白い迷宮
しばらく歩いていると、彼はこの施設に窓が一つもないことを改めて意識した。
天井の照明はどこも一定で、時間の経過を教えてくれない。足は動くが、どれほど歩いたのか見当もつかなかった。
「……時計くらい置いとけよ」
扉にはST04、ST05、ST06と番号が刻まれていた。近づいてみるが、どれも開かない。
『許可なく入室することができません』
彼は左手を壁につけて進むことにした。迷路を抜ける方法として、どこかで読んだ記憶がある。自分の名前を思い出せないのに、そんな知識は残っているのが奇妙だった。
廊下の少し広い場所に、表示装置を見つけた。近づくと簡単な案内図が現れ、現在地の点からDR01まで一本の線が伸びていた。
『若町様。栄養補給の時間です。指定の食事エリアへ移動してください』
「食堂か? 飯が食えるのか?」
『はい。現在の身体状態に適した食事をご用意しています』
言われてみれば腹が減っていた。彼は案内に従ってDR01へ向かった。
食堂には長方形のテーブルと六脚の椅子があった。ようやく家具らしい家具を見た気がした。しかし誰もいなかった。
奥の壁の開口部からトレーが押し出されてきた。白い粥のようなもの、黄色いスープ、半透明のゼリー。
「……これ?」
『現在の消化機能に最適化された食事です』
食べてみるとまずくはないが、味気なかった。
「肉とか魚はないのか? パンは? コーヒーは?」
『現在の食事プログラムでは提供されません』
「……融通が利かないな、本当に」
結局、すべて食べた。六人用のテーブルに座るのは自分一人。使われた形跡のない椅子が等間隔に並んでいる。食堂にまで人の気配はなかった。
食後、別の廊下でRE01を見つけた。入ってみると、ソファと低いテーブルのある休憩室だった。壁一面の画面に、青空と草原が映し出されている。
青い空。白い雲。遠くの山々。風に揺れる草。
白と灰色以外の色を見たのは、目覚めてから初めてだった。
「……外に出たいな」
『リラクゼーションプログラムを実行しています』
「この景色はどこなんだ?」
『複数の自然環境データから生成されています』
実在する景色ではないらしい。しばらく眺めていると、鳥も雲も、同じ動きを繰り返していることに気づいた。どれほど綺麗でも、本物の空とは違う。外の世界は同じ光景を二度見せないのだ。
彼は休憩室を出た。洗濯室、衣服の収納室、シャワールームを見つけた。灰色の服が何着も並び、同じ形の室内履きもあった。履いてみると驚くほど足に合った。
さらに奥へ進むと、壁際で小さな機械が動いているのを見つけた。細いアームが壁の蓋を開き、古い部品らしいものを抜き取って、同じ形のものと交換している。機械が通り過ぎると蓋は元どおりに閉じた。そこだけ壁の白さがわずかに違っていた。
廊下の様子が変わった。扉の間隔が広くなり、透明な板越しに機械が見えるようになった。
LB01、LB02、LB03。どれも入室できなかったが、中には透明な容器や細い管、金属製のアームが並び、誰もいないのに動いていた。
「……研究室か?」
『研究設備は正常に稼働しています』
「何の研究をしてるんだ?」
『研究設備に関する操作は、指定された手順に従ってください』
彼はため息をついた。人工知能から答えを得るのは難しい。
廊下の奥にAR01と書かれた扉を見つけた。近づくと開いた。
そこには机と棚があった。電子資料が整然と並び、壁には図面が映されている。生活の痕跡はないが、ここで誰かが作業していた気配がある。
机の端末を操作すると、すぐに【アクセス制限中】と表示された。棚の電子資料も固定されていて取り出せない。
彼は引き出しを順番に開けた。工具、容器、手袋。そして最後の引き出しには、茶色い薄い冊子が入っていた。
「……ノートか?」
表紙に題名はなかった。よく使い込まれた角が少し丸くなっている。開くと、ほとんど白紙だった。根元には、何枚もページを破り取った跡がある。
元へ戻そうとしたとき、引き出しの奥に折れ曲がった紙が挟まっているのを見つけた。不規則に破れた、手書きの一枚だった。そばには、部屋の配置を検討したらしい手書きの図面が重ねられていた。
上には日付があった。
4月9日
今日も、窓の話をした。
必要ない、というのが返事だった。
確かに、ここには昼も夜もない。
外の景色を確認する必要もない。
だから、窓は必要ない。
実に合理的な答えだ。
しかし、私はそういうことを言っているのではない。
人間は、必要なものだけで生きているわけではないのだから。
最近、そんな当たり前のことを説明するのが、ひどく難しく感じられる。
必要なもの。不要なもの。正しいもの。間違っているもの。
すべてを分類し、数値化し、最適な答えを導き出す。
それが間違っているとは思わない。むしろ、それこそが私の望んだことだった。
だが、時々考える。
正しい答えだけを選び続けた先に、本当に私の望むものがあるのだろうか。
彼は紙を見つめた。研究記録ではなく、個人的な日記のようだった。
ここにも、窓が欲しいと思った人がいた。それが妙に嬉しかった。
「この部屋を使っていたのは誰なんだ? この日記を書いた人間は?」
『研究設備は正常に稼働しています』
人工知能は答えない。
紙の文字は少し右へ傾き、文章の終わりで小さくなる癖があった。どこかで見たような気がしたが、思い出せなかった。
彼は紙を丁寧に折り畳んだ。服にはポケットがないため、なくさないよう片手に持って部屋を出た。
研究室のさらに奥でAR02という扉を見つけた。こちらも開いた。広い机、収納棚、そして透明な板の向こうには、薄暗い大きな装置が並ぶ部屋があった。
壁際に幾つもの機械があり、その中央には一際大きなものが置かれている。青白い光がゆっくり明滅していたが、何の装置なのかはわからない。
部屋の机の引き出しを開けると、装置の配線を描いた紙や、手書きの数値を記した紙が重なっていた。
その一番上にあった一枚は、端が不規則に破れていた。
「……まさか」
紙を広げる。そこには見覚えのある筆跡で文字が並んでいた。
手に持っていた最初の日記を広げ、二枚を並べた。同じ人物のものに見えた。
上部に書かれた日付は、10月27日だった。




