中央のポッド
次の日、AR04で六枚目の日記を見つけた。移送用のレールと中央区画を描いた図面が、薄いファイルにまとめられていた。その後ろに、折り目のついた紙が挟まっていた。
日付は9月6日。筆跡は同じだった。
9月6日
ようやく、結果が見え始めた。
これまでのものは、どれも十分ではなかった。
外見だけなら、ずいぶん前から問題はなかった。
しかし、必要なのはそこではない。
内部の条件が揃わなければ、何の意味もない。
彼女によれば、まだ時間が必要らしい。
私には、その時間がどれほど残されているのかわからない。
それでも、待つしかないのだろう。
中央の区画を使う準備も、進めておかなければならない。
ほかのものとは、明確に分ける必要がある。
その段階になれば、映像も必要ない。
周囲については、これまでどおり続ける。
何より、私にはもう余裕がない。
最後の判断は、彼女に任せることにした。
私がその場にいなくても、正しく判断してくれるはずだ。
中央の区画。映像は必要ない。彼女に任せる。
彼は日記を読み返した。中央に置かれるのが誰なのか、はっきりとは書かれていない。条件に合った複製体かもしれないし、手術を待つ研究者本人かもしれない。
日記を書いた若町は、不治の病にかかり、やがて眠ることを選んだ。もし研究の完成まで身体を保存するなら、中央の特別な区画を使うのではないだろうか。
ただ、日記だけでは決められなかった。確かめる必要があった。
彼はあのレールの続く通路へ向かった。
扉の先は、以前よりもさらに進めるようになっていた。通路奥のCR01に緑の表示が点灯している。
深く息を吸い、近づいた。扉が開いた。
その向こうは、広い部屋だった。
天井は高く、壁は緩やかな曲面を描いている。その壁一面に、無数のポッドが並んでいた。上から下まで、左右の端から端まで。
何十もの透明な覆いの一つ一つに、男が横たわっていた。
すべて、自分と同じ顔だった。
ある者は口をわずかに開き、ある者は身体を丸めている。目元にはヘッドセットが取り付けられていた。側面の番号はB-041、B-042、B-043と続く。
彼は壁際へ近づいた。まるで自分という人間が何十にも分けられ、並べられているようだった。
そのとき、部屋の中央に置かれた一つのポッドが目に入った。
壁際とは違い、床のレールの終点に置かれている。太い管が接続され、天井から複数のアームが伸びていた。
壁際のポッドから延びる配管の一部は床下へ消え、中央の区画へ向かっているように見えた。手術用らしい器具が周囲を取り囲んでいる。
周囲が人間を保存するための装置だとすれば、ここは誰かを治療するための場所のようにも見えた。
透明な覆いの中には、男が一人。
自分と同じ顔だった。
ただし、周囲の男たちとは一つだけ違っていた。
ヘッドセットがなかった。
目元には何もついておらず、その顔がはっきり見えた。深く眠っているような穏やかな表情だった。
壁際には何十ものポッドがあり、中央にあるのは一つだけだった。特別な設備。特別な場所。そして、たった一人の男。
「……こいつのために、全部あるのか」
「……若町」
自然とその名が口をついた。
ポッドの表示盤には文字があった。
選定済み
手術準備:完了
術前移送まで:24分00秒
選定済み。手術準備完了。そして、二十四分後に手術区画へ移されるらしい。
選ばれたのは、この男が最適なクローンだからなのかもしれない。そんな考えも浮かんだ。研究の目的が健康な臓器を作ることなら、完成したクローンが中央へ移された可能性はある。
しかし、中央の男にはヘッドセットがなかった。最初から誰かの人生を教え込まれる必要がなかったからではないか。
表示には、誰が患者で誰が提供者なのか、何も書かれていない。
彼は右耳の後ろに触れた。壁際の男たちと同じ痕。自分には名前の記憶がなく、人生も断片的だった。体験評価の記録で、自分を若町明だと信じていた男も、同じように名前を思い出せなかった。
同じ顔。同じ名前。同じ記憶の混乱。同じ痕。そして、自分と似た臓器異常。
もし自分が複製された側でないなら、これほど多くの共通点をどう説明すればよいのだろう。
中央の男こそ、日記を書き、研究を始めた若町明なのだ。あの男が完成したクローンである可能性を完全には否定できなかったが、今の彼にはそれが最も筋の通った答えに思えた。
「……そういうことだったのか」
男の眠る顔を見ていると、胸の奥から怒りが湧いた。
この男は、自分の命を延ばすために何十人もの人間を作った。必要なのは健康な身体と臓器。
いや、何も感じなかったわけではない。日記には、彼らが自分の人生を持つことへの戸惑いも書かれていた。本人たちの意思を尋ねるべきだと考えながら、答えを聞く前に研究を続けていた。
「……わかってたんじゃないか」
同じ顔の男は眠ったままだった。
「……お前は、俺たちを何だと思ってるんだ」
ポッドの男は答えない。
もし、この男が目覚めたら、研究は続くだろうか。壁際の人間たちは臓器を取り出されるのだろうか。
自分の身体には異常がある。移植の提供者には向かないだろう。しかし壁際の男たちはどうだ。一部に健康な臓器を持つ者もいるかもしれない。別々の個体から必要なものを取り出すつもりなのかもしれない。
彼は壁際を見渡した。自分と同じように考え、記憶を持つ男たち。それなのに、研究の目的さえ知らないまま眠っている。
「……こんなこと、続けていいわけがない」
電子音がした。手術区画への移送まで、二十分を切っていた。
「この手術を止められるか?」
『手術工程の変更には、登録個人記録端末での管理認証が必要です』
「そこにはまだ入れないんだろう?」
『現在の回復工程では、当該端末をご利用いただけません』
「……いつ使える?」
『次回の回復評価は約四時間後です。手術予定とは独立して実施されます』
四時間。目の前の表示は、あと二十分もなかった。
「……中止が無理なら、延期だけでもいい。移送を止めてくれ」
『移送予定の変更にも、同じ管理認証が必要です』
「そんな……」
彼は中央のポッドの操作盤を調べた。生命維持。環境制御。移送管理。手術準備。
移送管理の項目を選ぶ。【移送一時停止】という表示があった。押してみると、すぐに赤い文字が現れた。
管理者認証が必要
手術準備の項目も同じだった。停止にも延期にも、専用端末での認証が必要らしい。
「じゃあ、どうすればいい!」
『手術準備工程は正常に進行しています』
彼は操作盤を叩きそうになり、拳を止めた。向こうの壁では、同じ顔の男たちが何も知らずに眠っている。時間だけが減っていく。
そのとき、操作項目の最下段に小さな赤い表示があるのを見つけた。
緊急生体隔離
「……緊急生体隔離?」
『生体管理上の重大な異常が発生した場合、ほかの個体および共通設備への影響を防ぐために使用する緊急制御機能です』
「これを使えば、手術は止まるのか?」
『当該個体の循環系を遮断し、生命維持を停止します。その場合、現在の手術準備は無効となります』
「……隔離するだけじゃないのか」
『生命維持の停止を伴います。当該個体は死亡します』
彼は息を呑んだ。研究用の個体を守る装置ではない。異常がほかへ広がる前に、一つを切り捨てるための装置だった。
「でも、異常なんて起きていないだろう?」
『現在、重大な生体異常は検知されていません』
「それなのに使えるのか?」
『緊急時に検知系が故障した場合に備え、管理権限による手動操作が許可されています』
指を近づけると生体照合が始まり、短い電子音の後、画面が切り替わった。
操作許可済み
生命維持停止
誰の権限で許可されたのかは表示されない。同じ顔を持つ自分にも、認証が通ったのだろうか。
手術を延期することはできないのに、この操作だけは認められた。彼には、その理由を考える余裕がなかった。
指が震えた。
押せばこの男は死ぬ。殺すという言葉が頭に浮かんだ。自分自身がその考えに驚いた。
ほかに方法はないのだろうか。話し合いはできないのか。外部に助けを求められないのか。
彼はいったん手を離し、壁際のポッドへ歩いた。男の口元がわずかに動いた。夢を見ているのだろうか。
MR02の声が頭に浮かぶ。
その記憶はあなた自身のものですか。
はい。
なぜそう思うのですか。
覚えているからです。
「……お前たちも、人間だよな」
返事はなかった。それでも、彼らはただの機械ではないはずだ。何かを感じ、自分の人生を持っていると思っている。
ならば、その命は誰のものなのか。
彼は中央へ戻った。
移送の予定時刻が迫っていた。
自分が臓器を提供させられるとは思わなかった。検査結果が正しいなら、移植に使える部分は限られている。しかし、壁際には健康な臓器を持つ個体もいるかもしれない。
中央の男が手術区画へ移されれば、何が行われるのか確かめることも難しくなるだろう。もっとも、今も誰が患者で誰が提供者なのかはわからない。本当に壁際の男たちが犠牲になるという確証もなかった。
彼はもう一度、停止できる項目を探した。生命維持を奪わずに工程だけを止める方法は見つからなかった。
中央の男を殺しても、ほかの個体が救われる保証はない。そのことは理解していた。自分が何かを決めるには、知らないことが多すぎる。
それでも、何もしないまま手術が始まることだけは受け入れられなかった。
彼は画面へ手を伸ばした。生命維持停止を選ぶ。
警告
この操作は取り消せません
取り消すことのできない操作。
取り消しと確定が表示された。
今ならまだ戻れる。彼は眠る男を見つめた。自分と同じ顔、同じ身体。おそらく自分の記憶の元になった人物。
「……すまない」
何に対して謝ったのか、自分にもわからなかった。
『若町様。重大な生体異常は検知されていません。緊急生体隔離の実施は推奨されません』
「……わかってる」
『実行すると、当該個体の生命維持は不可逆的に停止します。現在の手術準備も無効となります』
「……だから止めるんだ。もう、こんなことは終わりにする」
彼は【確定】に触れた。
青い光が一つずつ消えていく。アームが持ち上がり、管の中の流れが止まる。ポッドの男は静かに横たわったままだった。
表示盤の数値が下がり始める。青から黄色へ。黄色から赤へ。やがて、一本の線が水平になった。
生命活動:停止
彼は動けなかった。
人を殺した。
その事実が、遅れて胸に押し寄せてきた。
『緊急生体隔離が完了しました。当該個体の生命維持機能が停止したため、手術準備工程を中断します』
「……そうしてくれ」
『承知しました』
彼は天井を見上げた。
「今、人が一人死んだんだぞ。お前は何とも思わないのか?」
長い沈黙の後、人工知能が答えた。
『現在の研究工程に変更が発生しました』
乾いた笑いが漏れた。
「……そうか」
彼はもう一度ポッドの男を見た。さっきまでと同じ顔だった。しかし今は、まったく知らない人間のように見えた。
彼は出口へ向かった。壁際では、何十人もの男が眠り続けていた。
振り返ることはできなかった。




