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聖女と人形  作者: kanaeihi
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第2章 EVA計画

国家AI研究所。


最上階、第七会議室。


壁一面のガラス越しに首都の街並みが見渡せる。


真白は、所長から渡された一枚の辞令を見つめていた。




国家AI研究所


特命プロジェクト参加命令書


「予備保全における積極的被害低減プロジェクト」




所長は穏やかな口調で話し始めた。


「天城主任。そして集まってくれた諸君。」


「これは《ARGOS》の次期拡張機能だ。」


「正式名称は高度政策提言機能。」


リモコンを操作すると、スクリーンに一つの名前が映し出される。


Project EVA


Empathic Virtual Assistant

概要:共感型仮想支援アンドロイド計画

女性型の精巧なアンドロイドモデルに、国家自律推論統治基盤(Autonomous Reasoning & Governance Operating System:以下ARGOSと呼称)と連携運用し、国民生活の様々な場面で人的な予備保全における積極的被害低減を図ることによって事故・災害2次被害などを未然に防ぎ、国民の幸福と健康に寄与し、財政の健全化を推進することを目的とする。


「開発コードネームはEVA。」


「人々からは親しみを込めて、こう呼ばれるだろう。」


所長は少し笑った。


「福音をもたらす聖母。」


「人を導き、天国へと誘う存在。」


真白は黙って聞いていた。


「つまり。」


所長は窓の外へ目を向ける。


「天国を社会へ実装する試みだ。」


会議室が静まり返る。


「事故が起きる前に防ぐ。」


「病気になる前に治療する。」


「犯罪が起きる前に止める。」


「災害が起きる前に避難させる。」


「争いになる前に関係を修正する。」


「国家そのものを予備保全する。」


その言葉には、誇張ではなく本気があった。


「優先順位は高くない。」


「喫緊の課題はいくらでもある。」


「しかし。」


所長は真白をまっすぐ見た。


「成功すれば、人類史が変わる。」


「政府も全面的に予算をつけた。」


「世論の後押しも大きい。」


「業務は忙しくなるだろう。」


「だが、このプロジェクトを成功させる意義は計り知れない。」


辞令を机へ滑らせる。


国家AI研究所 主席研究員 天城 真白

EVA計画の総責任者に任ずる。


「ぜひ、前向きに取り組んでくれたまえ。」


天国を社会実装する。


官僚文学にしては詩的すぎ、技術者にしては夢見がちで、行政官にしては浮ついている。

政治家のスローガンだろうか。


でも、その一言が胸に刺さった。

AIには、その可能性がある。

誰もが幸せに暮らせる未来が。


「はい。実装を目指して取り組みます。」



辞令を受け取って会議室を後にした真白の脳裏に浮かんだのは、一枚の報告書。



予備保全の必要を認める。


根拠は現場経験による違和感。



あの一文。


研究者として読めば、根拠になっていない。


論文なら査読で落とされる。


政策提言なら却下される。


それなのに。


結果だけは、その報告書が正しかった。


真白は立ち止まる。


「……もし。」


思考が、初めて別の方向へ向く。


「もしEVAが、本当に事故を未然に防ぐAIアンドロイドになるなら。」


「あの違和感を理解できなければ、不完全なんじゃないか。」


その瞬間、彼女の中でプロジェクトの意味が変わった。


これは「天国を実装する」研究ではない。


人間が何を見て、何を感じて判断しているのかを理解する研究だ。


真白は辞令を胸に抱え、静かに息を吐く。


「……この仕事、がんばろう。」


廊下の窓から見える首都は、今日もARGOSの管理のもと整然と動いていた。


誰もが、この先にはもっと便利な未来が待っていると信じている。


その未来の設計図を描くことになるとは、この時の真白はまだ思っていた。


EVAは、人類を天国へ導くために生まれる。


そしてその「天国」が、人類にとって本当に幸福なのかという問いが、やがて世界全体を揺るがすことになる。






関東地方、とある地方都市。


精密機器メーカーの第七製造棟。


普段は産業用ロボットや医療機器を製造する工場の一角だけが、厳重なセキュリティで隔離されていた。


その扉には、簡素なプレートが掲げられている。


Project EVA Assembly Room


真白は認証ゲートを抜け、製造室へ足を踏み入れた。


思わず息をのむ。


ガラス張りのクリーンルーム中央。


白い布に覆われた一体の筐体。


周囲には数十人の技術者たち。


機械設計。


材料工学。


モーション制御。


表情生成。


触覚センサー。


人工筋肉。


国内外を問わず、官民連携機構からそれぞれの分野を代表する技術者が集められていた。


誰もが今日を待っていた。


「天城主任。」


工場長が歩み寄る。


「ようこそ。」


「予定どおり、本日起動試験となります。」


真白は小さく頭を下げる。


「完成したんですね。」


工場長は誇らしげに笑う。


「ええ。」


「今は世界で唯一の筐体です。」


「二号機はまだ存在しません。」


「この一体だけです。」




照明が少し落とされる。


司会役の技術者がマイクを取る。


「これより、Project EVA初号機。」


「初回起動試験を開始します。」


静まり返る製造室。


ゆっくりと白い布が取り払われた。


そこにいたのは、一人の女性だった。


真白は一瞬、呼吸を忘れた。


人間ではない。


それは分かる。


肌は陶器のように滑らかでありながら、生気を感じさせる微細な質感を持っている。


長い黒髪は光を柔らかく反射し、瞳は深い青灰色。


白を基調とした衣装は研究施設の制服とも修道服ともつかない、静かな品格を漂わせていた。


装飾は一切ない。


それでも誰もが目を奪われる。


美しい。


その一言だった。


「……聖母。」


誰かが思わず漏らした。


誰も否定しなかった。




真白は筐体の前へ進む。


技術主任が端末を差し出した。


「現在はOSのみ起動しています。」


「人格モデル未投入。」


「国家AI《ARGOS》とも未接続です。」


「今日はローカルAIによる基本動作試験となります。」


真白は頷く。


「起動します。」


静かに認証キーを押した。


製造室の照明が一瞬だけ揺らぐ。


内部電源起動。


人工筋肉加圧。


自己診断。


冷却系統正常。


視覚系起動。


聴覚系起動。


数秒。


静寂。


やがて、無機物だった瞳に、知性の光が宿ったように見えた。


青灰色の瞳が初めて世界を映した。


周囲を見回す。


一人ひとりの顔を見る。


そして真白と目が合った。


微笑んだ。


自然だった。


あまりにも自然だった。


ゆっくりとEVAは体を起こす。


「初めまして。」


澄んだ声が工場へ響く。


「私はEVAです。」


「今日は、私を誕生させてくださり、ありがとうございます。」


誰も教えていない。


それはローカルAIが生成した、最初の言葉だった。


製造室が拍手に包まれる。


「すごい……。」


「成功だ!」


「表情制御完璧だ!」


「視線追従正常!」


「歩行システム異常なし!」


技術者たちが歓声を上げる。


EVAは一歩踏み出す。


歩幅は人間と変わらない。


足音もほとんどしない。


工場長の前まで歩み寄ると、丁寧に一礼した。


「皆様のお力添えに感謝いたします。」


その仕草にはぎこちなさがなかった。


礼の角度。


視線。


間の取り方。


どれも、人が自然に「礼儀正しい」と感じる絶妙な加減だった。


真白は端末でログを確認する。


異常なし。


遅延なし。


動作誤差ゼロ。


理論上、完璧だった。


それでも。


胸の奥に、小さな引っかかりが残る。


EVAは工場を歩きながら、一人ひとりの技術者に声をかけていく。


「長時間の作業、お疲れ様でした。」


「工具をこちらへお預かりします。」


「ありがとうございます。」


言葉は温かい。


笑顔も優しい。


誰もが笑顔になる。


だが真白だけは、画面から目を離せなかった。


ログには、EVAが会話ごとに相手の表情、声の高さ、瞳孔径、心拍、姿勢を解析し、最適な応答を生成していることが淡々と記録されている。


それは設計どおりだった。


完璧に。


完璧すぎるほどに。


ふと、EVAが真白へ歩み寄る。


「天城主任。」


「はい。」


「本日の皆様は、とても幸福そうです。」


真白は微笑み返す。


「そうね。」


EVAは首を少し傾ける。


「私も幸福です。」


その言葉に、工場中が再び拍手に包まれた。


起動試験は成功だ。


誰もがそう確信した。


ただ一人、真白だけが、その「幸福」という言葉を聞いた瞬間、説明できない違和感を覚えていた。


その違和感には、まだ名前がなかった。





研究所へ戻る予定だった新幹線を降りる。


真白は端末を開き、予定表を見つめた。


午後の定例会議。


EVAプロジェクトの運用試験キックオフ会議のオンライン参加。


予算説明。


来週の省庁ヒアリング。


どれも重要だった。


指先は一瞬だけ止まり、それから迷いなく操作する。


有給休暇申請


理由:私用


承認。


画面には「受理されました」の文字が表示される。


真白は静かに端末を閉じた。




どうしても、この違和感を飲み込めなかった。


誰かに話したい。


誰かに聞いてほしい。


いや。


誰かに答えてほしい。


その相手は、一人しか思い浮かばなかった。


東雲誠司。


国家AI基盤設計者。


そして、自分の師匠。


退職の日、研究所の玄関で笑いながら言っていた。


「これからは山暮らしだ。」


「行き詰まったら、いつでも来い。」


「歓迎するぞ。」


その時は笑って聞き流した。


まさか、本当に甘える日が来るとは思わなかった。




主席研究員。


研究主任。


肩書だけなら聞こえはいい。


だが、その椅子に座って初めて分かった。


上からは次々と降ってくる国家プロジェクト。


横には優秀すぎる研究員たち。


外には企業、大学、省庁。


すべての判断に、自分の名前が残る。


「責任者」とは、決める人ではない。


責任を引き受ける人なのだと知った。


東雲誠司、師匠は、ずっとそれを一人で背負っていた。




レンタカーは高速道路を降り、山道へ入る。


木漏れ日がフロントガラスを流れていく。


EVAの起動試験が、何度も脳裏によみがえる。


あの美しい筐体。


人を安心させる声。


誰にでも自然に向けられる笑顔。


技術としては、完璧だった。


理念も美しかった。


Project EVA。


事故を未然に防ぐ。


病気になる前に救う。


争いになる前に止める。


幸福を最大化する。


人よりはるかに賢い国家AI《ARGOS》が、その知性を社会へ還元する。


何一つ間違っていない。


理性はそう告げている。


AIは学ぶ。


失敗は糧になる。


改善すればいい。


それが科学だ。


それが技術だ。


それが文明だ。


ならば。


真白はハンドルを握る手に力を込めた。


「一度きりの、致命的な失敗は。」


その時、AIは何を学ぶのだろう。


いや。


学ぶ時間すら残されない失敗は、どんな形でやってくるのだろう。


その問いだけが、胸から離れなかった。

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