第7章 福音の終わり
山の午後は静かだった。
昼を過ぎ、蝉の声だけが森に響いている。
東雲は縁側へ置いてあった古い携帯端末を手に取った。
しばらく画面を眺める。
天城真白
最後に連絡したのは、あの山小屋へ来た日だった。
「……さて。」
東雲は発信ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
神崎も黙って見守る。
今日は日曜日だ。
研究所にいなければ。
あるいは移動中なら。
電話くらいは取るかもしれない。
東雲は受話器を耳へ当てたまま、小さく笑う。
「出りゃ一番いい。」
「出なきゃ。」
一拍置く。
「直接会いに行く。」
その言葉に迷いはなかった。
「幸い、俺にはもう、背負ってる仕事はないからな。」
引退した身だ。
誰に許可を取る必要もない。
誰に遠慮する必要もない。
今の自分にできることは、一つだけ。
あの娘と話をすること。
神崎は頷いた。
「そうですね。」
「でも、会えるんですか。」
「今の天城は、国家プロジェクトの責任者ですよ。」
「テレビにも出てる。」
「忙しいでしょうし、簡単には……。」
東雲は苦笑した。
「だから、お前さんがいる。」
神崎は目を丸くする。
「俺ですか?」
「ああ。」
「神崎。」
「お前、今は時間くらいは合わせられるんだろう?」
神崎は少し考え、笑った。
「……まあ。現場屋ですからね。」
「研究所に出入りする人間よりは、ずっと暇です。」
「世界が終わるかもしれないって、彼女に伝えなきゃいけない。」
東雲は首を横に振った。
「違う。」
神崎は眉をひそめる。
「世界が終わる、じゃない。」
「未来が生まれなくなる。」
「それを、あの子自身の目で見てもらうんだ。」
二人は顔を見合わせた。
山を吹く風は、どこまでも穏やかだった。
その静けさとは裏腹に。
人類の未来を左右する対話へ向けて、二人はゆっくりと歩き始めようとしていた。
呼び出し音は、最後まで鳴り続けた。
「現在、電話に出ることができません――」
無機質な音声が流れ、通信が切れる。
東雲は何も言わず、端末を閉じた。
「……出ない、か。」
神崎は少し申し訳なさそうに笑う。
「でしょうね。今、日本で一番忙しい研究者かもしれませんし。」
東雲は頷く。
ーーー着信音。
端末を取り上げる。表示は天城真白。
「お嬢か。今どこだ。」
神崎へ視線を送ると、じっと東雲を見返した。
「今から会えるか。こちらは神崎が来ている。……そうか、わかった迎えに行く。駅で待て。」
神崎はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
「誠司さん。」
「さっき言ってましたよね。」
「見てもらうって。」
「どこへ?」
東雲は少し考えたあと、静かに笑った。
「現場だ。」
「現場?」
「ああ。」
「研究所じゃ見えないものがある。」
「テレビにも映らない。」
「統計にも出てこない。」
「AIにも測れない。」
神崎は首を傾げる。
「何です?」
東雲は神崎を見た。
「お前さん。」
「毎週ここへ来るようになった理由を、説明できるか?」
神崎は苦笑する。
「できませんね。家のベッドの方が快適です。飯だって町の方が手軽だ。それでも来ちゃう。」
「理由は分からない。」
東雲は静かに頷いた。
「それだ。」
「え?」
「理由が分からない。」
「数値化もできない。」
「効率も悪い。」
「それでも人は、人に会いに行く。」
東雲は山の景色を見渡した。
「真白は今。」
「世界中の数字を見ている。」
「だから。」
「数字にならないものを見せる。」
神崎は黙った。
東雲は続ける。
「恋人。」
「夫婦。」
「親子。」
「友達。」
「近所付き合い。」
「喧嘩して。」
「仲直りして。」
「酒を飲んで。」
「焚き火を囲んで。」
「理由もなく笑う。」
「そんな、人間が何千年も積み重ねてきた営みだ。」
「EVAは、それを壊したんじゃない。」
「必要なくしてしまった。」
東雲は神崎へ向き直る。
「だから。」
「真白には、EVAがいない場所を見てもらう。」
「まだ、人間だけで生きている場所を。」
「そこで初めて。」
「自分が何を社会から奪ってしまったのか。」
「見えるかもしれん。」
神崎はゆっくり頷いた。
「……なるほど。」
「見せるんですね。」
「答えじゃなくて。」
東雲は穏やかに笑った。
「そうだ。」
「答えを教えるのは教師だ。」
「私はもう、教師じゃない。」
「今は。」
「一人の技術者として、あの娘に現実を見せたいだけだ。」
新幹線停車駅。
駅前ロータリー。
東雲の愛車は軽トラックだ。
三人で長距離を移動するには少々手狭ということで、今は神崎のSUVで来ていた。
ゆっくりとロータリーへ滑り込む。
日曜日の午後。
上り列車が発車したばかりなのか、人影はまばらだった。
スーツ姿の会社員。
旅行帰りの家族連れ。
駅舎のガラス越しに行き交う人々。
その中に、一人だけ見覚えのある女性が立っていた。
天城真白。
神崎は思わず息をのむ。
(……変わったな。)
あの日、山小屋で会った時よりも、ずっと垢抜けて見える。
髪も少し伸びた。
立ち姿の印象も変わった。
だが、一番変わったのは表情だった。
テレビで見る”聖母”の笑顔ではない。
人前に立つことを覚えた人間の、穏やかな笑顔。
それでも、その奥に少しだけ疲れが見えた。
東雲が車を降りる。
真白はそれを見るなり、ぱっと表情を明るくした。
「師匠……。」
その一言だけで、研究所の主任ではなく、一人の弟子へ戻っていた。
「連絡をいただけて、嬉しかったです。」
深く頭を下げる。
「ご無沙汰しています。」
そして神崎へ目を向ける。
「神崎さんも。」
少し笑う。
「毎週来てるって、風の噂で聞きました。」
神崎は照れくさそうに頭を掻く。
「風、よく吹く山なんで。」
真白も思わず笑った。
東雲はその様子を見届けると、表情を引き締める。
「お嬢。」
「忙しいところ悪かったな。」
「だが、どうしても話さなくちゃならないことがある。」
一拍置く。
「俺の小屋へ行こう。」
真白は迷わなかった。
「はい。」
その返事は驚くほど早かった。
そして、少しだけ視線を落とす。
「実は……。」
「私も。」
「どうしても誰かに相談しなくちゃいけないことがあるんです。」
東雲は今は何も言わなかった。
ただ静かに頷く。
神崎は運転席からそのやり取りを眺めていた。
窓越しに交わされる二人の言葉。
師と弟子。
久しぶりの再会。
どちらも穏やかな笑顔を浮かべている。
それなのに。
これから向かう先で、その笑顔が消えてしまうような気がして。
神崎は、どう声を掛ければいいのか分からなかった。
東雲が助手席のドアへ手を掛けながら振り返る。
「さあ。」
「後ろの席に乗ってくれ。」
少し笑う。
「と言っても、神崎の車だがな。」
その一言で、張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
神崎も笑った。
車を降りて、真白の荷物へ目を向ける。
「荷物は?」
真白は肩から提げた小さなバッグを軽く持ち上げた。
「これだけです。」
「じゃあ大丈夫ですね。」
神崎は後部座席のドアを開ける。
「どうぞ。」
真白は「ありがとうございます」と小さく頭を下げ、車へ乗り込んだ。
ドアが静かに閉まる。
神崎は運転席へ戻り、エンジンを掛ける。
バックミラー越しに映る真白は、俯いていた。
車は山小屋へ向けて出発した。




