最後の朝
それから、彼の身体は少しずつ悪くなっていった。
最初はほんの小さな変化だった。疲れやすくなり、長い廊下を歩くと息が上がる。ベッドから起き上がるときに、眩暈がすることもあった。
それでも、しばらくは普通に生活できた。食堂へ行き、食事をし、研究室へ向かう。だが、ある日PG01の扉に近づくと、人工知能が告げた。
『現在、運動プログラムの実施は推奨されません』
「……あのときは、あんなに走らせたくせにな」
彼は少し笑い、引き返した。廊下が以前よりずっと長く感じられた。
医療室で検査を受ける。
『複数の臓器において、機能低下が進行しています』
「……どのくらい持つんだ?」
『正確な予測は困難です。現在の状態では、長期的な生命維持は困難と判断されます』
「移植以外に方法は?」
『当施設に保存されている治療手段では、病状の根本的な改善は見込めません』
「……外では? 今なら、別の治療法があるかもしれないだろ」
『施設外部の医療情報は更新されていません』
「じゃあ、病院に連絡してくれ。助けを呼べないのか」
『外部通信回線は接続されていません。当施設は、地中に設けられた独立運用施設です』
「地上へ出る方法は?」
『地上搬送設備は長期隔離運用のため停止しています。現在、再起動に必要な外部安全情報を取得できません』
「俺が動かせと命じたら?」
『再起動診断を開始できます。ただし、外部への到達および救援の確保は保証されません。現在の身体状態では移動を推奨しません』
彼は診断を始めるよう命じた。結果は【外部への到達:未確認】のまま変わらなかった。外に治療法がないとわかったわけではない。ただ、そこへ助けを求める道が見つからなかった。
彼は天井を見つめた。白い天井だった。どの部屋も同じだ。
「……窓、欲しいな」
人工知能は何も答えなかった。
身体の調子が比較的よい日に、彼はもう一度中央のポッドを見に行った。
長い廊下をゆっくりと歩く。扉を抜け、レールに沿って進む。何十ものポッドが並ぶ部屋にたどり着く。
壁際の男たちは今も眠っていた。中央のポッドだけは静かになっている。青い光は消え、管の中にも流れはなかった。
中の男は、目を閉じたまま横たわっていた。
「……久しぶりだな」
彼は透明な覆いに手を置いた。
あのときは鏡を見ているように感じた。しかし今は、そこにいるのが自分とは別の人間だとわかる。
「……すまなかった」
謝っても、何も変わらない。だが言わずにはいられなかった。
「……お前は、俺を救うために生まれたんだよな。それなのに、俺はお前を殺した」
額を透明な覆いに当てた。冷たかった。
やがて壁際のポッドへ歩いた。ヘッドセットの光が点滅し、記憶再現プログラムが進んでいる。
雨の日の玄関。赤い傘。母親の声。学校へ向かう朝。すべて、自分の人生だった。
しかし、ここにいる男たちにとっても、それが唯一知っている人生なのだ。
同じ記憶を持っていても、同じ人間とは限らない。同じ顔をしていても、同じ人生を生きるわけではない。
「……なあ、この人たちは、これからどうなるんだ?」
『各個体について、継続的な生体管理を実施しています』
「俺が死んだら?」
『現在の研究計画では、登録所有者の治療を最優先としています』
彼はしばらく考えた。
自分が作った施設。自分が始めた研究。命を救うはずの手術は止めにくく、一人の命を断つ仕組みは手の届くところにあった。その区別を決めたのも、かつての自分だった。
しかし、研究の目的はもう果たせない。
もう一度眠る道は、自分で断った。ならば、残された時間に何をするのかも、自分で決めなければならない。
「……研究計画を変更できるか?」
『若町様には、管理権限が付与されています』
「まず、記憶の再現を止めてくれ」
『全個体について、体験再現プログラムを停止しますか』
「ああ」
『当該操作は、現在の研究計画に影響します』
「構わない。……でも、あの映像を止めたら、身体にも影響するんだろう?」
『機能的成熟が完了していない個体には、引き続き生理機能の管理が必要です。自伝的な体験を伴わない代替刺激へ移行できます。ただし、移植適合性の維持は保証されません』
「……もう移植には使わない。生きるために必要なことだけ、続けてくれ」
『承知しました』
壁際のポッドの光が、一つずつ消えていった。記憶の再生が止まったのだ。
「……彼らは、今まで眠っていただけじゃないんだろう?」
『はい。体験再現中は意識活動が維持されています。停止後は医療的な休眠状態へ移行します』
「向こうで生きた時間は、残るのか?」
『形成された記憶が保持される可能性があります』
「……そうか。勝手に取り消せるものじゃないんだな」
彼は消えていく光を見つめた。これも、本人たちに尋ねずに決めたことだった。せめて今度は、目覚める機会と、その先を選ぶ権利を残しておきたかった。
「……それから、生きられる個体は、できる限り生かしてくれ。必要なら治療も続けてくれ」
『生体維持管理を継続します。承知しました』
彼は言葉を探した。
「……もし、彼らが目覚めたら」
『はい』
「……ちゃんと説明してやってくれ。自分が何者なのか。この施設が何のために作られたのか。自分がどうやって生まれたのか。全部だ」
『個体情報および施設情報の開示設定を変更しますか』
「ああ」
『承知しました』
「……それと、目覚めた後のことは、本人に選ばせてくれ。研究に関わるか、どんな治療を受けるか。生きていくためのことを、俺が決めるんじゃなくて」
『本人の意思を確認できる場合、医療および研究に関する選択を優先するよう管理規則を変更しますか』
「ああ。……今度は、ちゃんと聞いてくれ」
『承知しました』
それで十分なのかはわからない。何人が生きられるのか、誰が目覚めるのかもわからない。これで、中央の男の命が戻るわけでもなかった。
ただ、かつての自分が聞かなかった答えを、これから目覚める者たちには言わせなければならない。それが拒絶であっても。
それでも何もしないよりはましだと思った。
彼は中央の男をもう一度見た。もし目覚めていたら、自分と違う人生を歩めただろうか。外の世界を見て、誰かに出会って、自分だけの記憶を作っただろうか。
「……本当に、すまなかった」
彼は部屋を後にした。
帰り道では何度も休んだ。足が重く、呼吸を整えなければ前に進めなかった。
ようやく寝室へ戻り、ベッドへ倒れ込む。
白い天井が見えた。目覚めたときとまったく同じ光景だった。
「……結局、ここに戻ってくるのか」
彼は目を閉じた。
「……なあ、外はどうなってるんだ?」
『施設外部の環境情報は取得されていません』
「……そうか。最後くらい、見たかったな」
返事はなかった。
「……窓が欲しいな」
『現在の居住区画には、窓が設置されていません』
「……知ってるよ。ただ、そう思っただけだ」
彼は目を閉じた。
その後、ほとんどベッドから起き上がれなくなった。食事を摂ることも難しくなり、呼吸が浅くなる。医療設備は薬剤投与や呼吸の補助を続けたが、病の進行を止められなかった。
枕元の金属製の箱から、七枚の日記を取り出す。
2月14日、4月09日、5月23日、7月18日、9月06日、10月27日、12月3日。
最初の一枚を持ち上げる。
私には、まだやりたいことがある。まだ見たい景色がある。まだ、終わりにしたくない。
長い眠りにつく前の自分は、本当に生きたかったのだろう。研究が完成するまで眠り、目覚めれば手術を受ける。施設はすべて、その予定どおりに動いた。
そして、自分がそれを壊した。
「……予定どおりだったよ」
掠れた声が漏れた。
「……全部、予定どおりだった。間違えたのは、俺だけだったな」
彼は目を閉じた。
最後の朝。
『おはようございます、若町様』
いつもの声で目を覚ました。白い天井が見えたが、身体は起こせない。呼吸するだけで胸が痛む。
『身体機能の低下を確認しました。医療管理を継続します』
彼は小さく息を吐いた。
「……なあ。一つ、聞いていいか」
『はい、若町様』
「俺が眠っていたのは、どのくらいなんだ?」
『コールドスリープ開始から覚醒までの経過期間は、119年と4か月です』
119年。
長い時間だった。母親も、友人も、かつて知っていた人々も、もう生きてはいないのだろう。あの雨の日の街すら、跡形もなく変わってしまったのかもしれない。
「……長かったな」
『はい』
彼は目を閉じた。赤い傘が浮かんだ。雨の日の玄関。濡れた道路。そして母親の声。
まだ準備できないの?
「……わかってるよ」
ほとんど聞こえない声だった。
雨の音がしたような気がした。懐かしい音だった。やがて、その音も遠くなる。
彼は最後に、もう一度だけ目を開けた。
白い天井だった。
そこに、窓はなかった。
彼は目を閉じた。
そして、二度と開かなかった。
白い部屋は、静かだった。
ベッドには、一人の男が横たわっていた。目を閉じ、呼吸をしていなかった。
天井の照明は一定の明るさを保っている。壁も床も、何も変わっていない。
やがて、女性の声が響いた。
『若町様の生体反応が停止しました』
返事はなかった。
『登録所有者の死亡を確認しました』
短い電子音が鳴った。照明が、ゆっくりと暗くなっていく。
施設の奥では、機械が動き続けていた。青い線、緑色の線、黄色い線。いくつもの画面に数値が表示されている。
研究室ではアームが容器を運び、医療設備では組織の状態が確認されていた。別の区画では、摩耗した部品が回収され、再び使える形へ作り直されている。地下の熱源から電力が送られ、水は浄化されて循環する。人の手がなくても設備を保ち続けるために組み込まれた仕組みは、長い歳月を経てもなお働いていた。
壁一面にポッドが並ぶ広い部屋では、同じ顔の人間たちが眠っていた。
ヘッドセットの再生は、すでに停止している。生体維持管理だけが続けられていた。
中央には、生命維持の止まった一つのポッドがあった。
システムはすべての記録を保存した。研究の開始、個体の生成、記憶再現、最適個体の選定、所有者の覚醒、生命維持停止、そして所有者の死亡。
すべて正確に記録されていた。そこに誤りはなかった。
施設は、与えられた命令を実行した。研究を続け、最適な個体を完成させ、所有者を目覚めさせ、そして所有者の命令に従った。
すべて、正常だった。
やがて、管理画面に新しい項目が表示された。
登録所有者:死亡
研究優先方針:変更済み
体験再構成:停止
生体維持:継続
身元情報開示:有効
システムは設定を確認した。すべて、所有者によって承認された変更だった。
施設は管理を続けることにした。
誰かが目覚める日が来るのか。そのとき何が起こるのか。それは、まだわからない。
ただ、機械は動き続けていた。
静かに。規則正しく。
誰もいない白い寝室には、ベッドだけが残されていた。
その枕元には、小さな金属製の箱が置かれている。
中には七枚の日記があった。月日だけが書かれた紙には、一人の人間が生き延びようとした記録が残されている。
しかし、それを読む人間は、もういなかった。
照明が消え、部屋は暗くなった。
そこに、窓はなかった。
――完――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
私たちは、自分の記憶を疑うことなく生きています。
昨日の出来事も、幼い頃の思い出も、誰かと交わした言葉も。それらを覚えているというだけで、自分自身の経験だと信じています。
けれど、もしその記憶が、誰かから与えられたものだったとしたら。
その人が感じた喜びや悲しみ、積み重ねてきた思い出は、偽物になってしまうのでしょうか。
この物語を書きながら考えていたのは、人間を人間たらしめるものは何なのか、ということでした。
同じ顔を持ち、同じ記憶を持ち、同じように考える人間がいたとして、その二人は同じ人間なのでしょうか。
そして、どちらか一方が生きるために、もう一方の命を犠牲にすることは許されるのでしょうか。
もう一つ、この物語には「正しさ」というテーマがあります。
機械は与えられた命令に従い、決められた手順を正確に実行します。しかし、その結果が人間にとって望ましいものになるとは限りません。
一方、人間は自分の考えや感情に従って判断します。誰かを守ろうとする気持ちも、間違いを正そうとする決意も、ときには取り返しのつかない結果を招きます。
悪意がなくても、人は過ちを犯します。
そして、正しいと信じているときほど、自分が間違っている可能性を見失ってしまうのかもしれません。
この物語の登場人物たちが下した判断について、明確な正解を用意するつもりはありませんでした。
もし自分が同じ立場に置かれたなら、何を信じ、何を選ぶのだろうか。
読み終えたあと、そんなことを少しでも考えていただけたなら幸いです。
最後に、この物語に繰り返し登場する「窓」について。
人が生きるために必要なものと、人が生きたいと思うために必要なものは、必ずしも同じではないのだと思います。
窓の向こうに何が見えるのか。
それは、実際に覗いてみなければわかりません。
本作を最後まで読んでくださったことに、心より感謝申し上げます。




