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自決  作者: 七篠 未明
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3/9

経験の再構成

彼は椅子を引き寄せ、AR02で見つけた紙を読み始めた。



 10月27日


 眠っている者と、目覚めている者。

 その違いについて、今日は随分と長く考えていた。

 記録の上では、両者を区別することは容易だ。

 しかし、目覚めた本人にとってはどうなのだろう。

 目を開けたとき、自分の名前を知っている。

 かつて暮らした場所を覚えている。

 好きだった食べ物も、嫌いだった人間も、誰かと交わした約束も。

 それらをすべて覚えていたとして、果たして、その記憶を自分自身のものだと証明できるだろうか。

 私は、できないと思う。

 あの映像を見ていると、時々、奇妙な気分になる。

 何度も再現された私の人生が、もう私だけのものではないような気がするのだ。

 装置が測定しているのは神経や臓器の反応だ。けれど、あの記憶を自分のものとして語る声まで、数値だけで説明してよいのだろうか。

 わからないまま、私は今日も研究の継続を承認した。

 必要なことだからだと、そう書いておくしかない。

 私は、いずれ眠ることになる。

 そして、いつか目覚める。

 そのとき、すべてが予定どおりに進んでいることを願うばかりだ。



読み終えても、彼はしばらく紙を見つめていた。

記憶を自分のものだと証明できるのか。何度も再現された人生。眠っている者と目覚めている者。哲学のような文章だが、具体的な研究について書かれているようにも思えた。


「……変わった研究だな」


映像、と書かれている。もし誰かの記憶を映像として再現できるのなら、それはどんな装置なのだろう。

透明な板越しに、隣の部屋を見た。大きな円筒形の装置と、細い管。何かが動いているようだが、暗くてわからない。


「……あの部屋には入れるのか?」

『現在、当該区画への入室は許可されていません』

「何の研究をしてるんだ?」

『研究設備は正常に稼働しています』


彼は別の資料を調べた。棚の一枚に、脳の構造を示した図があった。

記憶

画面を触ると、人の頭に取り付けるヘッドセットの図が現れた。目元を覆い、側頭部へ端子を当て、後頭部にフレームが回る。見覚えのある仮想現実機器に似ているが、ずっと複雑だった。



 体験再構成

 自律神経反応/内分泌応答



「……経験の再構成?」


その下に、心拍やホルモンの反応を示すらしい文字もある。記憶の映像と、身体の数値に何の関係があるのだろう。

日記の一文が浮かんだ。何度も再現された私の人生。これのことなのだろうか。

画面の端に、別の記録があった。



 体験再構成後の認知評価

 対象個体:B-046

 氏名の自発的な想起:不安定

 自伝的記憶:断片的

 幼少期の記憶:誘導刺激によって想起

 自己同一性の認識:不安定



彼は最後の項目を見つめた。自分が誰であるかという認識のことだろうか。

名前を思い出せず、過去の出来事は断片的に浮かぶ。それがいつの記憶なのかもわからない。まるで、自分の状態を説明されているようだった。

「……どういうことだ?」

記録の詳細を開こうとしたが、アクセスが拒否された。彼はしばらく画面を見つめてから、部屋を出た。


廊下の奥にはLB04、LB05、LB06があり、どれも機械の動く音だけがしていた。大きな扉の前には【立入制限区域】と表示され、立入禁止だった。

戻る途中、MR01という扉を見つけた。入ってみると、中央に背もたれの大きな椅子が置かれていた。頭部には、先ほど資料で見たヘッドセットが取り付けられている。


「……これか」


椅子へ座ると正面の画面が点灯した。



 記憶再構成



選択できる項目は【プレビュー】だけだった。彼は指で触れた。

最初に見えたのは、雨だった。

細い雨粒が窓ガラスに当たり、小さな水滴となって流れていく。窓の向こうには濡れた道路と遠くを走る車があった。

映像はゆっくり室内へ動いた。木製のテーブル。赤いマグカップ。古い時計。棚の本。誰かの目を通して景色を見ているようだった。

視界が下を向く。膝の上の鞄を、小さな子供の手が掴んでいた。


『まだ準備できないの?』


女性の声だった。室内の入口に人影が現れる。肩まで伸びた髪、淡い色の服。逆光で顔はよく見えなかった。


『ほら、遅れちゃうわよ』

『わかってるよ』


少し不機嫌な男の子の声。彼は妙な感覚を覚えた。語尾を少し伸ばす癖が、どこか懐かしい。

子供が靴を履こうとする。


『靴、揃えてから出なさい』

『……わかってるって』


女性が赤い傘を差し出した。

『今日は雨が強くなるんですって。忘れないでね』

子供は傘を受け取り、玄関の扉を開けた。雨の音が大きくなる。灰色の空、濡れた道路。傘を開くと、視界の上半分が赤く覆われた。

その瞬間、彼の頭に何かが浮かんだ。赤い傘。濡れた靴。雨の匂い。誰かの笑い声。


「あっ……」


映像が途切れ、画面に【プレビュー完了】と表示された。

彼は動けなかった。さっきの光景を知っている。いや、知っている気がした。初めて見たはずなのに、ずっと前から覚えていたようだった。


「なあ、あの映像は何なんだ?」

『体験再現プログラムのプレビュー映像です』

「誰の体験なんだ? 俺の記憶なのか?」

『参照記録に基づいて生成されています。現在のご利用状態では、体験再現プログラムの実行は必要ありません』


彼は頭上のヘッドセットを見た。日記の言葉がまた浮かんだ。

何度も再現された私の人生。

もし他人の経験を再現できるのなら、この映像を見て懐かしいと思った自分はどうなるのだろう。あれが本当の自分の記憶なのか、見たから覚えているだけなのか。区別がつかなかった。


彼は施設を歩いて寝室へ戻った。人工知能は進行方向の照明を少し明るくして案内してくれた。

枕の下へ二枚の日記を入れる。4月9日、10月27日。どちらにも年は書かれていない。

ベッドに横になると、雨の映像が浮かんだ。母親らしい女性の声。

まだ準備できないの?


「……わかってるよ」


考える前に、口から返事が出た。彼は驚いて目を開けた。白い天井があった。


『おやすみなさい、若町様』


照明が暗くなった。

施設の奥では、無人の機械が動き続けていた。誰にも見られることなく、管理画面に短い文字列が表示される。



 覚醒処理:完了

 手術準備:進行中



やがて表示は消えた。


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