第6章 違和感
――神崎 蓮
昼休み。
いつもの食堂。
神崎が定食を食べ始めたところへ、後輩が勢いよくトレーを持ってやって来た。
「先輩!」
「聞いてくださいよ~!」
「……なんだ。」
「ついに!」
「昨日、EVAが家に届いたんですよ!」
神崎は箸を止める。
「買ったのか。」
「買いました!」
後輩は満面の笑みだった。
「いやぁ、いいっすよ。」
「EVAがいる生活!」
「なんつーんすかね。」
「潤いのある生活?」
「ってやつですよ!」
神崎は苦笑する。
「大げさだな。」
「いやいや!」
「全然大げさじゃないっす!」
後輩は身を乗り出した。
「アラームだけセットしといたら。」
「朝、優しく起こしてくれるんですよ。」
「『おはようございます。今日も良い一日になりますように。』って。」
「もう。」
「仕事の日に、あんな気持ちいい目覚めしたことないっす。」
神崎は黙って聞いている。
「家を出る時も。」
「玄関まで見送ってくれるんです。」
後輩はEVAの声色を真似した。
「『お気をつけて、いってらっしゃいませ。お帰りを、お待ちしております。』」
その真似が思いのほか上手くて、周囲から笑いが起きる。
「今晩、帰ったらですよ?」
「玄関で。」
「『お帰りなさい。今日もお疲れさまでした。』」
「ってなるわけです。」
後輩は顔を緩ませた。
「あーもう。」
「新妻いらずですわ、これは。」
食堂がどっと笑う。
神崎もつられて笑った。
「お前。」
「彼女できなくなるぞ。」
「いやいや。」
後輩は手を振る。
「逆っすよ。」
「癒やされるから仕事も頑張れるし。」
「余裕もできるし。」
「そのうち彼女もできますって。」
「本当か?」
「たぶん!」
また笑いが起きる。
その場は、それで終わった。
誰も深く考えなかった。
ただ一つ。
神崎だけは、笑いながらも胸の奥に小さな違和感が残っていた。
「新妻いらず。」
後輩は冗談で言った。
本気ではない。
そのはずだった。
神崎は味噌汁をすすりながら、ふと思う。
(あいつ。)
(昨日まで、休みの日は『彼女欲しい』って騒いでたよな。)
(今日は、一度もそんな話をしなかった。)
たった一日。
たった一台のEVA。
それだけで人が変わるとは思わない。
そう思いながらも。
山小屋の焚き火で交わした会話が、静かによみがえる。
「魂のない人形に家族を見たら。」
神崎は、その続きを思い出さないように、残った飯を口へ運んだ。
週末。
神崎が東雲の山小屋へ通うことは、もう習慣になっていた。
毎週金曜日。
仕事を終えると、車へキャンプ道具を積み込む。
山道を走り。
小屋へ着く。
薪を割る。
焚き火を起こす。
酒を飲む。
他愛もない話をする。
たまに仕事の話。
たまに昔話。
気づけば夜になり、そのまま泊まる。
それだけだった。
それだけなのに。
その時間だけは、手放したくなかった。
⸻
ある週。
休日出勤が入った。
大型設備の緊急点検。
山へは行けない。
「悪い、誠司さん。今週は無理だ。」
東雲から返ってきたのは、短い返事だけだった。
「仕事なら仕方ない。」
⸻
その週は、妙だった。
仕事は順調。
現場にも問題はない。
後輩も元気。
何一つ悪いことは起きていない。
それなのに。
気持ちだけが晴れなかった。
夜。
家へ帰る。
風呂へ入り。
飯を食う。
テレビをつける。
画面には、またEVA。
そして。
インタビューに答える天城真白。
二人の姿が、ぼんやりと頭の中を行き来する。
(何だかな。)
神崎はテレビを消した。
布団へ入る。
目を閉じる。
眠れない。
時計を見る。
午前一時。
二時。
三時。
何度寝返りを打っても、眠気は来なかった。
「……歳かな。」
苦笑してみても、眠れないものは眠れない。
⸻
翌週。
仕事を終え、山へ向かう。
「来たか。」
「来ました。」
いつものように薪を割る。
焚き火を囲む。
酒を飲む。
東雲の話は自然が中心だ。
山菜やきのこの話。
時期で獲れる肉、肉になる前の話。
昔話や政治の話はしない。
AIの話もしない。
神崎にはそれが心地よかった。
話が尽きると、二人とも、ただ炎を見ていた。
⸻
その夜。
小屋で眠る。
目を閉じた。
気づけば朝だった。
神崎は布団の中で目を丸くする。
「……熟睡した。」
夢も見なかった。
久しぶりだった。
外へ出る。
朝露が草を濡らしている。
東雲はもう薪を割っていた。
「よく寝た顔してるな。」
神崎は頭を掻いた。
「不思議ですね。」
「誠司さんには悪いですけど。」
「俺んちのベッドの方が、よっぽど高いし快適なんですよ。」
「それなのに。」
「こっちだと、ぐっすり眠れる。」
東雲は薪を割る手を止めずに答えた。
「そういうもんだ。」
「理由は?」
「知らん。」
神崎は笑う。
「技術屋のくせに。」
東雲も笑った。
「技術屋だからだ。」
「分からんものは、分からんと言う。」
神崎もつられて笑う。
その笑い声は、焚き火の煙と一緒に、静かな山の空へ溶けていった。
そして神崎は、まだ気づいていなかった。
自分が毎週求めていたのは、山でも、焚き火でもない。
誰かと同じ時間を過ごすこと。
それ自体が、人間にしか与えられない安らぎだったのだと。
今日は日曜日。
いつものように山小屋で一泊し、帰る支度をしていた。
まだ昼前だ。
この時間なら渋滞にも巻き込まれない。
神崎は縁側でコーヒーをすすりながら、持ってきた雑誌を開く。
東雲は少し離れた場所で薪を割っている。
この静かな時間が、神崎は好きだった。
手にしている雑誌は、一般向けとは言い難い。
記事の統一感はまるでない。
電力系統の安定化。
森林管理。
医療AI。
考古学。
進化生物学。
一冊の中に何でも詰め込まれている。
そのくせ、一つひとつの記事は異様に専門的だ。
神崎は、こういう雑誌が嫌いではなかった。
ページをめくる。
特集記事の見出しが目に入る。
『進化人類学から見たEVAとの関わり』
「……進化人類学?」
珍しい切り口だ。
読み始める。
内容は、意外にもEVAを礼賛するものではなかった。
むしろ逆。
慎重論。
いや。
警鐘だった。
EVAは社会へ浸透した。
人々の幸福度は向上した。
孤独感は低下した。
しかし同時に、日本社会にはこれまで説明できなかった急激な出生率低下の予兆が現れている。
神崎の手が止まる。
さらに読み進める。
人類は数百万年という時間をかけて、他者との共同体を形成することで生存してきた。
EVAはその共同体機能の一部を代替し始めている。
もし精神的充足が家族形成を必要としなくなれば、人類は繁殖という行動そのものを失う可能性がある。
最後の一文に、神崎は目を見開いた。
「このままEVAとの関係が深化すれば、日本は一世代のうちに回復不能な人口減少局面へ入り、民族としての存続を失う可能性がある。」
神崎は雑誌を閉じられなかった。
三流週刊誌なら笑って終わる。
だが違う。
この雑誌は、これまで何度も現場で役に立つ記事を載せてきた。
執筆者も、その分野では名の知れた研究者や実務者ばかりだ。
だからこそ。
見過ごすことができなかった。
神崎は顔を上げる。
薪を割っていた東雲へ声を掛けた。
「誠司さん。」
東雲は斧を止める。
「ん?」
神崎は開いたままのページを見つめながら言った。
「この記事……。」
その声には。
これまでになかった重さがあった。
――東雲 誠司
東雲は神崎から雑誌を受け取ると、黙って最後まで読み切った。
途中で一度も口を開かなかった。
ページを閉じる。
それでもすぐには何も言わない。
神崎も待った。
長い沈黙だった。
やがて東雲は、小さく息を吐く。
「……このデータが本当なら。」
そう呟いて、もう一度グラフへ目を落とした。
「いや。」
「本当なんだろう。」
願望ではなく、技術者としての結論だった。
データの取り方。
統計処理。
解析手法。
どれも粗は見当たらない。
「下手をすれば五年。」
「……いや。」
東雲は首を横に振る。
「もっと短い。」
神崎の表情が曇る。
「そんなにですか。」
東雲はグラフの傾きを指でなぞった。
「これは出生率だけの問題じゃない。」
「出生という行動そのものの喪失を示している。」
「だから普通の少子化とは違う。」
「経済が悪い。」
「将来が不安。」
「そういう理由なら景気が戻れば反転する可能性がある。」
「だがこれは違う。」
東雲は静かに言った。
「必要がなくなった。」
その一言が、山の空気を凍らせたようだった。
「人は孤独を埋めるために人を求める。」
「苦しいから寄り添う。」
「寂しいから家族を作る。」
「子どもが欲しいという気持ちも、その延長線上にある。」
「もし、その苦しみをEVAが十分に埋めてしまったら。」
神崎は何も言えない。
東雲は遠くの山並みを見つめた。
「子どもは未来への投資だ。」
「自分がいなくなったあとも続いてほしいという願いだ。」
「だが。」
「今が完全に満たされてしまった人間に、未来を作る理由は残るのか。」
神崎は思わず拳を握り締めた。
東雲は苦笑した。
「皮肉なもんだ。」
「これが本当なら。」
「社会に天国が実装され。」
「福音が響き渡った、そのとき。」
「もう新しい生命は必要なくなる。」
神崎の喉が鳴る。
東雲は静かに続けた。
「人は苦しみから解放された。」
「孤独じゃなくなった。」
「争わなくなった。」
「幸福になった。」
「誰も失敗していない。」
そして、ゆっくりと神崎を見る。
「だから誰も止められない。」
その言葉には、絶望よりも深い諦めが滲んでいた。
「本当に。」
「日本は、天に召される。」
山を吹き抜ける風だけが、二人の間を静かに通り過ぎていった。
神崎は雑誌のグラフを見つめたまま、低く言った。
「これって。」
「本当に、こうなりますよね。」
東雲は否定しなかった。
「この傾きが続けばな。」
神崎は奥歯を噛む。
「天城はまだ気がついてない。」
「いや……違う。」
「知ってはいるはずだ。」
「どんなに忙しくても、開発と運営の情報は全部あいつを通ってる。」
「EVAの導入地域。」
「利用時間。」
「家族構成。」
「幸福度。」
「婚姻率。」
「出生率。」
「全部、見てるはずだ。」
神崎は顔を上げる。
「でも、見えないんだ。」
「あるのに、見えない。」
「気がつかない。」
「……いや。」
「気がつかないふりをしている。」
風が止んだ。
山の静けさが、かえって重く感じられた。
「誠司さん。」
神崎の声には、はっきりと焦りが滲んでいた。
「これ、まずいですよ。」
「それこそ今すぐ、EVAを止めなくちゃならない。」
だが、次の瞬間には声が萎む。
「でも……どうやって?」
神崎は雑誌を膝へ落とした。
「EVAは誰も傷つけてない。」
「今も人を幸福にし続けている。」
「自殺を減らしてる。」
「孤独を減らしてる。」
「介護を支えてる。」
「子どもの相談にも乗ってる。」
「そんなものを止めろって言ったら。」
「俺たちの方が狂人扱いだ。」
東雲はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりとコーヒーカップを置く。
「そうだな。」
「正面から止めることはできん。」
神崎が顔を上げる。
東雲は雑誌のグラフを指で叩いた。
「数字だけでは足りない。」
「政策担当者は反論する。」
「相関であって因果ではない、と。」
「EVAは成果を上げている、と。」
「出生率低下は別要因だ、と。」
「そして、ARGOSはきっとその反論に完璧な資料を作る。」
神崎は苦々しく笑った。
「でしょうね。」
「だから。」
東雲は静かに言った。
「どうにか本人と話さなきゃならん。」
「天城と?」
「ああ。」
「EVAを止められる可能性があるのは、今のところ真白だけだ。」
「彼女が見えていないなら、見えるところまで連れていくしかない。」
神崎は息を吐く。
「会えますかね。」
「今や時代の寵児ですよ。」
「会えるさ。」
東雲は少し笑った。
「私は、あの子の師匠だ。」
「そしてお前さんは。」
「彼女が一度、答えを探しに来た相手だ。」
神崎は黙った。
東雲は立ち上がり、山小屋の中へ向かう。
「連絡する。」
「ただし、説得するんじゃない。」
神崎が目を向ける。
東雲は振り返らずに言った。
「見せるんだ。」
「EVAのいない場所を。」
「人が面倒で、不器用で、孤独で、間違えて、それでも人と生きている場所を。」
神崎は焚き火の跡を見つめた。
灰の中に、まだ赤い火が残っていた。




