12月3日
部屋へ戻ったとき、どうやって歩いてきたのか覚えていなかった。
ベッドへ腰を下ろす。手が震えていた。
人を殺した。正しいことをしたのだろうか。あの男が生きていれば、さらに多くの命が犠牲になったのかもしれない。しかし、話をすることすらせずに止めてしまった。
「……わからない」
彼は両手で顔を覆った。ここへ来てから、何度も同じ言葉を口にしてきた。今は、自分が正しいことをしたのかさえわからなかった。
次に目を開けたとき、部屋は明るくなっていた。眠っていたのかどうかも曖昧だった。胸が鈍く痛み、ベッドから立つと眩暈がした。
『おはようございます、若町様。洗面所に行き、バイタルチェックをしてください』
彼は鏡の前に立った。
『バイタルを確認しました。休息を推奨します』
「……良好じゃないのか?」
『現在の身体状態は、継続的な管理を必要とします』
鏡の男は顔色が悪かった。眠れなかったせいだろうと考えようとしたが、胸の痛みは消えなかった。
彼は枕元の金属製の箱を取り上げた。中には、これまで集めた六枚の日記がある。
箱を抱え、再び研究区画へ向かった。中央のポッドを見るためではない。まだ見つけていない日記を探すためだった。
道中、複数の扉の表示が緑色へ変わっていた。通路には【回復評価:完了】とあった。あのとき聞いた定時判定が、連続測定の条件を満たして終了したのだ。手術が中断されたから開いたのではない。予定どおり、ただ数時間遅れて本人確認ができるようになった。以前は入れなかったAR05も開いた。
中には執務室があった。机、椅子、収納棚。机にはペン立てと赤いマグカップが置かれている。ここには、確かに誰かが仕事をした痕跡があった。
端末には【個人記録】、その下に【W-001】と表示されていた。
初めて、詳細が開いた。
研究計画。医療記録。施設管理。個人記録。
個人記録を選ぶと、男の写真が現れた。自分と同じ顔。中央のポッドの男と同じ顔。
若町 明
「……やっぱり」
これが研究者の若町明なのだ。
机の一番下の引き出しには、腕時計、財布、写真、そして茶色いノートがあった。
AR01で見つけたものとよく似た、表紙に題名のないノートだった。しかし、表紙の擦れ方が違う。別の一冊らしい。
こちらにも破り取られた跡がいくつもあった。ページをめくると、破られずに残った一枚にだけ文字が書かれていた。
日付は12月3日。
七枚目の日記だった。
12月3日
いよいよ明日から、長い眠りにつく。
ここまで来るのに、随分と時間がかかった。
最初は、ただ病気を治したかっただけだった。
自分の身体が、少しずつ壊れていく。それが、どうしても受け入れられなかった。
医師たちは、できる限りのことをしてくれた。しかし、結果は変わらなかった。
ならば、自分で何とかするしかない。
そう考えたのが、すべての始まりだった。
研究は進んだ。
身体を作ることも、記憶を再現することも、以前とは比べものにならないほど正確になった。
しかし、私の病気を治すために必要な条件は、まだ揃っていない。
すでに何十もの個体が作られた。
それでも、完全な適合性を持つものは現れていない。
彼らが自分の記憶を自分のものとして語るのを、私は聞いている。研究用の個体だと説明しても、それだけで割り切れるものではなかった。
研究の中止も、彼ら自身に選ばせることも考えた。しかし、どちらも決められなかった。
拒まれたとき、私はその答えを受け入れられるだろうか。
私は記録に「生体個体」と書いた。その文字を直さなかったのは、きっと偶然ではない。
もう、自分の目で完成を見届けることはできそうにない。
だから、彼女に任せることにした。
研究を続けること。
必要な条件を満たす個体が完成したら、それを保存すること。
そして、私を目覚めさせること。
私が目覚めたときには、手術の準備が整っているように。
完成した個体は、中央の区画へ移す。
ほかの個体とは区別し、生命維持を最優先する。
あとは、私の身体がどこまで持つかだ。
長い眠りが、どのような影響を残すのかはわからない。
記憶に障害が出る可能性もあるかもしれない。
だが、それは仕方がない。
生きてさえいれば、取り戻せるものもあるだろう。
何より、私には時間が必要だ。
私の身体は、もう長く持たない。
だから、しばらく眠ることにする。
いつか目覚めたとき、すべてが予定どおりに進んでいることを願う。
そして、もし本当に生き延びることができたなら。
今度こそ、窓のある部屋で朝を迎えたい。
少なくとも、そのくらいの贅沢は許されるだろう。
彼は読み終え、動けなくなった。
完成した個体を中央へ移す。そして、私を目覚めさせる。二つは別のこととして書かれていた。
中央に置かれたのは、完成した個体。眠りから目覚めるのは、日記を書いた本人。
「……待てよ」
頭の中で、何かが崩れていった。
彼は端末へ視線を戻した。個人記録には、もう一つの項目があった。
所有者本人確認
指で触れる。端末の縁から細い光が伸び、右耳の後ろを一瞬照らした。採血の記録と、皮膚の下に埋め込まれた識別端子の照合結果が表示される。顔や遺伝子だけでなく、個体ごとに登録された端子情報を確認しているようだった。
本人確認:完了
登録所有者:若町 明
生物学的身元:原型個体
画面の隅に【身元情報:音声案内との連携完了】と点灯した。今まで閲覧できなかった個人記録が、初めて音声案内にも接続されたのだ。
彼は文字を見つめた。
原型個体。複製のもとになった人間。
「……俺?」
そんなはずはない。自分はクローンだったはずだ。記憶を与えられた、複製された人間だったはずだ。
しかし、日記には長い睡眠の後に記憶障害が起きるかもしれないと書かれていた。
自分は白い部屋で目覚めた。名前を思い出せなかった。そして人工知能に若町と呼ばれた。
「……俺が、オリジナルなのか?」
『はい』
女性の声は、いつもと変わらなかった。
「俺はクローンじゃないのか?」
『はい。若町様は、当施設の登録所有者であり、研究の原型となった個体です』
彼は机に手をついた。
「……じゃあ、中央の男は?」
『選定された移植適合個体です』
言葉が途切れた。中央のポッド。取り外されたヘッドセット。一本になった心電図の線。
あの男は目覚めることも、何が起きたのかを知ることもできなかった。
「俺を救うために作られたのか?」
『はい』
「……健康だったのか?」
『はい。選定個体は、必要な移植適合条件をすべて満たしていました』
「……ほかの男たちは?」
『原型個体の遺伝情報を使用しているため、疾患の原因となる異常も継承されています。生成工程で修正していますが、すべての個体で成功したわけではありません』
彼は研究室の人体モデルを思い出した。心臓、肝臓、腎臓。自分の身体にも、よく似た異常があった。
「……じゃあ、俺の身体も」
『若町様は原型個体です。現在の臓器障害は、研究対象となった疾患によるものです』
自分が彼らの病気を受け継いだのではない。彼らが、自分の病気を受け継いだのだ。
「……中央の男だけは、違ったのか?」
『はい。原因となる遺伝的異常の修正と、必要な臓器機能の成熟を完了していました』
何十もの身体を作り、修正を重ね、その末にようやく完成した一人を、自分は殺した。
すべての意味が逆転した。
中央のポッドが特別だったのは、オリジナルだったからではない。移植に必要な条件を満たした、唯一の健康なクローンだったからだ。
ヘッドセットがなかったのは、オリジナルだったからではない。追体験を終え、臓器の機能的成熟が確認され、手術の準備に入っていたからだった。
ほかの男たちを守るためだと思っていた。しかし、壁際の男たちが手術で犠牲になるという証拠はなかった。中央の一人を殺せば助かるという保証もなかった。
それでも、自分は決断した。
「……記憶の再現も、移植のためだったんだな」
『はい。臓器の機能的成熟を促す工程です。自伝的な記憶の形成は、当初の目的には含まれていません』
覚えているからです。あの男たちの答えが蘇った。研究に必要だった体験は、彼らにとって唯一の人生になっていた。
「移植に使われるってことを、彼ら自身は知っていたのか?」
『研究目的の開示と意思確認は、承認済みの工程に含まれていません』
5月23日の日記が頭に浮かぶ。本人の意思を尋ねるべきだと書いておきながら、拒絶が怖くて尋ねなかった。それも、自分だった。
彼は机を掴んだ。
「……どうして、教えてくれなかったんだ」
『若町様の身元情報は、登録情報と一致しています』
「そうじゃない! 俺は自分がクローンだと思ってたんだぞ! 中央の男が本物の若町だと思ったんだ!」
声が途切れた。
「……だから、殺したんだぞ」
長い沈黙の後、人工知能が答えた。
『若町様の認識状態について、十分な評価が行われていませんでした。現在、管理システムの主要処理資源は、医学研究および生体管理に割り当てられています』
「……つまり?」
『若町様の発言内容から、事実認識の誤りを推定する処理は行われていませんでした』
人工知能は嘘をついていなかった。最初から自分を若町と呼び、所有者として扱っていた。しかし、実験対象も参照した人生の名前で呼ばれていた。自分が聞いた呼び名だけでは、区別できなかったのだ。
彼は右耳の後ろの痕に触れた。
「……この傷は?」
『長期コールドスリープ中の神経状態監視に使用した接続部です。体験再現装置の神経端子と、共通の接続構造を使用しています』
同じ痕があったのも、複製された証拠ではなかった。
「……じゃあ、俺もポッドに入っていたっていうのは?」
『事実です。若町様は、長期コールドスリープ用の保存装置に収容されていました』
「……あいつらと同じ装置じゃなかったのか?」
『異なります。研究用個体の体験再現装置とは用途が異なります。ただし、身体を支える寝台部分には共通の規格が用いられています』
「目覚めた部屋のベッドも?」
『はい。覚醒後の回復用寝台にも、同じ規格が使用されています』
彼は白い寝室を思い出した。背中から首を支える窪みと、頭側に並んだ二つの溝。ポッドの中で見つけた形と、確かによく似ていた。
ポッドに入っていた。それは本当だった。しかし、同じ形の寝台で眠っていたことは、同じ目的で作られた人間である証拠にはならない。
彼はその違いを、今になって理解した。
「……さっきまで、俺がオリジナルだと答えられなかったのは?」
『日常の音声案内機能からは、登録個人記録の認証情報を参照できません。現在は専用端末での認証が完了しています』
「じゃあ、どうしてポッドは止められた?」
『緊急生体隔離の生体照合と、個人記録の閲覧認証は独立しています。隔離操作は、登録所有者の生体識別情報により承認されました』
自分が操作できたことこそ、見落としていた手がかりだった。しかし操作盤は、誰の権限が使われたかを教えてはくれなかった。
「……手術は止められなかったのに、生命維持は止められた」
『手術の変更と緊急生体隔離は、独立した管理基準によって制御されています』
「異常は起きていなかったんだろう?」
『はい。検知系の故障を想定し、権限者には手動隔離が許可されています』
端末には、異常が広がる前に研究用の個体を切り離すための設計記録が残っていた。生命を守るための機能ではなかった。
「……誰が、そんな仕組みを作った?」
『若町様です』
彼は画面に視線を戻した。
設計承認者:若町 明
対象区分:研究用生体個体
自分で作った制度は、彼らを人間として扱っていなかった。日記には迷いが残されているのに、承認した手順は何も変わっていない。
彼は長い間、画面に表示された自分の名前を見つめた。
過去の自分が残した仕組みで、未来の自分は一人を殺した。そして、救われるはずだった命まで失った。
人工知能は、彼が別人だと思い込んでいることに気づかなかった。自分の勘違いを告げる言葉から推測するようにも作られていなかった。ただ、照会できる記録と操作できる設備を、それぞれ決められた手順で扱っていた。
「……もう一度、あいつを生かせないのか?」
『当該個体の生命活動は、不可逆的に停止しています』
「ほかの個体は?」
『現在、同等の適合条件を満たす個体は存在しません』
「……新しく作れば」
『新規個体の生成および評価には、長期間を必要とします』
人工知能が数値を読み上げる。彼は途中で聞くのをやめた。今の身体のままでは、次の完成を待てない。
「……もう一度、眠ればいいんじゃないのか」
言葉にしてから、彼は顔を上げた。以前の自分は、まさにその方法を選んだのだった。
『コールドスリープの再実施をご希望ですか』
「……できるのか?」
『再実施は可能です。ただし、次の適合個体が完成すること、および再覚醒時の身体状態は保証されません』
それでも、可能性は残っている。今ここで終わるよりは、ずっとましなのかもしれない。
「俺が眠っている間に、また同じ顔の人間を作るんだな」
『現在の研究計画を継続する場合、はい』
「条件を満たしたら中央へ移して、俺を起こす」
『はい。その後、移植手術を実施します』
彼は自分の手を見た。あのポッドの生命維持を止めた手だった。
もう一度眠れば、助かるかもしれない。そのために、また誰かが作られる。自分と同じ顔を与えられ、自分の記憶を与えられ、いつか身体を使われるために待つことになる。
最初にそれを命じたとき、自分はその先にいる人間のことを、どれほど考えていただろう。
生きたかった。今も生きたかった。窓の向こうの朝を、もう一度見てみたかった。
だからこそ、簡単には答えられなかった。
長い沈黙のあと、彼は首を振った。
「……もう、いい」
『コールドスリープの再実施を取りやめますか』
「……ああ。もう眠らない」
『承知しました』
自分で選んだはずなのに、安堵はなかった。ただ、まだ何かを選べることだけが、かろうじて確かだった。
彼は茶色いノートを開いた。十二月三日の記述だけは、まだ綴じられている。過去の自分は六枚を手元から遠ざけた。最後の一枚だけが残っている。
彼は紙の端に指をかけ、ゆっくりと切り離した。乾いた音がした。破れた六枚とは違い、この一枚を外したのは、今の自分だった。
机の上に七枚の日記を並べた。2月14日、4月9日、5月23日、7月18日、9月6日、10月27日、12月3日。
医療室の検査資料。施設の図面。記憶と身体の研究記録。それぞれの紙は、書かれた内容に近い場所から見つかった。二冊のノートには、何度もページを破り取った跡がある。
なぜ、一冊に残しておかなかったのだろう。
捨てることはできなかった。それでも、書いてしまったことを読み返したくはなかった。だから仕事場へ持ち出し、目の前の資料に挟んだままにしたのではないか。
「……見たくなかったんだな」
確かめようはなかった。けれど、日記の中で繰り返された言い訳を思うと、そういう気がした。最後の一枚だけは、眠りにつくまでノートに残されていた。もう、どこかへ遠ざける時間もなかったのかもしれない。
同じ紙、同じ文字。しかし、日付順に読むとまったく別の物語になった。
病気を知った研究者が、施設を作った。自分の人生を複製した人間たちへ与え、身体の適合性を調べた。最適な個体を中央へ移すよう命じ、自分は眠りについた。
そして完成の知らせで目覚めた。
全部、自分のことだった。
あの赤い傘も、雨の日の玄関も、本当に自分の記憶だったのだ。
彼は最後の一枚を見つめた。
今度こそ、窓のある部屋で朝を迎えたい。
そのために長い年月を眠り、ようやく生き延びる準備が整った。それを、自分の手で壊してしまった。
「……何をしてるんだ、俺は」
答える者はいなかった。
彼は七枚を重ね、金属製の箱に戻した。箱を持って、白い寝室へ帰った。




