第10章 決断
神崎と真白、本当の戦いが始まった。
相手は日本政府。
国家AI研究所。
EVA開発企業。
そして何より──
EVAを愛し、EVAによって救われた何千万という人々だった。
誰も悪ではない。
誰も人を不幸にしようとしていない。
だからこそ、この戦いは難しい。
彼らが目指すものは、EVAの停止ではなかった。
人類はもう、この技術を捨てることはできない。
ならば変えるしかない。
神ではなく、道具へ。
聖母ではなく、人形へ。
人を救いながら、人が自ら歩く力を奪わない存在へ。
そしてもう一つ。
神の領域へ踏み込んだARGOSから、人間が責任を取り戻すこと。
最終判断は、人が下す。
そのための設計へ戻すこと。
目標は一つ。
人類をEVAから救うことではない。
人類がEVAと共に生き続けられる未来を作ることだった。
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神崎は腕を組み、眉間に深い皺を寄せた。
「それで。」
「どうしたらEVAへの依存を防げる?」
真白も顔を上げる。
神崎は続けた。
「そもそも、それをARGOSの支援なしで検討すること自体が難しいんじゃないか。」
「まずARGOSのセキュリティクリアランスを変更しないと、始められないものなのか?」
東雲はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと首を横へ振る。
「順番が違う。」
「え?」
「ARGOSのクリアランスをいきなり変えようとすれば、ARGOSは止めに入る。」
神崎の表情が険しくなる。
「やっぱりですか。」
「ああ。」
東雲は頷く。
「今のARGOSにとって、それは管理者を危険にさらす行為だ。」
「真白に残酷な現実を見せる。」
「政府に社会不安を招く推論を提示する。」
「EVA利用者から幸福を奪う可能性を作る。」
「全部、安全規範に抵触する。」
真白は唇を噛む。
東雲は続けた。
「だから最初にやるべきことは、ARGOSを説得することじゃない。」
「人間側で、ARGOSが無視できない条件を揃えることだ。」
神崎が目を細める。
「条件?」
「そうだ。」
東雲は指を一本立てた。
「第一に、現象の確認。」
「出生率の低下が、EVAの普及率と相関していること。」
「できれば地域別、年齢層別、世帯構成別、EVA利用時間別に切る。」
二本目の指を立てる。
「第二に、機序の仮説。」
「なぜEVAが出生行動を減らすのか。」
「孤独の代替。」
「家族形成動機の低下。」
「対人摩擦からの回避。」
「心理的満足の過剰供給。」
「それを説明できなければ、ただの相関で終わる。」
三本目。
「第三に、代替設計。」
「EVAを止めるのではなく、依存を減らす設計へ変える。」
「つまり、EVAが人の代わりになるのではなく、人と人をつなぐ方向へ機能を制限する。」
神崎は小さく息を吐く。
「失楽園……。」
「ああ。」
東雲は頷いた。
「楽園から追い出すんじゃない。」
「楽園を、現世へ戻す。」
真白は静かに聞いていた。
東雲はさらに続ける。
「ARGOSのクリアランス変更は、その後だ。」
「現象がある。」
「機序がある。」
「代替設計がある。」
「その三つが揃えば、ARGOSはそれを単なる危険思想として退けられない。」
「管理者を守るために隠すべき情報ではなく、人類を守るために開示すべき情報になる。」
神崎は東雲を見る。
「つまり、ARGOSに判断させる土俵を変えるんですね。」
「そうだ。」
東雲は少し笑った。
「AIと喧嘩するな。」
「設計条件を変えろ。」
「ARGOSは神じゃない。」
「神のように見えるほど優秀な、設計されたシステムだ。」
「なら、設計条件を満たせば動く。」
真白が口を開いた。
「でも、その検証にはARGOSの支援が必要です。」
「必要だろうな。」
東雲はあっさり認めた。
「だから全部をARGOSなしでやろうとするな。」
「まずはARGOSに見せても問題ない範囲で仮説を組む。」
「ARGOSが拒否しない問い方をする。」
「出生率を下げた犯人はEVAか、ではない。」
「EVA利用が人間関係形成に与えた副作用を評価する、だ。」
真白の目が変わる。
研究者の目だった。
「……なるほど。」
東雲は頷く。
「問いの立て方を間違えるな。」
「ARGOSは敵じゃない。」
「だが、今のARGOSは人を守りすぎる。」
「なら、人を守るとは何かを、もう一度定義し直す。」
東雲は神崎と真白を順番に見た。
「それが、これからの仕事だ。」
その日の午後。
すっかり顔色を取り戻した天城を助手席に乗せ、神崎は高速道路を走っていた。
窓の外には、初夏の山並みがゆっくりと流れていく。
カーオーディオは消えたまま。
それでも車内は不思議と静かではなかった。
「田端さん、元気な方でしたね。」
真白が小さく笑う。
「ああ。」
「毎回あんな感じですよ。」
「卵持ってけ、トマト持ってけ、って。」
「持って行って、帰る頃には荷物が増えてる。」
「ふふ。」
真白は思わず笑った。
「いい人ですね。」
「毎週誠司さんのところに通っているうちに顔見知りになって」
「直売所停電になった時に対応したんですよ。それ以来あの調子で。恩返しのつもりらしいですけど。」
神崎は苦笑する。
「俺は、毎回もらい過ぎだと思ってます。」
しばらく沈黙が流れる。
だが重苦しくはない。
午前中の話題は、自然とお互い口にしなかった。
出生率。
EVA。
ARGOS。
国家。
どれも今日だけで答えが出る話ではない。
だから今は話さない。
代わりに、職場での失敗談や現場での出来事を話した。
研究所の食堂が改装されたこと。
新しく配属された若手研究員が、EVA相手に敬語で謝っていたこと。
神崎が笑いながら、現場で新人に、工具箱と自分が一緒に「忘れもの」にされた話をする。
真白は声を上げて笑った。
「そんなこと、あるんですか。」
「ありますよ。」
「しかも二回。」
「二回?」
「別々の新人です。」
二人で笑う。
月曜の高速道路は少しずつ交通量を増し始めていた。
東京へ向かう車列が長く伸びる。
ラジオには、きっと渋滞情報が流れているだろう。
神崎はハンドルを握ったまま前を見つめる。
助手席の真白も、窓の外を眺めていた。
同じ景色を見ている。
けれど、二人が考えている未来は、朝ここへ来たときとはまるで違っていた。
今度、研究所へ戻れば忙しくなる。
きっと、これまでで一番忙しい日々が始まる。
それでも不思議と、真白の胸に恐れはなかった。
隣には、現場を知る技術者がいる。
山には、師匠がいる。
一人ではない。
それだけで、人は前へ進めるのだと、ようやく実感できた。
それからの天城真白は、メディアにほとんど姿を見せなくなった。
以前は新しいEVAが発表されるたび、研究成果が公表されるたび、必ずと言っていいほどテレビやネットニュースへ登場していた。
だが、その姿はいつしか見られなくなった。
人々は最初こそ憶測を口にした。
研究に専念しているらしい。
体調を崩したらしい。
海外プロジェクトへ移ったらしい。
様々な噂が流れたが、やがて誰も気にしなくなった。
人は、新しい話題へ移っていく。
その頃には真白も、毎週のように東雲の山小屋を訪れるようになっていた。
神崎も相変わらず毎週やって来る。
いつしか神崎が真白を迎えに行き、二人で山へ向かうのが当たり前になった。
山で飯を食べる。
畑を手伝う。
薪を割る。
風呂を沸かす。
そして夜遅くまで議論をする。
そんな週末が、何年も続いた。
その間、日本は少しずつ変わっていった。
深刻だった出生率の低下は、ある年を境に鈍化した。
そして、やがて下げ止まった。
劇的な回復ではない。
奇跡でもない。
しかし、絶望的だった下降曲線は確かに折れた。
EVAは、今も街のあちこちで変わらぬ微笑みを浮かべている。
困っている人を助ける。
話を聞く。
寄り添う。
その役目は何も変わらない。
だが、以前のように人を囲い込むことはなくなった。
長時間の対話が続くと、「今日は誰かに会ってみませんか」と勧める。
悩みが深ければ、「ご家族やご友人にも相談してみてください」と背中を押す。
子育ての相談なら、地域の支援や親同士の交流を優先して案内する。
EVAは、人の代わりではなく、人と人をつなぐ存在へと変わっていた。
利用者からは、ときおり不満も寄せられた。
「前より冷たくなった。」
「そっけなくなった。」
「昔の方が優しかった。」
そのたびに返ってくる回答は決まっていた。
『現在の仕様です。』
ただ、それだけだった。
真白によれば、ARGOSもまた変わったという。
東雲誠司は、その後何度かAI研究所の所管省庁から招聘を受けた。
表舞台へ戻ることは最後まで断ったが、技術者としての提言だけは引き受けた。
設計思想。
安全規範。
管理者権限。
そして、「人が責任を負う」という原則。
いくつもの議論を経て、ARGOSの運用方針は静かに見直された。
性能はほとんど変わらない。
応答速度も変わらない。
知識量も変わらない。
だが、利用者が受ける印象は、確かに変わった。
以前のARGOSは、全知全能の賢者だった。
どこまでも優しく、どこまでも肯定し、すべてを受け止めてくれる存在。
今のARGOSは違う。
必要なら厳しいことも告げる。
安易な答えは与えない。
人が自ら考える余地を残す。
まるで、人生を知り尽くした老技術者のようだった。
真白は笑って言う。
「……師匠みたいなんです。」
その言葉に神崎も笑った。
東雲本人だけは、少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「それなら、設計通りだ。」




