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自決  作者: 七篠 未明
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他人の人生

 目を覚ますと、また白い天井があった。

 彼はしばらく見つめていた。三度目ともなれば驚きはしない。しかし慣れたというのとも違った。本来、自分は別の場所にいるはずだという感覚が消えない。

 朝日が差し込む窓。車の音。コーヒーの匂い。そんな当たり前の朝が、ぼんやりと頭に浮かぶ。しかし、その家がどこなのかも、自分がそこで何をしていたのかも思い出せなかった。


『おはようございます、若町様。洗面所に行き、バイタルチェックをしてください』

「……おはよう。ああ、わかってる」


 枕元には小さな金属製の箱があった。中には三枚の日記。自分の意思で見つけ、自分で持ち帰ったもの。ここで初めて、自分の持ち物と呼べるものができた気がした。

 洗面所の鏡は、今日も健康状態が良好だと告げた。彼は鏡に映る顔を眺めた。自分は何歳なのだろう。三十代後半か、四十代か。それすら思い出せない。


「俺は何歳なんだ?」

『生体年齢の推定値は、現在の身体評価に反映されています』

「数字を教えてくれよ」

『現在の身体状態は良好です』

「……もういい」


 食事を済ませ、彼はMR01へ向かった。あの雨の日の映像が気になって仕方がなかったのだ。

 椅子に座り、プレビューを押す。窓を濡らす雨。赤いマグカップ。鞄を掴む小さな手。女性の声。赤い傘。前回とまったく同じだった。

 映像が終わった後、画面の下の小さな文字に気づいた。



 参照記録:W-001



 そこに触れると、幼少期、思春期、成人期と並ぶ。一人の人生を時期ごとに分類したような記録だった。子供時代の一部だけが閲覧でき、ほかは制限されている。

 さらに【再生履歴】を開くと、長い一覧が表示された。

 B-041、B-042、B-043、B-044。


「……あれ?」


 生体研究室で見た番号だった。それぞれに映像の再生履歴があり、参照元はすべてW-001だった。あるものは途中まで、あるものは停止し、進行状況はばらばらだ。


「……全員、同じ映像を見てるのか?」


 その可能性に気づくと、MR01のヘッドセットが急に不気味なものに見えた。彼は隣のMR02へ向かった。


 こちらには椅子が二脚あった。大きな画面には【体験反応解析】と表示され、記録の再生ができるようだった。

 記録の脇には心拍や呼吸、内分泌反応の曲線があり、映像の進行に合わせて上下している。記憶を確かめるだけにしては、身体の数値まで細かく残されていた。

 その下には【運動出力:抑制中】【神経応答:活動中】とあった。身体の動きを抑えたまま、脳の応答だけを記録しているらしい。ポッドの男たちは眠っているように見えたが、その間も何かを経験しているのだろうか。

 彼はB-046を選んだ。画面には【参照名:若町】と表示されていた。音声が始まる。


『おはようございます、若町様。本日の体験評価を開始します』


 彼は息を呑んだ。今、自分に語りかけるのと同じ声。同じ呼び方だった。

 記録の対象はB-046なのに、人工知能は若町と呼んでいる。


『あなたは誰ですか』


 少し間があった。男の声だった。


『……若町明です』

『その名前を、以前から覚えていましたか』

『わかりません』

『では、なぜ自分を若町明だと思うのですか』

『……そう呼ばれているからです』


 彼は思わず画面を見た。目覚めたとき、自分も名前を思い出せなかった。若町という呼び名を知ったのも、あの声からだった。


『あなたが子供の頃、雨の日に使っていた傘の色は何色でしたか』


 女性の声が問い、少し間があって男が答える。


『赤です』


 彼は息を止めた。声が自分によく似ていた。


『そのとき、誰と一緒にいましたか』

『母です』

『どこへ向かっていましたか』

『学校です』

『その記憶は、あなた自身のものですか』

『もちろんです』

『なぜ、そう思うのですか』

『……覚えているからです』

『その記憶を、誰かから与えられた可能性はありませんか』


 長い沈黙があった。


『……それなら、俺は誰なんですか』


 そこで記録は終了した。

 彼は別の記録、B-047を選んだ。質問は同じだった。答えも同じ。


『赤です』

『その記憶は、あなた自身のものですか』

『はい』

『なぜ、そう思うのですか』

『……そうでなければ、どうして覚えているんですか』


 彼は動けなかった。二人の男が同じ記憶を持ち、どちらも自分自身の体験だと信じている。

 さらにB-047の記録を初めから再生すると、こちらにも同じ挨拶があった。『おはようございます、若町様』。呼び名は参照元の人生に合わせて設定されているらしい。

 自分も若町と呼ばれている。それを、本人である証拠にはできないのだ。

 覚えているから、自分の経験だ。それは当然の理屈のはずだった。しかし、まったく同じことを二人が語っている。しかも声まで似ている。

 自分もあの映像を懐かしく感じた。夢にまで見た。あれは本当に自分の記憶なのだろうか。


「……まさかな」


 だが、今度はその考えを振り払えなかった。


 研究区画へ向かい、AR03を見つけた。棚には体験評価の記録らしい紙束があった。心拍の曲線と、被験者の回答を書き起こした紙が一緒に綴じられている。

 その間に、不規則に破れた一枚が挟まっていた。

 日付は5月23日。筆跡は同じ。四枚目の日記だった。



 5月23日


 彼らは、私の子供時代について話すようになった。

 赤い傘のことも覚えている。

 玄関に立っていた母のことも。

 あの日、学校へ行くのが嫌だったことまで。

 そこまで正確に再現されているとは思わなかった。

 そのときの心拍や内分泌反応は、参照値に近づいていた。

 測定器の上では、それで十分なはずだった。

 最初は、単なる映像の記憶になると思っていた。しかし、実際には違った。

 彼らは、その出来事を自分の経験として語る。

 雨の匂いも、濡れた靴の不快感も、母の声を聞いたときの気持ちも。

 私が説明した覚えのないことまで、実に自然に話す。

 もちろん、記録に含まれている情報なのだから、不思議ではない。

 だが、実際に目の当たりにすると、何とも言えない気分になる。

 私は今日、一つの質問をした。

「それは本当に、君自身の記憶なのか」

 返ってきた答えは単純だった。

「覚えているから」

 それを聞いて、私は何も言えなくなった。

 技術的には、成功なのだろう。少なくとも、当初の目標は満たしている。

 しかし、どうしても気になることがある。

 彼らにとって、私の人生は借り物ではない。

 それが彼らの知っている、唯一の人生なのだ。

 体験を与えずに生理刺激だけで臓器を成熟させる試験も行った。数値は一時的に似せられたが、長期の機能評価は安定しなかった。今のところ、代わりになる方法は見つかっていない。

 だからといって、彼らに経験を与え続けてよいことにはならない。

 一度目覚めさせて、研究の目的を説明し、本人の意思を尋ねるべきではないか。

 そう考えたところで、手が止まった。

 もし、拒まれたら。

 研究を止めれば、今いる彼らの管理方法も決め直さなければならない。まずは研究を続けることが彼らを維持することにもなる。私は、そう自分に言い聞かせた。

 だが、本当に恐れていたのは、彼らの答えを聞くことだったのかもしれない。

 私たちは、そのことを忘れてはいけないのかもしれない。



 赤い傘。母親。学校へ向かう朝。すべて同じだった。

 この日記を書いた人物こそ、あの体験映像の元になった人間なのだ。

 自分も映像を懐かしいと思った。自分の名前さえ思い出せないのに、あの女性の声だけは知っているような気がした。

 もし、自分も彼らの一人だったら。

 日記を書いた男は、彼らが何を感じているのかを考えていた。それなのに、研究を止めなかった。拒まれることを恐れたという一文が、妙に心に残った。


「……答えを聞くのが、そんなに怖かったのか」


 彼は紙を持ったまま、長く黙っていた。

 机の表示装置に【研究計画記録】と【W-001】の文字があった。詳しい記録は開けなかった。

 Wは若町の頭文字なのだろうか。もしそうなら、自分が若町と呼ばれていることにも意味がある。

 不安は少しずつ形を持ち始めた。

 彼が怖れていたのは、施設から出られないことではなかった。自分の正体を知ってしまうことだった。

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