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チータープール  作者: 伊阪証


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第九話

朝、目を開けた瞬間に手首の帯が先に主張した。きつい。きついせいで脈が板みたいに硬く感じる。硬い脈の上で耳の中の線が一本になって、外の足音を引っ張ってくる。 「おい、まだ付けてるのか、その帯」 「……外すなって、言われたから」 「律儀なこった。締めすぎて腕を腐らせるなよ」 引っ張られた足音は近い場所に置かれて、近いのに誰も寝床の前まで来ないまま増えていく。増えていく足音の間に紙の音が混ざり、混ざった紙の音が乾いているせいで、口の中が勝手に乾く。乾いた口は唾を作らない。作らない代わりに鉄の味が薄く残る。膝の横は今日も軽い。空の冷たさだけが残って、指が勝手に握る形になり、その形をほどくのに力がいる。力がいるのが嫌で握ったまま寝床を抜けると、朝の白い光が皮膚に貼りつき、貼りついた熱が汗を出させ、汗がすぐ乾いて突っ張る。突っ張った皮膚の上で肩が勝手に上がり、上がった肩のせいで首の筋が張る。張った首の筋が動くたびに耳の線一瞬揺れて、揺れがすぐ一本に戻る。一本に戻るたび、空の同じ場所が硬くなる。硬い場所はまだ何も見えないのに、硬さだけが先にそこにある。


縄の外側に杭がまた増えていた。縄は増えていないのに、線がまっすぐになっている。まっすぐな線は冷たい感じがする。冷たい感じがするだけで触れる前に止められることを体が知っているから、足が勝手に歩幅を小さくして線の間だけを探す。 「また杭が増えた。これじゃもう、どこにも行けない」 「行く場所なんて、最初から無いだろ」 探した線の間を通るとき、砂が沈む音がやけに大きい。大砲の布は今日も揺れない。等間隔の石が白く浮き、白いものが目立って、目立つものほど見てはいけない気がするのに、目だけが戻ってしまう。戻った目の先に、今日は板が三枚並んでいた。板の端に糸と重り。重りは金属で光を拾う。光を拾う金属が風で揺れると、揺れが呼吸に触れて、呼吸が勝手に揃う。揃う呼吸は浅いまま一定になる。襟の立った服と、砂の付かない厚い服が二つ、影の中にいる。影の中の二つは喋らない。 「準備はいいか」 「……はい。いつでも」 喋らない代わりに、周りの靴音が揃う。揃う靴音は「待っている」形だと体が覚え始めていて、覚えた形が耳の線を太くする。


靴音が一直線に来て止まる。砂が沈む音。声が短く落ちる。 「来い。」 腕を掴まれる。掴む力は強くない。強くないのに向きは決まっている。決まった向きへ足が動き、縄の間を通るとき肩が勝手にすぼまって呼吸がさらに浅くなる。縄の内側に入ると砂の匂いの下に布と油が混じり、油の匂いが指先の記憶を引っ張り出して、握ったままの手が勝手にさらに固くなる。固くなった手のまま板の前へ立たされ、横の兵士が帯の札を指で叩く。 「これを見ろ。今日からお前の番号だ。呼ばれたらすぐ応えろ」 「……はい」 叩く音が乾いている。乾いた音が耳の線に刺さる。刺さった線がすぐ空へ戻る。戻った先で、襟の立った服が短く言った。 「押さえろ。」 押さえる。板は熱い。熱い板が指の腹を焼く。焼けた指が痛い。痛いのに離せない。離すと言われていないからだ。もう一つ短い声。 「見ろ。」 見る先は言われない。言われないまま、耳の線が一本になって空の一点を硬くする。硬くなった一点に目が貼りつき、貼りついた目の前で糸の重りが風に揺れる。揺れる重りの揺れと、薄い影の動きが重なる気がする。気がした瞬間に喉が一回鳴る。鳴った喉が乾いて痛い。痛いのに目は外れない。 「……そこに来る」


音が来た。遠い。遠いのに太い。 「補足したか」 「いえ、まだ目視できません」 「あの子の板を見ろ。あそこだ」 太い音が二つ重なって厚くなる。厚くなると耳の線が二本になり、二本が交差して、交差した場所が決まる。決まった場所へ目が勝手にずれる。ずれた場所は薄い影の少し前だと体が決める。決めた瞬間に口の中が鉄の味になる。 「動くな。」 背中から短い声。動かない。動かないまま板を押さえる指だけが痛いまま固くなり、固くなった痛みが確かで、確かなものだけを持っている気がする。砲のほうで布の端が上がる。上がった布の下から砲身の影が一瞬見える。見えた影は太い。太い影が空の薄い影に重なりそうで重ならない。重ならない距離があるのに、体の中の「ここだ」は揺れない。揺れないまま、砲声が来た。


胸でぶつかる。腹が叩かれる。舌の根が跳ねる。口の中の鉄が一気に濃くなる。白が目の前に広がり、白の中で薄い影が一瞬だけ欠ける。欠けた影が戻らない。戻らない欠け方が、影の線を折って、折れた影が低い方へ落ちる。落ちる影は速い。速いのに落ちる角度ははっきり見える。見えている間、息が止まっていた。止まっていた息が戻って喉を擦る。擦れた喉が痛いのに、目は動かない。 「落ちた! やったぞ!」 「……当たりました」 地面の向こうで黒いものが跳ねた。跳ねた黒が砂の色に落ち、落ちた場所だけが一瞬暗くなり、暗いまま煙が立つ。煙は細い。細いのに上へ伸びて途中で折れ、折れた煙が風に引かれて横へ伸びる。伸びる灰色を見ていると胸の奥が軽くなる。軽いのに胃が縮む。縮むのに、口角が少しだけ上がりそうになる。上がりそうな形は、遊びで当たったときの形に似ている。


肩が強く掴まれた。 「おい、笑ってるのか」 掴まれた肩が骨に当たって痛い。痛いのに声は出ない。首の後ろが押されて視線が下へ落ち、板の上の線を見る。線の印が乱れている。乱れた印がさっきの落ち方と同じ形に見えてしまう。見えてしまうと呼吸がまた揃う。 「見るな。」 同じ言葉。短い。 「……はい」 見るなと言われたから目を板から外し、外した目が自分の指を見る。指の腹が赤い。赤いところに砂が付かない。付かない赤は目立つ。目立つものは隠す。隠す癖が出て、指を握る。握ると痛い。痛いと指が確かになる。確かな痛みだけが今ここにいることを教える。襟の立った服が紙を折る。折る音は小さいのに耳の線がそこへ寄る。寄った線が煙の方角へ戻り、戻った線が煙の根元を指す。指す先は縄の外側のもっと向こうで、向こうは見えない。 「戻れ。」 短い声。戻る足は縄の間を通る。通る足が勝手に遅くなる。遅くなると熱が足の裏から上がり、上がった熱が膝を溶かし、溶ける膝のまま外側へ押し出される。


押し出された直後、靴音が増えた。 「急げ! 回収班、出せ!」 「生存者は?」 「関係ない、機体を確保しろ!」 一斉に同じ方向へ向かう。向かう方向は煙の方角。煙の方角へ向かう背中は曲がらない。曲がらない背中が揃って遠ざかり、遠ざかる背中の間に布が担がれているのが見える。布の下に硬い形。形は長い。長い形が揺れないように手が多い。多い手が揃って動く。揃って動く手の間から、黒い金属の端が一瞬だけ覗いた。覗いた端は丸くなく、裂けたみたいに尖っている。尖っている端を見た瞬間、胸の奥が冷たくなる。冷たくなるのに、足はそっちへ行かない。行かないのは命令がないからだ。命令がないまま、背中が遠ざかる。遠ざかる背中の先で誰かが短く叫ぶ。 「早く。」 叫びは短く、怒りでも喜びでもなく、ただ硬い。硬い声の形が、遊びの声の形と違う。違う形を見ていると、口角が上がりかけたところが戻る。戻った口の中に鉄の味だけが残る。残った鉄の味が舌の裏に貼りついて、唾を飲むと喉が痛い。


昼、縄の内側は静かになった。 「あの子、本当に当てやがったな」 「気味が悪いよ。あんな目で見られたら、空も落ちるだろうさ」 静かなのに耳の線は太い。太い線が煙の方角を指し続け、指し続けるせいで布の擦れる音が遠くなる。遠くなる代わりに遠い足音が近くに聞こえる。近くに聞こえる足音が何度も戻り、戻るたびに砂を払う音が混ざり、払う音が乾いていて乾いた音ほど耳の線に刺さる。夕方、風が少し強くなって煙の名残が薄く散った。散っても消えない灰色が空の端に残り、残る灰色を見ていると耳の線が少しだけ細くなる。細くなった線の代わりに背中で命令が増える。増える命令は短い。 「そこを均せ。明日は別の場所へ運ぶ」 「……はい」 短い命令に足が勝手に動き、動く足が縄の線を避け、避ける歩幅が体に固定される。固定された歩幅は遊びの線じゃない。遊びじゃないのに、覚えるしかない。


夜、寝床に戻ると手首の帯がまだきつい。きつい帯が脈を押して、押された場所が熱い。熱いのに膝の横の空白は冷たい。冷たい空白を手が探して、探した指が空を掴み、掴んだ指がまた握る形になる。 「……戻ってこない」 「何がだ」 「……銃」 「もう必要ないだろ。お前にはその板があるんだから」 ほどくのに力がいる形のまま、耳の線が一本になって、今日落ちていった影の角度を繰り返す。繰り返す角度の少し前に、体の中の「ここだ」が残る。残った「ここだ」が、当たったときの遊びの形に似ているのに、背中の硬い声の形とは似ていない。似ていないものが二つ並んだまま、口の中の鉄の味が消えず、舌が上顎に貼りつき、貼りついた舌が痛いのに、目は閉じる。 閉じた目の裏に、欠けて落ちる影と、裂けた金属の尖りと、折れて伸びる煙が残っていた。

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