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聖女と人形  作者: kanaeihi
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第3章 山小屋での邂逅

山道の先に、小さな煙が見えた。


薪を燃やす匂いが風に乗る。


懐かしい。


東雲が退職した後、一度だけ職場のメンバーと遊びに来たあの山小屋だ。


車を停める。


玄関へ向かおうとした、その時だった。


庭先から笑い声が聞こえた。


男が一人。


焚き火の前に座っている。


そして、その向かいには──


見覚えのある作業着姿の男。


「……え?」


真白は思わず足を止めた。


東雲がこちらに気づき、変わらない穏やかな笑顔を浮かべる。


「おお、お嬢か。」


そして、焚き火の向かいに座る男へ視線を向けた。


「ちょうどいい。」


「いつか紹介しようと思っていたところだ。」


男も振り返る。


真白は、その顔に見覚えがあった。


事故報告書の作成者。


あの一行を書いた人物。


『予備保全の必要を認める。根拠は現場経験による違和感。』


国家インフラ保全部。


技術監査官。


神崎蓮。


真白は、この出会いをまだ偶然だと思っていた。


東雲だけが、小さく笑う。


「二人とも、同じ答えを探しに来たんだろう。」


真白は思わず姿勢を正した。


焚き火の前に歩み寄り、深く一礼する。


「初めまして。」


「国家AI研究所で研究主任を務めています、天城真白と申します。」


神崎も立ち上がる。


「神崎蓮です。国家インフラ保全部で技術監査を。」


真白は少し慌てて言葉を継いだ。


「東雲さんは私の元上司で……私の専門もAIで……。」


そこまで言って、はっとした。


神崎の顔。


あの報告書。


自分が何日も読み返し、理解できなかった一枚。


その本人が目の前にいる。


「……。」


真白は東雲を見る。


そして神崎を見る。


「ご、ごめんなさい。」


「お邪魔ですよね。」


「私……帰ります。」


踵を返そうとした、その時。


「ああ、待て待て。」


東雲が大きく笑った。


「そんなに焦ることはない。」


「大丈夫だ。」


真白が振り返る。


東雲は神崎の肩を軽く叩いた。


「この神崎って男はな。」


「俺にとっては、お嬢と同じく弟子みたいなもんだ。」


神崎が苦笑する。


「弟子なんて言われるほど仕事教わってませんよ。キャンプは、師匠か。」


「はは。」


東雲は笑って首を振る。


「以前、仕事でよく付き合いがあってな。」


「AI基盤を現場へ入れ始めた頃だ。」


「研究所で設計したものが、現場で本当に動くのか。」


「私はその確認によく出向いていた。」


「そのたびに現場責任者だった神崎と一緒になる。」


「気がつけば、毎週顔を合わせていた。」


神崎も懐かしそうに笑う。


「東雲さん、現場へ来るたびに図面より設備を見てましたからね。」


「設計者のくせにね。」


「設計者だからだ。」


東雲は即座に返した。


「図面が正しいかどうかは、現場が決める。」


その一言に、真白は思わず目を見開く。


東雲は続ける。


「あの頃は、お嬢ははまだ研究所へ入ったばかりだった。」


「新米で忙しそうだったお前にあまり覚えはないだろうが。」


「私は週の半分くらい研究所にいなかった。」


真白はゆっくり頷いた。


「……そうでした。」


新人だった頃の記憶がよみがえる。


東雲は、いつも席を外していた。


「また現場ですか。」


先輩たちが苦笑していたのを思い出す。


当時は不思議だった。


国家AIの設計責任者が、なぜ現場へ行くのか。


今なら少し分かる気がする。


東雲は二人を見比べる。


「面白いもんだ。」


「一人は現場で答えを探す男。」


「一人は研究室で答えを探す女。」


「そして二人とも、答えが見つからなくなってここへ来た。」


神崎と真白は顔を見合わせた。


ほんの一瞬。


互いの第一印象は、決して悪くなかった。


神崎は「理屈だけの研究者」だと思っていた女性が、自分と同じように悩みを抱えて山奥まで来たことに少し意外さを覚えた。


真白は「勘だけで設備交換を訴える現場屋」だと思っていた男が、思いのほか穏やかで、話を聞く姿勢を持っていることに安心していた。


東雲はそんな二人の表情を見て、静かに薪を一本くべる。


「さて。」


炎が少し大きくなる。


「今日は研究所も現場も忘れろ。」


「まずは飯にしよう。」


「人間はな。」


「腹が減っていると、ろくな答えが出ない。」


夕暮れが山を包む。


焚き火の上では、小さなダッチオーブンから湯気が立ち上っていた。


東雲の山小屋の食事は、驚くほど質素だった。


皿に盛られた猪のロースト。


湯気の立つ天然舞茸の味噌汁。


炊きたての米で握った塩むすび。


それだけ。


スーパーで買った加工食品も、豪華な調味料もない。


山が育てたものを、山で食べる。


ただそれだけだった。




神崎は猪肉を一切れ口へ運ぶ。


ゆっくり噛む。


肉汁が広がる。


脂は重くなく、野性味のある香りだけが鼻へ抜けていく。


缶ビールを一口。


思わず笑った。


「誠司さん。」


「このロースト、最高。」


東雲は薪を動かしながら笑う。


「そうか。」


神崎は缶を軽く掲げる。


「酒ってさ。」


「こういう肉に合わせるためにあるんじゃないかって思うよ。」


「都会の料理も美味いけど。」


「これは別物だ。」


東雲は嬉しそうに頷いた。


「猪も喜ぶだろう。」




その横で、真白は味噌汁をそっと口に運ぶ。


一口。


思わず目を見開いた。


「……え。」


もう一口。


確かめるように飲む。


舞茸の香りが、驚くほど深い。


市販のものとはまるで違う。


味噌の塩味よりも先に、山そのものの香りが広がる。


「美味しい……。」


思わず声が漏れる。


「天然の舞茸って、こんな味なんですか。」


東雲は笑う。


「初めてか。」


真白は素直に頷く。


「天然の舞茸、初めて食べました。」


「香りが全然違う……。」


東雲も味噌汁をすすった。


「ああ。」


「山の舞茸は気まぐれだからな。」


「だから見つけると嬉しい。」




しばらく、三人とも無言で箸を動かした。


風が木々を揺らす。


焚き火が静かに爆ぜる。


都会では聞こえない音だけが流れていた。


東雲は空を見上げる。


「うまいか。」


「よかった。」


「山の楽しみの一つさ。」


猪肉を一切れ口へ運びながら続ける。


「刺激は少ない。」


「便利でもない。」


「だけど。」


少しだけ笑う。


「本当に良いものは、案外こういう自然の中に残ってるもんだ。」


真白はその言葉を聞きながら、味噌汁の椀を見つめた。


研究所では、成分分析なら数秒で終わる。


アミノ酸も、香気成分も、栄養価も、すべて数値にできる。


それでも。


この「美味しい」という感覚は、その数値だけでは説明しきれない。


ふと、EVAの微笑みが脳裏をよぎる。


完璧だった。


美しかった。


礼儀正しかった。


なのに、どこか空白があった。


一方で、この味噌汁は不揃いだ。


舞茸の大きさも、味噌の濃さも、毎回少しずつ違うだろう。


それなのに、不思議と心が落ち着く。


真白は黙って椀を両手で包んだ。


東雲はその表情を見て、何も言わなかった。


まだ言葉にするには早い。


だが彼は知っていた。


人間は、ときに理屈ではなく「体験」からしか学べないことがある。


だから今夜は、議論よりも先に、この山の空気と食事を二人に味わわせたかったのだった。


夜はすっかり更けていた。


食器を片付け終え、三人は焚き火を囲む。


虫の声。


薪が爆ぜる音。


遠くで沢の流れる音が聞こえる。


誰も口を開かない。


その沈黙を破ったのは、真白だった。


「……私。」


炎を見つめたまま、小さく言う。


「今日は、EVAの起動試験へ行ってきました。」


神崎が顔を上げる。


東雲は何も言わない。


「Project EVA。」


「国家AI《ARGOS》の高度政策提言機能。」


「人類を、事故や病気や災害から守るためのプロジェクトです。」


真白は少し笑う。


「理念だけ聞けば、反対する人なんていません。」


「私もそうでした。」


「今でも、間違っているとは思っていません。」


薪が静かに崩れる。


「筐体は、本当に美しかった。」


「工場中の技術者が、自分たちの子どもを見るような目で見ていました。」


「私も……少し感動しました。」


「人類って、こんなものまで作れるんだって。」


神崎は静かに聞いている。


「起動も成功しました。」


「動作も完璧。」


「会話も自然。」


「笑顔も。」


「歩き方も。」


「すべて設計どおりでした。」


真白は一呼吸置く。


「でも。」


「違和感があったんです。」


神崎が初めて口を開く。


「どんな?」


真白は首を横に振る。


「……分からないんです。」


「だから困ってる。」


少し自嘲気味に笑う。


「研究者なのに。」


「説明できない違和感なんて、一番嫌いだったはずなのに。」


東雲が静かにコーヒーを口へ運ぶ。


真白は続けた。


「EVAは、人間を安心させることができました。」


「その場にいた全員が、笑顔になりました。」


「私も嬉しかった。」


「なのに。」


「その笑顔が……。」


言葉が止まる。


しばらく考えてから、ようやく口にした。


「完成されすぎていた。」


神崎は黙ったまま聞く。


「初めて目を開いたAIが。」


「初めて人間を見るAIが。」


「初めて言葉を話すAIが。」


「どうして、あんなに人間を安心させる振る舞いができるんでしょう。」


「もちろん、学習モデルです。」


「大量のデータを学習しています。」


「だから理屈は分かる。」


「でも……。」


真白は焚き火を見つめる。


「赤ちゃんって。」


「最初は泣くじゃないですか。」


「歩けないし。」


「言葉も知らない。」


「だから人は成長を見守る。」


「EVAには、それがなかった。」


東雲の目が細くなる。


真白は自分でも驚くような言葉を口にしていた。


「最初から、完成していた。」


「最初から、人間より人間らしかった。」


「そのことが……。」


「怖かったんです。」


神崎は缶ビールを置く。


「……なるほど。」


真白が顔を上げる。


「神崎さんも、そう思いますか?」


神崎は少し考えた。


「いや。」


「俺は別のことを考えた。」


「何ですか?」


神崎は炎を見つめたまま答える。


「そのEVAってやつ。」


「誰が育てるんだ?」


真白は言葉を失う。


「人間は、生まれてから周りに育てられる。」


「親に叱られて。」


「友達と喧嘩して。」


「失敗して。」


「だから人になる。」


神崎は焚き火へ薪を一本くべる。


「でも最初から完成してるなら。」


「EVAは。」


「誰にも育てられてない。」


東雲はそこで初めて口を開いた。


「……面白い。」


二人が同時に振り向く。


東雲は穏やかに笑っていた。


「現場屋は『誰が育てた』と聞く。」


「研究者は『どう作られた』と聞く。」


「同じものを見ているのに、見ている場所が違う。」


そして炎の向こうで、東雲の表情が少しだけ真剣になる。


「その違いこそが、これからお前たち二人に必要になる。」


「AIを作る者と、AIと共に生きる者。」


「その橋を架けられるかどうかで、この国の未来は決まるかもしれん。」


焚き火は小さくなっていた。


東雲が静かに薪を一本くべる。


炎がふっと息を吹き返した。


東雲は神崎へ目を向ける。


「今度は、お前さんだ。」


「真白は自分の話をした。」


「お前も聞かせてやれ。」


神崎は少し照れくさそうに頭を掻いた。


「俺の話なんて、面白くもないですよ。」


「いいから。」


東雲は笑う。


「飯代だと思え。」


神崎は缶ビールを一口飲み、火を見つめた。


「……予備保全って言葉。」


「便利なんですよ。」


「設備が壊れる前に交換する。」


「それだけです。」


「でも。」


「現場じゃ、それが一番難しい。」


真白は黙って聞く。


「壊れたら誰でも分かる。」


「焦げれば。」


「煙が出れば。」


「止まれば。」


「交換すればいい。」


「でも。」


「壊れてない設備を交換する。」


「これには理由が要る。」


「高いですからね。」


「今回の変圧器も、一億近い。」


「まだ新品と言っていい年数だった。」


神崎は苦笑した。


「そりゃ上から見れば。」


『勘で一億使え。』


そんな話になりますよ。」


真白も苦く笑う。


「報告書を見た時……正直、そう思いました。」


「でしょうね。」


神崎は責める様子もなく頷いた。


「俺だって、立場が逆なら同じことを言います。」


少し間が空く。


「でも。」


神崎は炎を見つめたまま続けた。


「設備って。」


「毎日見てると。」


「顔色があるんですよ。」


真白が眉を寄せる。


「顔色……。」


「もちろん、本当に顔があるわけじゃない。」


「でも。」


「音。」


「匂い。」


「熱。」


「振動。」


「その日の湿気。」


「現場の空気。」


「全部ひっくるめて。」


「『今日は元気だな。』」


「『今日は疲れてるな。』」


そんな日がある。」


「それは測定できるものなんですか?」


神崎は首を横へ振る。


「たぶん。」


「できる。」


「全部センサーを付ければ。」


「でも。」


「俺は測ってるわけじゃない。」


「毎日見てるだけです。」


焚き火が静かに爆ぜる。


神崎は缶を置いた。


「以前東雲さんにも話しましたけど。」


「俺、昔。」


「職場の同僚を亡くしてるんです。」


真白の表情が変わる。


「前の日まで普通だった。」


「いや。」


「普通じゃなかった。」


「今思えば。」


「少し顔色が悪かった。」


「少し息が荒かった。」


「少し元気がなかった。」


「でも。」


「『疲れてるだけだろ。』」


そう思った。」


神崎は自分の手を見る。


「翌朝。」


「部署に来なかった。」


「心筋梗塞でした。」


沈黙。


山には風の音だけが流れる。


「助けられたかもしれない。」


「病院へ連れて行けば。」


「仕事なんて休ませれば。」


「今でも、そう思います。」


神崎はゆっくり息を吐いた。


「だから。」


「設備でも。」


「『大丈夫だろう。』」


が言えなくなった。」


「苦しそうなら。」


「一回止めよう。」


「一回見よう。」


「一回休ませよう。」


「それで何もなければ。」


「笑って済ませればいい。」


真白は、いつの間にか自分の湯呑みを強く握っていた。


神崎は小さく笑う。


「だから俺の報告書は、あんな一行なんです。」


『予備保全の必要を認める。根拠は現場経験による違和感。』


「本当は。」


「もっと長い。」


「『あの時、助けられなかった同僚を、もう二度と繰り返したくない。』」


「そう書きたかった。」


炎が静かに揺れる。


真白は何も言えなかった。


あの報告書には、データが書かれていなかった。


代わりに。


一人の人間が、失敗と後悔を抱えながら積み重ねてきた十数年が、一行に圧縮されていた。


東雲は二人を見つめ、静かに頷く。


「お嬢。」


「お前は、ようやく報告書の『根拠』を読めたな。」


真白は焚き火を見つめたまま、小さく答えた。


「……はい。」


「でも。」


「それを、AIにどう教えればいいのかは……まだ、分かりません。」


神崎は焚き火へ視線を落としたまま、小さく笑った。


「……できないだろう。」


真白が顔を上げる。


「何がですか。」


「EVAに、それを教えること。」


神崎は首を横に振る。


「どこまでいっても。」


「AIに魂はない。」


静かな夜だった。


その一言だけが、山の空気に溶けていく。


真白はすぐには反論しなかった。


神崎は続ける。


「今の言葉。」


「研究者からしたら笑うかもしれない。」


「『魂なんて非科学的です』って。」


真白は少し困ったように笑う。


「……正直に言えば。」


「昔の私なら、そう言っていました。」


「だろうな。」


神崎は頷く。


「でもさ。」


「魂はあるよ。」


「見えないだけだ。」


真白は黙って聞く。


「見えないからって、ないわけじゃない。」


神崎は夜空を見上げる。


「空気も見えない。」


「電気も見えない。」


「磁場も。」


「重力も。」


「昔はみんな、見えなかった。」


「でも、確かにある。」


「あるって分かってる。」


焚き火の炎が、神崎の横顔を照らす。


「魂は。」


「まだ定義できない。」


「測れない。」


「数式にもできない。」


「でも。」


「あることだけは、みんな知ってる。」


真白は静かに問い返す。


「どうして、そう言い切れるんですか。」


神崎は少し考え、それから笑った。


「だって。」


「人間は、人が死ぬと。」


「『壊れた』とは言わないだろ。」


真白は息を止める。


「身体はそこにある。」


「心臓も。」


「脳も。」


「昨日までと同じ形で。」


「なのに。」


「『もう、いない。』って言う。」


神崎の声は穏やかだった。


「何がいなくなったんだ。」


「それを昔の人は魂って呼んだ。」


「俺は、その呼び方が嫌いじゃない。」


真白は返す言葉が見つからない。


神崎は焚き火を見つめながら続ける。


「AIは人間が作った。」


「だから。」


「魂は入れてやれない。」


「人間に作れるのは、身体と頭までだ。」


「魂を扱えるのは。」


少し笑って肩をすくめる。


「神様だけだ。」


「人間は神様じゃない。」


「なるべきでもない。」


沈黙が訪れた。


その時だった。


東雲が静かに口を開く。


「神崎。」


「お前さん、その話を研究所でやったら、三十分で追い返されるぞ。」


神崎は吹き出した。


「でしょうね。」


真白も思わず笑う。


「ええ。」


「査読に出したら、一行目で却下です。」


三人の笑い声が、山に溶ける。


東雲はコーヒーをすすりながら言った。


「だが。」


「私は、お前たち二人とも正しいと思う。」


神崎と真白が同時に東雲を見る。


「真白は、『再現できるもの』を探している。」


「神崎は、『まだ再現できないもの』を見ている。」


東雲は焚き火の炎を見つめた。


「科学の仕事は、神秘を否定することじゃない。」


「神秘を、一つずつ理解できるものへ変えていくことだ。」


真白は、その言葉を胸の中で何度も繰り返した。


“魂”という言葉には、まだ納得できない。


けれど神崎が伝えたかったものは、少しだけ分かった気がした。


それは宗教ではない。


現場で人を失い、設備と向き合い、後悔を抱えながら働いてきた人間が、どうしても名前を付けずにはいられなかった”何か”なのだと。


真白はしばらく黙っていた。


焚き火の炎を見つめたまま、小さく息を吸う。


「……私は。」


ゆっくりと顔を上げる。


「きっと、できるんじゃないかって思っています。」


神崎は黙って聞く。


否定はしない。


真白は言葉を続けた。


「『天国を社会に実装する。』」


「その言葉を初めて聞いた時。」


少しだけ笑う。


「びっくりしました。」


「でも同時に。」


「胸が、ときめいたんです。」


夜風が吹く。


焚き火の火の粉が、夜空へ舞い上がる。


「私たちは。」


「もう、天国すら社会に実装できるところまで来たんだって。」


神崎は眉を少し動かした。


真白は、自分でも少し恥ずかしそうに笑う。


「もちろん理想です。」


「そんな簡単な話じゃない。」


「でも。」


「もう手が届くところまで来ています。」


「《ARGOS》の性能は本物です。」


「社会は確実に良くなっている。」


「事故は減りました。」


「犯罪も。」


「医療も。」


「物流も。」


「政策も。」


「全部、少しずつ。」


「確実に。」


真白の声には、研究者として積み重ねてきた確信があった。


「技術の進歩は。」


「ついに人間を。」


「頭脳労働のくびきからも解放してくれる。」


「私は、本気でそう思っています。」


神崎は何も言わない。


真白は神崎をまっすぐ見る。


「神様に、人が成り替わる。」


「そこまで思い上がっているわけじゃありません。」


「そんなことはできない。」


「でも。」


「数値化できれば。」


「論理へ落とし込めれば。」


「今は《ARGOS》自身の支援も受けられます。」


「これまで人間だけでは解析できなかったものも。」


「AIと一緒なら、理解できるようになってきました。」


彼女の瞳には迷いがなかった。


「人の感情。」


「幸福。」


「信頼。」


「後悔。」


「違和感。」


「今はまだ定義できない。」


「でも。」


「できないから諦める理由にはならない。」


「昔は。」


「空も飛べませんでした。」


「病気も治せませんでした。」


「月にも行けませんでした。」


「全部。」


「『人間には無理だ。』と言われたものです。」


真白は静かに笑う。


「だから私は。」


「魂という言葉を否定したいんじゃありません。」


「もし、それが本当にあるなら。」


「理解したいんです。」


「理解して。」


「救える命が一つでも増えるなら。」


「私は、その研究をしたい。」


彼女は膝の上で手を握り締めた。


「それが。」


「私の仕事なんです。」


山は静まり返っていた。


神崎は、しばらく何も言わなかった。


真白の言葉には傲慢さはなかった。


あったのは、研究者としての純粋な願いだった。


「分からないものを、分かるようにしたい。」


「救えなかったものを、救えるようにしたい。」


その思いは、神崎が現場で抱いてきた願いと、本質ではどこか似ていた。


東雲はそんな二人を見渡し、静かに笑った。


「やっと話になってきたな。」


二人が同時に東雲を見る。


「神崎は『人間にはできないことがある』と言う。」


「真白は『今はできなくても、いつかできるようにしたい』と言う。」


「どちらも、技術者らしい答えだ。」


東雲は薪を一本くべた。


炎が大きく揺れる。


「だが、お前たち二人とも、一つだけ同じ思い違いをしている。」


二人は息をのむ。


東雲は炎を見つめたまま、静かに言った。


「問題は、AIに魂が宿るかどうかじゃない。」


一拍置く。


「魂がないものを、人間が魂のある存在だと信じ始めたとき、何が起きるかだ。」


その一言に、焚き火の音だけが夜の山へ響いていた。

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