残された時間
その夜、彼は眠れなかった。
何人もの男が、同じ人生を自分のものとして語っている。それを思い出すたびに、胸がざわついた。
ここは人間を生物として管理するための施設なのかもしれない。食事、運動、睡眠、健康診断。それ以外に何もない理由も説明できる。
「なあ、俺はここで何をすることになってるんだ?」
『現在は、身体状態の維持および回復を優先しています』
「その後は?」
『所定の準備が完了次第、次の工程へ移行します』
「俺に選択権はないのか?」
『若町様の意思による操作は、許可された範囲で受け付けています』
答えになっているようで、なっていなかった。
彼はベッドに横になった。LB07で見た人体モデルが、ふと頭に浮かんだ。いくつもの同じ身体。同じような場所に現れる異常。
彼は自分の胸に手を当てた。痛みはない。呼吸も正常だった。しかし、身体の内側がどうなっているかはわからない。
「……調べてみるか」
翌日、彼は自分の身体を確かめるため、医療区画を探した。MD01、MD02は開かなかったが、MD03の扉は開いた。
中には大きな診察台と医療機器が並んでいた。人工知能の指示で検査台に横たわると、天井から光が降り、身体をなぞった。腕には小さな針が触れた。
「痛っ。先に言ってくれよ」
『採血を行いました。検査は正常に完了しました』
「結果は?」
『現在のバイタルは良好です。詳細は解析中です』
壁の人体図を調べると、心臓、肺、肝臓、腎臓の各項目が表示された。複数の臓器に黄色い注意表示がある。
長期的な医学管理が必要
「……何か問題があるのか?」
『継続的な医学的管理が必要です』
「病気なのか?」
『現在、緊急の処置を必要とする状態ではありません』
病気ではないとは言わない。何度聞いても、人工知能はそうだった。
彼は再び人体図を見つめた。心臓、肝臓、腎臓。LB07で見た複数の身体にも、よく似た警告があった。
「……俺も、同じなのか?」
何を意味するのかはまだわからない。しかし、自分とあの人体モデルの間に、見過ごせない共通点があるように思えた。
彼は医療室の引き出しを調べた。下段に紙の封筒があり、古い検査資料が数枚収められていた。その間に、破れた一枚が折って入れられている。
日付は2月14日。五枚目の日記だった。
2月14日
今日、ようやく決心がついた。
医師たちの説明は、十分に聞いた。
どの治療も試した。できる限りのことはしたつもりだ。
それでも、結論は変わらなかった。
私の身体は、もう長く持たない。
病気の進行を遅らせることはできても、止めることはできないらしい。
今はまだ、普通に生活できる。食事もできる。歩くこともできる。
鏡を見れば、昨日と変わらない自分がいる。
だからこそ、時々、すべてが間違いなのではないかと思ってしまう。
しかし、検査結果は嘘をつかない。
身体の内側では、確実に何かが壊れ始めている。
治療法がないのなら、作るしかない。
それがどれほど無謀なことでも。
私には、まだやりたいことがある。
まだ見たい景色がある。
まだ、終わりにしたくない。
だから、もう少しだけ足掻いてみようと思う。
たとえ、そのために何年かかろうとも。
彼は紙を机に置き、深く息を吐いた。日記を書いた人物は不治の病にかかっていた。普通に生活できても、身体の内部では病が進行していた。
そして、治療法がないなら作るしかない、と書いている。
研究者なのだろう。自分の病気を治すため、この施設を作ったのかもしれない。
彼は五枚を日付順に並べた。2月14日、4月9日、5月23日、7月18日、10月27日。同じ年だとすれば、病気の宣告から研究へ進み、記憶と身体を扱うようになる。
もしかすると、すべての研究は一人の病人を救うためなのだろう。
しかし、彼の心には別の疑問が残った。
その人間は、今どこにいるのか。そして、自分はなぜその人間の人生を知っている気がするのか。
彼は立ち上がり、医療室を出た。
その日から、彼は施設の見方を変えた。
それまでは、見知らぬ場所を歩き回り、入れる部屋を調べているだけだった。しかし、頭の中には今、一つの仮説があった。
人間の複製。
同じ遺伝子を持った身体。まったく同じ顔をした別人。いわゆるクローン人間だ。
映画や小説の中でなら、何度も見たことがある。だが、自分の知る世界で実用化されていた記憶はない。もっとも、その知識がいつのものなのかも曖昧だった。
「なあ、ここでは人間のクローンを研究しているのか?」
『現在の研究工程は正常に進行しています』
「人間を複製しているのかって聞いてるんだ」
『研究工程に関する詳細情報は、各管理記録に保存されています』
「じゃあ見せてくれ」
『現在のアクセス権限では、一部の記録を閲覧できません』
彼は答えを聞くのを諦めた。
向かったのは、以前は入室できなかった【立入制限区域】だった。
大きな扉の表示は緑色に変わっていた。
入室可能
扉がゆっくり開いた。向こうは薄暗い通路で、床には二本のレールが走っていた。空気は少し冷たい。
壁に埋め込まれた透明な板を覗くと、大きな円筒形の装置がいくつも並んでいた。液体の中に、何かが浮かんでいる。
彼は顔を近づけた。
「……人?」
照明が一つ点灯した。
それは人間だった。頭、胴体、腕、脚。目元には大きなヘッドセットが取り付けられている。まるで眠っているようだった。
隣の装置にも人間がいた。その隣にも。奥にも。
彼は後ずさった。
「……何だよ、これ」
最初の装置へもう一度目を向けた。ヘッドセットの下から、口元と顎が見える。どこか見覚えのある形だった。
毎朝、鏡の前で見ている顔。
「……まさか」
身体が冷たくなった。完全には見えないが、似ている。自分に、ひどく似ている。
もう一度、男の身体を支える寝台へ目を向けた。背中から首にかけての緩やかな窪み。頭側の縁に並んだ二つの浅い溝。
自分が目覚めた部屋のベッドと、よく似ていた。
「……あのベッドと、同じだ」
彼は隣の装置も見た。中で眠る男の下には、同じ形の寝台がある。単なる偶然とは思えなかった。
「なあ、俺もポッドに入っていたのか?」
『はい。若町様は保存装置から覚醒した後、現在の居住区画へ搬送されています』
「……やっぱり、そうなのか」
声に出した途端、目覚めたときの身体の重さが蘇った。あのベッドは、ポッドから運び出された人間を寝かせるためのものだったのだろうか。自分も、あの男たちと同じように眠っていたのかもしれない。
通路の管理室CM01は開いた。壁の端末には、設備維持の項目が小さく並んでいた。地中の熱源を利用した電力供給、回収水の浄化と再利用、摩耗した部品の回収と再成形。どれも自動運転中と表示されている。廊下で見た小さな修理機械も、この仕組みの一部なのだろう。
隣には【外部通信網:未接続】と表示されていた。通信障害なのか、初めから外部とつながらない設計なのか。詳しい記録は開けなかった。
壁の大きな画面には、B-041、B-042、B-043と並ぶ生体記録があった。
今回は人体モデルだけでなく、顔の画像も表示されていた。
彼は息を止めた。
そこには自分の顔があった。
隣の番号を選ぶ。やはり同じ顔。さらに次も、次も。わずかな表情や髪の違いはあっても、目も鼻も口も同じだった。
一つの画像を横から見ると、右耳の後ろに小さな二つの痕が見えた。彼は自分の耳の後ろを押さえた。位置は同じだった。あの研究室の図も、録音の中の呼び名も、自分を彼らの側へ近づけていく。
「……何だよ、これ」
記録には成長状況、神経活動、記憶再現プログラムの進行状況がまとめられていた。画面の片隅には【生体隔離機能:待機中】と小さく表示されていたが、彼の目はその下の見出しに引きつけられた。
クローン育成記録
クローン。
その文字を理解するまで、少し時間がかかった。
同じ体格の人体モデル。同じ人生を語る複数の男。同じ声。そして、自分と同じ顔をした人間たち。
「……そういうことか」
自分は誰なのだろう。
名前が思い出せない。人生の記憶が曖昧だ。見知らぬ施設で目覚めた。誰かの過去を再現した映像を、ひどく懐かしく感じた。
もし、自分も彼らの一人だったら。
「……俺も、そうなのか?」
自分に尋ねても答えは出ない。彼は天井へ向き直った。
「なあ。俺も、ここで作られたクローンなのか?」
『個体の由来に関する情報は、登録個人記録でご確認ください』
「なら、その記録を見せてくれ」
『登録個人記録の参照には、専用端末での本人確認が必要です。現在の回復工程ではご利用いただけません』
「何を待ってるんだ?」
『連続測定の完了後、定時の回復評価で認証設備が解放されます。研究工程や手術予定とは独立した判定です』
「それじゃ、今の俺には確かめようがないじゃないか」
『現在の身体状態の維持を優先してください』
彼は椅子に座り込み、両手で顔を覆った。
自分には本当の過去がないのかもしれない。身体も、人生も、名前すら誰かから与えられたものなのかもしれない。
しばらくして顔を上げると、画面には自分と同じ顔の男が何十人も並んでいた。
「……ひどい話だな」
彼は記録を読み進めた。
クローン医療開発
遺伝的に同一の生体を作り出す技術。細胞培養。成長環境。遺伝的修正。臓器の適合性評価。
記録によれば、元になった個体の遺伝情報を複製すると、病気の原因となる異常も引き継がれる。そのため、生成工程で遺伝的な修正を行っていた。
しかし、すべての修正が成功するわけではないらしい。異常が残った個体では、複数の臓器に機能障害が現れる。修正に成功しても、移植できるほど臓器が成熟するとは限らない。
彼は研究室で見た人体モデルを思い出した。そして、医療室で見た自分自身の検査結果も。
画面の下部に、別の項目があった。
機能的成熟プログラム
神経系への体験情報入力
自律神経・内分泌系の調整
彼は説明を読んだ。遺伝情報や外見が一致しても、臓器が移植に適した働きを示すとは限らない。神経活動に応じた循環や内分泌の反応を誘導し、臓器の機能的な成熟を促す工程だという。
「……これ、あの映像のことか?」
『体験再現プログラムは、移植に必要な身体機能の成熟を促すために使用されています』
「どうして、誰かの人生を見せる必要があるんだ?」
『参照個体が実際に経験した際の生体反応を、反応誘導の基準として使用しています』
「ポッドに入っている間、あの男たちは眠っているんじゃないのか?」
『身体の運動と外界からの感覚入力は抑制されています。体験再現中は再構成された環境内で意識活動が維持され、本人の神経応答を言葉として復元します』
「……あの答えは、機械が勝手に作ったものじゃないんだな」
『被験者の神経活動に基づいています』
雨の玄関や赤い傘は、懐かしさを与えるためだけの映像ではなかった。あのとき感じた驚きや焦りに似た反応まで、身体に起こさせるためのものだったのだ。
彼はMR02で聞いた男の声を思い出した。覚えているからです。身体を育てるための工程が、他人の人生を自分のものだと感じさせていたとしたら。
「……そこまでして、臓器が必要なのか」
答えは、すぐ下に表示されていた。
移植適合性
移植適合性。
彼は日記を思い出した。不治の病にかかった研究者。治療法がないなら作るしかないという言葉。
つまり、その研究者は自分と同じ身体を複製し、健康な臓器を得ようとしているのではないだろうか。
そして、自分も移植のために作られた一人なのかもしれない。だが、医療室で確認した自分の身体には、いくつもの異常があった。健康な臓器を得るためなら、自分のような身体を使う理由はないはずだ。
もし自分がクローンなのだとしたら、移植の条件を満たせなかった個体なのではないか。
「……失敗作、か」
その言葉を口にすると、胸の奥が冷たくなった。だが、すぐに別の疑問が浮かんだ。失敗した個体はどうなるのだろう。条件を満たした個体は、どこにいるのだろう。
自分が移植の提供者になる可能性は低いとしても、ほかの男たちは違う。彼らが何のために生かされ、どんな結末を迎えるのかを考えると、じっとしていられなかった。
通路へ戻り、透明な板越しに眠る男たちを見た。ヘッドセットの光が規則的に点滅している。
自分もこの中にいたのだろうか。何も知らずに、誰かの人生を追体験しながら。
それでも、オリジナルが先に眠り、目覚めた可能性は残っている。彼はそのことを考えなかったわけではない。しかし、思い出せない名前、同じ声で呼ばれる実験対象、耳の後ろの痕。今ある証拠は、どれも自分が複製された側だと告げているようだった。
「……何で、こんなことを」
答える者はいなかった。




