身体の記録
雨の音がしていた。
彼は赤い傘を持っていた。玄関に立つ女性が、何かを言おうとしている。聞き覚えのある声のはずなのに、聞こえなかった。
『おはようございます、若町様』
目を開けた。白い天井があった。夢にしては、あまりにも鮮明だった。昨日見た映像をそのまま夢にしたようだった。
洗面所へ向かう。鏡の縁が青く光る。
『バイタルは良好。本日も健康的な運動を心がけましょう』
目覚めた直後より顔色がよくなった気がした。PG01で無理やり走らされたおかげだとしたら、少し癪だった。
朝の食事を摂り、彼は廊下へ出た。以前は反応しなかったLB07の扉の横に緑色の光が点灯していた。
入室可能
「昨日は入れなかったよな?」
『現在の活動状態に応じて、ご利用可能な区画が更新されています』
身体の回復に合わせて、行動範囲を広げているらしい。そう考えれば、少しは納得できた。
LB07は医学研究室のようだった。壁の表示装置にはグラフが並び、中央に大きな作業台がある。
生体モニタリング
細胞活動、組織反応、神経活動。
別の画面には人体の立体図が表示されていた。触れると、複数の人体モデルが横に並ぶ。
B-041。B-042。B-043。B-044。
すべて、同じ身長と体格をしていた。しかし、内部の評価結果は違う。ある者の胸部は赤く、別の者の腹部には黄色い印がある。
彼は番号を切り替えながら異常箇所を見比べた。心臓、肝臓、腎臓。警告の強さは異なるが、いくつもの人体モデルで同じような部位に異常が現れている。
「……何で、みんな同じところが悪いんだ?」
一つを拡大すると、頭部の側面にも小さな記号があった。右耳の後ろ、二つ並んだ点。その横には【神経接続端子】と書かれている。
彼は無意識に自分の右耳へ手を伸ばした。目覚めた朝、そこに同じような痕があった。指先には、今も二つの小さな隆起が触れた。
「……これも、同じなのか?」
ただの傷にしては、位置がよく似ていた。しかし、接続口の図だけでは何を意味するのか判断できなかった。
組織適合性
機能的成熟
「……適合性?」
画面の下には、心拍の変動やホルモンの分泌を示す曲線まであった。脳の活動を表す線が、心臓や肝臓の評価値と結びつけられている。臓器の適合性と、こうした反応に何の関係があるのだろう。
何に対する適合性なのか。臓器移植か、薬への反応か。彼にはわからない。
「この身体のモデルは、実在する人間のものなのか?」
『生体データは、実測値および参照データに基づいています』
「何人もいるのか?」
『評価対象の条件を比較するためです』
矢印を押すと、さらにB-045、B-046、B-047と番号が続いた。どれも同じ姿勢、同じ体格。何十人もの人間が一列に並んでいるように見えた。
透明な仕切りの奥には、培養槽らしい装置が並んでいた。容器の液体の中には、薄い桃色の膜のようなものが浮かんでいる。皮膚だろうか。筋肉だろうか。
「……人工臓器でも作ってるのか?」
『研究設備への接触はお控えください』
「触ってないよ」
研究室の奥に小さな資料室があった。棚に黒い冊子が並んでいる。研究記録らしいが、ほとんどが数値だった。
臓器の評価結果が挟み込まれた一冊を戻そうとすると、その間から紙が滑り落ちた。
端が破れている。二つに折って、記録のページに挟んであったらしい。
彼は拾い上げ、見覚えのある筆跡を確認した。
7月18日
今日、久しぶりに鏡を見た。
思っていたよりも顔色が悪かった。
以前なら、こんなことは気にも留めなかっただろう。
人間は、自分の身体が正常に動いている間、そのありがたさをほとんど意識しないものだ。
失ってから初めて、当たり前だったことに気づく。
何とも皮肉な話だ。
今日は、外見についての話になった。
どれほど似ていても、中身まで同じとは限らない。当然のことだ。
しかし、鏡に映る顔だけでは、きっと区別できないだろう。
私は、そんなことに意味があるのかと尋ねた。
彼女は、外観の一致は評価対象の一部にすぎないと答えた。
実に正しい。
欲しいのは、顔ではない。むしろ、顔などどうでもいいのだ。
重要なのは、その内側にあるものだ。
そこが違っていなければ、何の意味もない。
それでも、実際に目にすると、妙な気分になる。
今さらになって、私は何をしているのだろうと考えてしまった。
研究記録の上では、彼らは番号でしか呼ばれない。管理に必要だからだと説明してきた。しかし、番号にすれば、本人が何を感じているかを考えずに済むわけではない。
止めるべき理由なら、いくつも思い浮かぶ。続けたい理由は、たった一つしかない。
私は、まだ死にたくない。
だが、もう引き返すつもりはない。ここまで来たのだから、最後まで続ける。
私には、あまり時間が残されていない。
最後の一文が胸に引っかかった。病気なのだろうか。日記を書いた人は、重い病気にかかっていたのだろうか。
欲しいのは顔ではなく内側のもの。先ほどの人体モデルは、同じ体格なのに内部評価だけが違っていた。あの研究のことかもしれない。
「……あの日記を書いたのは、誰なんだ?」
『研究設備は正常に稼働しています』
彼はため息をついた。結局、答えは得られない。
三枚の日記を重ねる。4月9日、10月27日、7月18日。日付はばらばらだ。紙を傷めないよう、資料室の小さな金属製の箱に入れることにした。
『当該容器は研究設備の備品です。備品の移動は推奨されません』
「禁止じゃないんだな?」
『現在のご利用権限では、備品の移動を制限していません』
「じゃあ、ちょっと借りるよ」
『承知しました』
彼は箱を持って寝室へ戻った。
ベッドの上で三枚を並べる。4月9日、7月18日、10月27日。日付順なら春、夏、秋。最初は窓の話。次に身体の話。最後に記憶の話。ところが発見順に並べれば、記憶の後に身体の話が続く。
年は記載されていない。同じ年のものなのかさえわからない。
「……もっと集めなきゃな」
箱の蓋を閉じ、枕元へ置いた。
施設の奥では、生体データが次々に比較されていた。多数の番号のうち、一つだけ緑に点灯している。
選定済み
その向こうで、透明な覆いのある装置が床のレールに沿ってわずかに動いた。
移送工程:準備完了
何も異常は起きていなかった。すべてが、予定どおりだった。




