隙を見て、アリの横をするりとすり抜けようとた。そして数歩歩いて膝を庇った。
皮膚がめくれ、傷口から足首に向かって、途中二股になってタラタラと血が流れていた。
アリはため息を吐いた。
「――来い。すぐそこだ」
「誘拐??」
「診療所だ」
「アタシ今お金ないよぉ」
「初診無料」
「それ、いちばん怪しいやつじゃぁん」
「じゃあそのまま膝を腐らせろ。切断は更に高いし痛むぞ」
女は笑った。赤い唇に似合わない、少女のような笑顔だった。
「おにぃさん口悪ぅ」
ようやっと彼女は、ゆらゆらとアリの後を付いて来た。世の女は、よくそのヒールですっ転ばないな、と思った。
診療所は、まだ新しい匂いがした。
診察器具は新品だが、安物の一部錆びた金属ラックに、中古の診察台とベッドが1つ。
壁の塗装は所々剥げていたが、床だけはアリが丸一日掛けて無理にでも磨いた。部屋の中は、消毒液の匂いと、発電機の低い唸りが充満していた。
女は診療所の奥までは入らず、入口付近で一旦立ち止まり、意外そうに室内を見回した。
「……なんや。ちゃぁんとしてるぅ」
「それは褒めてんのか」
「この辺の“自称医者”って、もっと何か、怖いんよぉ」
「俺も十分怖いだろ」
「顔はねぇ」
アリは返事をせず、患者用の椅子を引いた。
「そこ座れ」
女は言われた通りに、ゆらゆらと患者用の椅子まで来て腰掛けた。
その拍子に、花のような甘い匂いが少しだけ漂った。
香水か石鹸か、あるいはその両方か。アリは分類する気も起こさず、今見るべきものはそこではないと、傷の方へ視線を落とした。
膝の傷は見た目より浅かったが、配管の錆屑が多少入り込んでいた。放置すれば腫れる可能性は十分だった。
消毒液を含ませたガーゼを膝に近付けようとすると、女は肩を縮めた。
「それぇ、痛いん?」
「痛いぞ」
「心の準備させてよぉ」
「準備したら痛くなくなるのか?」
「ならんやろなぁ」
アリは鼻で笑い、手早く傷口を拭いた。
女は最初に触れた時だけ、小さく「ひっ」と声を上げたが、その後は押し黙っていた。
処置している間、女は大人しくしていた。意外なほどじっとしていた。まるで料理している母親の手元をじっと見る子供のようだった。
ガーゼを貼り、最低限の包帯を巻く。ほんの2、3分の出来事だが、手当てが終わる頃には、彼女はムズムズしたような、早く解放して欲しそうな表情に戻っていた。
誰かに丁寧に触れられる事に、慣れていないのかもしれないと思った。
「……変なのぉ」
「何が」
「無料でやってくれて、何が欲しいん?」
アリは言葉の意図に気付いたが、敢えて無視した。
「――今は患者が欲しいよ」
女は一瞬ぽかんとして、それから笑った。
「正直ぃ」
「この街で綺麗事言っても信用されないだろ」
「ちょっと分かって来たんね、せんせぇ」彼女は座ったまま脚を揺らした。
「せんせぇ、名前は?」
「アリだ」
女はクスクス笑った。
「それ、偽名でしょ?」
――アリは手を止める。
「……何でそう思った?」
「この街で、私みたいなあばずれ風に名前聞かれて、すぐ答える人なんかいないよぉ。普通、“バック”に誰か怖い人がいるんじゃないかって、勘ぐるからさぁ」
「……」
「それにねぇ、その名前の語感。“客”が待ち名簿に書くような名前だよぉ」
アリは女を見た。
垂れた目の奥はどんよりと闇があった。その暗さを隠すような艶のある赤い唇。顔は笑っているのに、これと言って楽しそうでもない。
彼女は、思っていたよりずっと、この街の“住民”なんだろう。
「あんたは、この街に大分適応してるんだな。色々教えて欲しいよ」
「いいよ。せんせぇのホントの名前教えてくれたらね」
――どうしようか、数秒迷った。
この土地に来る時に、名前は捨てたつもりだった。
発電機の音だけが、低く唸っていた。彼女は相変わらず膝から下を揺らしていた。
“別にどっちでもいいよ”と言いたげに。
アリは観念したように息を吐いた。
「――■■■■だ」
女は、アリが本当に言うと思わなかったのか、少しだけ目を丸くした。それから、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、カーくんだね」
「……そこまで略すなら本名聞いた意味ねぇだろ」
「えへへ。カーくん」女は肩に掛かった髪を後ろに払った。また、甘い花のような、複雑過ぎてアリには分からない香りがした。
「――で、何知りたい?」
アリはその質問には答えず、椅子から立ち上がった。
「……その前に飯にしよう。あんたを見掛ける前、屋台で飯食って一杯引っ掛けようと思ってたんだ。一緒に来るか?」
「ナギだよぉ」
「え?」
「私の名前、ナギだよぉ」
「ナギ。オッサンとで悪いけど飯食いに行くか?」
「先行ってていいよぉ。一旦家寄らなきゃあ。さっきのアレ、ショバ代。今日中に払わなぁ約束した」
「今戻ったらアイツらに絡まれないか?」
「平気だよぉ。腕掴んでたアイツ、前に私が寝るのキョヒったから根に持ってんのぉ。家賃一日遅れたら、回収の代行ついでにしつこくてぇ。ちっさい男よねぇ。でも平気だよぉ」
今の話で一体何が“平気”なのか、アリにはよく分からなかった。
「ところで、何で家賃が一日遅れたんだ」
「おクスリ。一日飛んでた」
アリはフッと小さく漏らして笑った。
「真面目と不真面目が同居してるぞ」
ナギはパンプスの先を揺らして笑っていた。
彼女に行く予定の店の場所を伝えたが、結局彼女は来なかった。
アリは油でギトギトの焼き飯を口に運び、ビールを飲み、雑居ビルの前の誘蛾灯に当たって落ちる蛾を眺めていた。
地面に落ちた一匹の蛾が、羽を震わせて生き足掻いていた。




