経験の再構成
彼は椅子を引き寄せ、AR02で見つけた紙を読み始めた。
10月27日
眠っている者と、目覚めている者。
その違いについて、今日は随分と長く考えていた。
記録の上では、両者を区別することは容易だ。
しかし、目覚めた本人にとってはどうなのだろう。
目を開けたとき、自分の名前を知っている。
かつて暮らした場所を覚えている。
好きだった食べ物も、嫌いだった人間も、誰かと交わした約束も。
それらをすべて覚えていたとして、果たして、その記憶を自分自身のものだと証明できるだろうか。
私は、できないと思う。
あの映像を見ていると、時々、奇妙な気分になる。
何度も再現された私の人生が、もう私だけのものではないような気がするのだ。
装置が測定しているのは神経や臓器の反応だ。けれど、あの記憶を自分のものとして語る声まで、数値だけで説明してよいのだろうか。
わからないまま、私は今日も研究の継続を承認した。
必要なことだからだと、そう書いておくしかない。
私は、いずれ眠ることになる。
そして、いつか目覚める。
そのとき、すべてが予定どおりに進んでいることを願うばかりだ。
読み終えても、彼はしばらく紙を見つめていた。
記憶を自分のものだと証明できるのか。何度も再現された人生。眠っている者と目覚めている者。哲学のような文章だが、具体的な研究について書かれているようにも思えた。
「……変わった研究だな」
映像、と書かれている。もし誰かの記憶を映像として再現できるのなら、それはどんな装置なのだろう。
透明な板越しに、隣の部屋を見た。大きな円筒形の装置と、細い管。何かが動いているようだが、暗くてわからない。
「……あの部屋には入れるのか?」
『現在、当該区画への入室は許可されていません』
「何の研究をしてるんだ?」
『研究設備は正常に稼働しています』
彼は別の資料を調べた。棚の一枚に、脳の構造を示した図があった。
記憶
画面を触ると、人の頭に取り付けるヘッドセットの図が現れた。目元を覆い、側頭部へ端子を当て、後頭部にフレームが回る。見覚えのある仮想現実機器に似ているが、ずっと複雑だった。
体験再構成
自律神経反応/内分泌応答
「……経験の再構成?」
その下に、心拍やホルモンの反応を示すらしい文字もある。記憶の映像と、身体の数値に何の関係があるのだろう。
日記の一文が浮かんだ。何度も再現された私の人生。これのことなのだろうか。
画面の端に、別の記録があった。
体験再構成後の認知評価
対象個体:B-046
氏名の自発的な想起:不安定
自伝的記憶:断片的
幼少期の記憶:誘導刺激によって想起
自己同一性の認識:不安定
彼は最後の項目を見つめた。自分が誰であるかという認識のことだろうか。
名前を思い出せず、過去の出来事は断片的に浮かぶ。それがいつの記憶なのかもわからない。まるで、自分の状態を説明されているようだった。
「……どういうことだ?」
記録の詳細を開こうとしたが、アクセスが拒否された。彼はしばらく画面を見つめてから、部屋を出た。
廊下の奥にはLB04、LB05、LB06があり、どれも機械の動く音だけがしていた。大きな扉の前には【立入制限区域】と表示され、立入禁止だった。
戻る途中、MR01という扉を見つけた。入ってみると、中央に背もたれの大きな椅子が置かれていた。頭部には、先ほど資料で見たヘッドセットが取り付けられている。
「……これか」
椅子へ座ると正面の画面が点灯した。
記憶再構成
選択できる項目は【プレビュー】だけだった。彼は指で触れた。
最初に見えたのは、雨だった。
細い雨粒が窓ガラスに当たり、小さな水滴となって流れていく。窓の向こうには濡れた道路と遠くを走る車があった。
映像はゆっくり室内へ動いた。木製のテーブル。赤いマグカップ。古い時計。棚の本。誰かの目を通して景色を見ているようだった。
視界が下を向く。膝の上の鞄を、小さな子供の手が掴んでいた。
『まだ準備できないの?』
女性の声だった。室内の入口に人影が現れる。肩まで伸びた髪、淡い色の服。逆光で顔はよく見えなかった。
『ほら、遅れちゃうわよ』
『わかってるよ』
少し不機嫌な男の子の声。彼は妙な感覚を覚えた。語尾を少し伸ばす癖が、どこか懐かしい。
子供が靴を履こうとする。
『靴、揃えてから出なさい』
『……わかってるって』
女性が赤い傘を差し出した。
『今日は雨が強くなるんですって。忘れないでね』
子供は傘を受け取り、玄関の扉を開けた。雨の音が大きくなる。灰色の空、濡れた道路。傘を開くと、視界の上半分が赤く覆われた。
その瞬間、彼の頭に何かが浮かんだ。赤い傘。濡れた靴。雨の匂い。誰かの笑い声。
「あっ……」
映像が途切れ、画面に【プレビュー完了】と表示された。
彼は動けなかった。さっきの光景を知っている。いや、知っている気がした。初めて見たはずなのに、ずっと前から覚えていたようだった。
「なあ、あの映像は何なんだ?」
『体験再現プログラムのプレビュー映像です』
「誰の体験なんだ? 俺の記憶なのか?」
『参照記録に基づいて生成されています。現在のご利用状態では、体験再現プログラムの実行は必要ありません』
彼は頭上のヘッドセットを見た。日記の言葉がまた浮かんだ。
何度も再現された私の人生。
もし他人の経験を再現できるのなら、この映像を見て懐かしいと思った自分はどうなるのだろう。あれが本当の自分の記憶なのか、見たから覚えているだけなのか。区別がつかなかった。
彼は施設を歩いて寝室へ戻った。人工知能は進行方向の照明を少し明るくして案内してくれた。
枕の下へ二枚の日記を入れる。4月9日、10月27日。どちらにも年は書かれていない。
ベッドに横になると、雨の映像が浮かんだ。母親らしい女性の声。
まだ準備できないの?
「……わかってるよ」
考える前に、口から返事が出た。彼は驚いて目を開けた。白い天井があった。
『おやすみなさい、若町様』
照明が暗くなった。
施設の奥では、無人の機械が動き続けていた。誰にも見られることなく、管理画面に短い文字列が表示される。
覚醒処理:完了
手術準備:進行中
やがて表示は消えた。




