目覚め
目を開けた。
白い天井が見える。
最初は、ただそれだけだった。
ぼんやりと天井を見つめながら、何かを考えようとした。しかし、思考がうまくまとまらない。深い眠りから無理やり引き上げられたような、奇妙な感覚が残っていた。
身体が重い。いや、重いというよりも、自分の身体がそこにあるという感覚が希薄だった。
指を動かしてみる。動いた。足の指も動く。ゆっくりと両手を持ち上げ、開いたり閉じたりしてみる。
それにしても、よく眠った気がする。何時間眠ったのだろう。
そんなことを考えているうちに、ようやく頭がはっきりしてきた。そして気づいた。天井に見覚えがない。
身体を起こすと、部屋の全体が見渡せた。およそ六畳ほどの広さ。壁と天井は白く、床だけが薄い灰色をしている。隅に、今まで寝ていたベッド。向かい側の壁には二つの扉。それだけだった。
机も、椅子もない。棚もなければ時計もない。窓すらなかった。
ベッドの縁に手を置いたとき、寝台の形が妙に気になった。マットレスは柔らかいのに、背中から首にかけての部分だけが、身体を一定の形に支えるように窪んでいる。頭側の縁には、左右に一つずつ浅い溝があった。何かを固定するためのものだろうか。病院で使う特殊なベッドなのかもしれない。
彼はそれ以上、気にしなかった。
整理整頓されている、というのとは違う。そもそも、整理するような物が何もないのだ。人が生活するための部屋というより、誰かが部屋というものを説明され、最低限必要なものだけを配置したような空間だった。
「……どこだ、ここ」
声は少し掠れていた。
ホテルだろうか。それとも病院か。ホテルなら荷物があるはずだし、病院なら医療機器の一つくらい置いてあってもよさそうなものだ。何より、ここに来た覚えがない。
昨日は何をしていたのだろう。仕事をして、食事をして、どこかで眠った。人間なのだから、そういう一日があったに違いない。だが、具体的に思い出そうとすると、何も浮かんでこなかった。
記憶がないわけではない。家の窓から差し込む午後の日差し。淹れたてのコーヒーの匂い。誰かと話したこと。断片的な光景は浮かぶ。けれど、それがいつの出来事だったのかがわからない。順番を失った写真を眺めているようだった。
『おはようございます、若町様』
「うわっ!」
突然、女性の声が響いた。反射的に声のした方を向いたが、そこには白い壁があるだけだった。
『洗面所に行き、バイタルチェックをしてください』
抑揚の少ない、落ち着いた声。人間の声に似ているが、どこか機械的だった。人工知能音声なのだろう。
「……若町?」
誰のことだろう。少なくとも、その名前で呼ばれた覚えはなかった。だが、そこでふと疑問が生じた。自分の名前は何だっただろう。簡単なことのはずなのに、どうしても出てこない。喉元まで出かかっている気がするのに、思い出そうとすればするほど遠ざかっていく。
「おい。聞こえているのか? ここはどこなんだ? 若町って誰だ?」
返事はなかった。
仕方なくベッドから足を下ろす。裸足の足裏に、ひんやりとした床の感触が伝わった。着ているのは、薄い灰色の上下。ボタンもポケットも、タグさえない。こんな服を持っていただろうか。それすら思い出せなかった。
二つの扉のうち一つに近づく。取っ手がない。どうやって開けるのか考えた瞬間、小さな電子音が鳴り、扉が横へ滑った。
「……自動ドアか」
向こうには洗面台が見えた。彼は恐る恐る中へ入った。
洗面所も寝室と同じように殺風景だった。大きな鏡と洗面台。歯ブラシも、コップも、石鹸もない。
鏡の前に立つと、そこには男が映っていた。見覚えのある顔。当然だ。自分の顔なのだから。少し伸びた髪、疲れたような目元、わずかに青白い顔色。少なくとも顔まで変わってしまったわけではないらしい。
髪を払おうとしたとき、右耳の後ろに二つ並んだ小さな硬い痕が触れた。指でなぞると、皮膚の下に細い傷がある。いつできたのかは思い出せなかった。痛みもない。彼は気にしないことにした。
鏡の縁が淡い青色に光った。
『バイタルは良好。本日も健康的な運動を心がけましょう』
「……それだけ?」
光は消えた。鏡の前に立っただけで健康状態がわかるらしい。
「なあ」
『はい、若町様』
「俺の声が聞こえるのか?」
『はい』
「ここはどこなんだ?」
『現在地は居住区画です』
「居住区画? 何の施設なんだ? 病院か?」
『ご質問の意図を理解できませんでした』
「じゃあ、俺はどうしてここにいる?」
少し沈黙があった。
『若町様の健康状態は良好です』
「それはさっき聞いた」
『本日も健康的な運動を心がけましょう』
彼はため息をついた。どうやら、まともな会話を期待する方が間違いらしい。
顔を洗う。冷たい水が肌に触れた。タオルを探したが見当たらない。仕方なく両手で水を払うと、鏡の横から温かい風が吹き出した。数秒で顔が乾く。
「……便利だな」
だが、設備の便利さと今の状況は別問題だった。誰が、何のために作った施設なのか。なぜ自分がここにいるのか。考えても答えは出ない。
洗面所を出て、もう一つの扉へ近づいた。短い電子音が鳴る。その向こうには、長い廊下が伸びていた。
白と灰色だけの空間。一定間隔の照明。左右に並ぶ扉。窓も案内板も、観葉植物もない。廊下の端は途中で曲がり、その先は見えなかった。
「……誰かいませんか?」
声は不思議なほど響かなかった。大きな声で呼んでも返事はない。空調の音も、人の気配もない。
とりあえず右へ進む。最初の扉に近づいたが、開かなかった。もう一歩近づく
。
『許可なく入室することができません』
「うわっ……びっくりさせるなよ」
隣の扉も同じ。その次も、その次も。
『許可なく入室することができません』
「わかったって!」
扉には数字とアルファベットの組み合わせが刻まれていた。鍵穴はない。押しても引いてもびくともしなかった。
「どこか入れる部屋はないのか?」
『現在ご利用いただける設備をご案内します。居住区画、および指定プログラムエリアがご利用いただけます』
「プログラムエリア? 何をするところなんだ?」
『各種プログラムを実施するための設備です』
「……それは名前を聞けばわかるんだけど。どこにある?」
『廊下を直進し、次の角を左折してください』
彼は案内に従った。同じ形の廊下が続き、どれほど歩いたのかもわからない。途中で、自分がどちらから来たのかも曖昧になった。
「なあ、今何時?」
『現在の時刻情報は、ご利用中のプログラムには必要ありません』
「……時間くらい教えてくれよ」
やがて幅の広い扉に到着した。黒い文字が書かれている。
PG01
『プログラムエリア01です』
「……先に何をするか教えてくれないのか?」
『入室後にご案内します』
彼が近づくと扉が開いた。中は薄暗い大きな部屋だった。床には黒い帯のようなものが伸び、奥には段差や障害物が並んでいる。
「……ジム?」
一歩踏み込んだ途端、背後の扉が閉じた。天井の照明が一斉に点灯する。
『フィジカルプログラム01を開始します。本日の目標は、運動能力の確認および身体機能の維持です』
「運動?」
『開始位置へ移動してください』
床に青白い四角い枠が浮かんだ。彼がその中へ入ると、枠が緑に変わる。
『位置確認完了。3……2……1……』
「ちょっと待――」
床が動いた。
「うわっ!」
黒い床が後ろへ流れる。ランニングマシンと同じ仕組みだった。しかし手すりはなく、何より長い。
『走行を開始してください』
「走れってことか!」
慌てて走り出す。最初は駆け足で追いつけたが、速度がじわじわ上がった。
『次の動作に移行します』
前方の床から障害物がせり上がった。
『ジャンプしてください』
「急に言うな!」
彼は咄嗟に跳び越えた。着地した瞬間、今度は天井から棒が降りてくる。
『姿勢を低くしてください』
「だから急に――!」
かがむ。走る。跳ぶ。またかがむ。床は容赦なく動き続けた。
「はぁっ……止めてくれ!」
『プログラムは正常に進行しています』
「そうじゃなくて! もう十分だろ!」
『現在の運動量は適正範囲内です』
前方からまた障害物が迫った。跳んだが、着地で足がもつれ、膝をついた。
『姿勢異常を検知しました。安全機構を作動します』
床が止まった。障害物が収納される。彼は両手を床につき、荒い呼吸を繰り返した。
『外傷なし。心拍数上昇。疲労状態を検知しました。適度な休息を推奨します』
「……今さらかよ」
やがて息が整うと、不思議なことに、思っていたほど疲労が残っていなかった。
『本日の運動プログラムは終了しました。お疲れさまでした、若町様』
彼は天井を見上げた。
「……なあ。俺はここで何をしてるんだ? お前は何か知ってるんだろ?」
沈黙。彼はもう一度尋ねた。
「俺は、何者なんだ?」
『若町様の健康状態は良好です』
乾いた笑いが漏れた。
「……そればっかりだな」
出口を出ると、変わらず白い廊下が続いていた。寝る場所。身体を調べる洗面所。運動する場所。人間を生かしておくために必要なものだけが揃った施設。
そして、ここで目覚めてから、まだ人間を一人も見ていない。
「なあ、ここにはほかに誰かいるのか?」
『施設内の各設備は、正常に稼働しています』
「人がいるかって聞いてるんだ」
『施設内の各設備は、正常に稼働しています』
人間より設備の方が大事だとでもいうような答えだった。
彼は未探索の廊下へ歩き始めた。自分がここにいる理由を知るために。
ふと足を止める。何かを忘れている気がした。目を閉じると、白い光と、細長い透明なものが閉じていく光景が浮かんだ。すぐに消えた。
「……何だ?」
目を開ければ、また白い廊下がある。彼は歩き出した。
朝なのか、昼なのか、夜なのか。それすらわからないまま。




