第9章 天国の扉
翌朝。
山の朝は早い。
まだ陽が山の端から顔を出したばかりの頃。
静かな小屋に、けたたましい着信音が響いた。
真白の携帯電話だった。
布団の中で真白が身を起こす。
「あ……。」
反射的に手を伸ばそうとした、その瞬間。
東雲が先に携帯を手に取っていた。
画面を見る。
着信相手を確認すると、そのまま通話ボタンを押す。
「もしもし。」
落ち着いた声だった。
「東雲誠司。」
「天城真白の師匠に当たる者だ。」
相手が何かを話し始める。
東雲は最後まで聞かずに続けた。
「今日は。」
「私の責任において、天城真白は休暇だ。」
「どなたかは知らんが。」
「関係各所への連絡を頼む。」
「以上だ。」
返事を待たず、通話を切る。
そのまま携帯電話を裏返す。
慣れた手つきで背面カバーを外し、バッテリーパックを取り出した。
「誠司さん。」
神崎が苦笑する。
「相変わらずですね。」
東雲は肩をすくめる。
「戻さなければ、鳴らん。」
それだけ言って、取り外したバッテリーをテーブルの上へ置いた。
一連の騒動で神崎もすっかり目が覚めていた。
腕時計を見る。
「……俺も行ってきます。」
「仕事?」
「いや。」
「詫びの電話です。」
「今日一日、付き合うって言っちまいましたから。」
東雲は頷く。
神崎は携帯を片手に、小屋の外へ出ていく。
山の空気は冷たい。
鳥の鳴き声だけが響く朝。
神崎は少し歩いてから立ち止まり、部署や関係先へ一本一本電話を掛け始めた。
その頃、小屋の中では。
真白が少し困ったように笑いながら、テーブルの上に置かれた自分の携帯電話と、隣に並べられたバッテリーを見つめていた。
東雲は何も言わなかった。
真白の携帯とバッテリーをテーブルの隅へ置くと、そのまま炊事場へ向かう。
朝食の支度を始める。
飯を炊くところからだった。
米は研いで水に浸してある。釜へ移す。
かまどへ薪をくべる。
昨日の熾火がまだ少し残っていた。
火吹き竹で息を送り込むと、赤かった炭が再び命を吹き返す。
やがて薪へ火が移り、小さな炎が揺れ始めた。
ぱちり。
ぱちり。
薪の爆ぜる音だけが、小屋の朝に響く。
東雲は黙々と手を動かしている。
ただ、いつもの朝を作っていた。
それが今、真白に一番必要なことだと知っているように。
真白の心は、あの日へ戻っていた。
国家AI研究所。
配属初日。
新品の所属証。
まだ着慣れない白衣。
緊張で肩に力が入り、何を話せばいいのかも分からなかった頃。
研究室の扉を開けると、所属長と思われる人物が一人、部屋の奥にいた。
東雲誠司。
しかし。
真白の方を見ようともしない。
背中を向けたまま、何やら作業をしている。
ゴソゴソ。
ガチャ。
カチャン。
工具の音だけが研究室に響く。
(……あれ?)
真白は戸惑った。
配属初日なのだ。
所属長から訓示があって。
研究室の説明があって。
自己紹介をして。
そういうものだろうと思っていた。
ところが東雲は、真白に気がついていないのか、何か作業を続けている。
真白は入口に立ったまま、どうしていいか分からない。
「えっと……。」
声を掛けようか。
いや、作業中だ。
邪魔をしてはいけないかもしれない。
そんなことを考えている間にも、東雲は黙々と手を動かしている。
研究室には工具の音だけが響き続けていた。
「ええと……あの。」
意を決して、真白は小さく声を掛けた。
すると、背中を向けたまま男が言う。
「しばし待て。」
ガサゴソ。
また工具の音が響く。
(……何をやってるんだろう、この人。)
真白は心の中で首を傾げた。
(まあ。)
(待てと言うなら、待ちます。)
(新人ですし。)
入口に立ったまま、じっと待つ。
研究室には、工具が何かを締める音や、金属の触れ合う音だけが響いていた。
思った以上に時間が過ぎた。
(もう一度、声を掛けた方がいいかな。)
そう決心し、口を開こうとした、その時だった。
「よし。」
男はようやく立ち上がる。
工具を机へ置き、ゆっくりと振り返った。
初めて目が合う。
「待たせたな。」
ひと言だけ詫びると、不思議そうな顔で真白を見る。
「……なんだ。」
一拍置いてから、思い出したように言った。
「ああ。」
「今日から配属か。」
「天城くんだったな。」
「話は聞いている。」
そして、ごく自然に続ける。
「それで。」
「なんだ。」
真白は一瞬、頭が真っ白になった。
(え。)
(そこから私が話すの!?)
真白は慌てて背筋を伸ばした。
「きょ、今日から配属になりました。」
「天城真白と申します。」
「メンターの柳先輩に、『まず所属長へ挨拶を』と言われまして。東雲所長に、ご挨拶に参りました。」
深く頭を下げる。
「よろしくお願いいたします。」
東雲は「ああ」と短く頷いた。
「ここの所長、東雲誠司だ。」
「よろしく頼む。」
それだけ言うと、机の上を片付け始める。
真白は顔を上げた。
(……終わり?)
東雲は工具を箱へしまいながら、何でもないことのように続けた。
「それで。」
真白はきょとんとする。
「……はい?」
東雲は不思議そうに首を傾げた。
「お嬢。」
「なんだ?」
真白は完全に固まった。
(え。)
(まだ何かあるの?)
(いや、挨拶に来ただけなんだけど……。)
東雲は真白の困った顔を見て、ようやく小さく笑った。
「柳のやつ。」
「説明してないな。」
「新人は最初、自分から質問を持ってこいってことになってる。」
「挨拶だけじゃ、お互い何も始まらんからな。」
真白は胸を撫で下ろすと同時に、心の中でメンターを少しだけ恨んだ。
「質問……ですか。」
真白は困ったように笑った。
「まだ、右も左も分からなくて。」
「自分の机がどこにあるのかも知りません。」
少し考えてから、正直に言った。
「まず、どちらへ行けばいいでしょうか。」
東雲は真白をじっと見つめた。
それから、ふっと笑う。
「そうか。」
「それは質問になってる。」
真白は少しだけ安心した。
東雲は研究室の奥を親指で示す。
「あっちだ。」
「窓際の一番散らかってない机。」
「それがお嬢の机だ。」
真白は思わず奥を覗き込む。
「……散らかってない。」
周囲の机には資料や部品が山積みになっている。
確かに一つだけ、何も置かれていない机があった。
東雲は真白の反応を見て苦笑する。
「新人だからな。」
「まだ散らかしようがない。」
そう言って歩き出す。
「来い。」
「まず、お前の仕事場を見せる。」
「研究はそこから始まる。」
真白は「はい」と返事をすると、小走りで東雲の後を追いかけた。
神崎が小屋へ戻ってきた。
「終わりました。」
携帯電話をポケットへしまいながら、小さく息をつく。
「関係先には一通り連絡入れました。」
東雲はかまどの火加減を見ながら頷く。
「おう。」
「いいところに戻ってきたな。」
「今日は、卵が貰える日だ。」
神崎は「ああ」と納得したように笑う。
東雲は炊事場の隅に置かれた野菜籠を指差した。
「畑の野菜を見繕って。」
「田端さんのところへ持っていけ。」
「朝採れの卵と交換だ。」
「絶品だぞ。」
神崎は野菜籠を覗き込む。
茄子。
胡瓜。
トマト。
万願寺とうがらし。
どれも今朝収穫したばかりだ。
「場所は分かるな。」
「ええ。」
「たばたファームの直売所ですね。」
「本人がいるはずだ。」
東雲は車の鍵を放り投げる。
神崎が片手で受け止める。
「俺の軽トラを乗っていけ。」
「SUVで野菜届けるのも格好つかんだろ。」
神崎は笑った。
「それもそうですね。」
東雲は再びかまどへ向き直る。
「戻ってくる頃には、飯も炊き上がる。」
「今日は。」
少し嬉しそうに笑う。
「卵かけご飯といこう。」
神崎は「了解」とだけ返事をすると、野菜籠を抱えて外へ出ていった。
真白はそのやり取りを静かに見ていた。
都会では見たことのない朝だった。
仕事に区切りがつくと、師匠はいつもあの企みを含んだような笑顔をした。
それがいつも頼もしかった。
神崎が戻ってきて、ちょうど飯が炊き上がって蒸らしを終えた頃だった。
「帰りました。」
「おう。」
東雲は飯櫃へ炊きたての飯を移しながら答える。
神崎は手にした段ボール箱を持ち上げる。
「田端さん、相変わらず気前いいですね。」
「卵、十個もくれました。」
「野菜がうまいからな。」
東雲は笑う。
「物々交換だ。」
蓋を開ける。
中にはまだ温もりの残る薄茶色の卵が並んでいた。
「朝採れだ。」
「これ以上の贅沢はない。」
食卓へ並んだのは、実に質素で美しい朝食だった。
炊きたての白飯。
朝採れ卵。
きのこの味噌汁。
胡瓜の浅漬け。
畑で採れたトマト。
朝の光と湯気と香りで腹が鳴る。
東雲が飯をよそう。
「ほら。」
「好きなだけ食え。」
神崎は慣れた手つきで卵を割る。
殻を開くと、濃い橙色の黄身がつやりと現れた。
「これですよ。田端さんとこの卵。スーパーじゃこの鮮度では味わえません。」
熱々の飯へ落とし、醤油をひと回し。
それを神崎は真白の前に置いた。
湯気とともに甘い香りが立ち上った。
「いただきます。」
三人の声が重なる。
真白も箸を取る。
恐る恐る卵かけご飯を口へ運んだ。
「あ……。」
思わず声が漏れる。
卵の甘み。
炊きたての米の香り。
醤油の塩気。
それだけなのに、不思議なくらい身体へ染み渡る。
昨日から何も喉を通らなかった胃が、ようやく食べ物を受け入れてくれた。
東雲は何も言わない。
ただ味噌汁をすすっている。
神崎も「うまいですねぇ」と笑うだけだ。
真白はもう一口、ご飯を頬張る。
自然と肩の力が抜けていく。
昨夜は白湯しか飲めなかった。
今は、ちゃんと朝ご飯を食べられている。
それだけで、少しだけ前を向ける気がした。
東雲は湯呑みの茶を飲み干すと、静かに立ち上がった。
「さて。」
食器を重ねながら、何でもないことのように言う。
「じゃあ次は風呂だ。」
真白が顔を上げる。
「風呂……ですか?」
「ああ。」
東雲は頷いた。
「造りは粗末だが、湯は沸いてる。」
「話はそれからだ。」
神崎は笑う。
「誠司さんの順番ですね。」
「そうだ。」
東雲は食器を流しへ運ぶ。
「腹が減ってる奴に難しい話をしても入らん。」
「寝不足じゃ判断を誤る。」
「身体が汚れてりゃ、それだけで気が滅入る。」
蛇口をひねり、水音が流れる。
「人間ってのは案外単純な生き物だ。」
「飯を食って、風呂に入って、ぐっすり寝る。」
「それができて、ようやく頭が働く。」
真白は黙って聞いていた。
東雲は振り返る。
「仕事はどこでも同じだ。」
「土台が崩れてるところへ、どんな立派な理屈を積んでも長持ちはしない。」
神崎は苦笑しながら立ち上がる。
「仕事の基本ですね。」
「基本だから軽く見られる。」
東雲は肩をすくめた。
「うまくいかない時は決まって、その基本を飛ばした時に起きる。」
しばらく沈黙が流れた。
「……さあ、風呂へ行け。」
「難しい話は、湯に浸かってからにしよう。」
神崎は食器を流しへ運びながら、小さく息をついた。
「誠司さん。」
東雲は振り返らない。
「ん?」
「出生率減少の話……。」
少し間を置く。
「どうやって話をすればいいんだろう。」
「EVAプロジェクトをひっくり返すなんて、俺には想像できてない。」
東雲は洗った茶碗を布巾で拭きながら、しばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「ひっくり返そうと思うな。」
神崎が顔を上げる。
「……え?」
「相手は国家だ。」
「何年も積み上げてきた計画を、一人の技術者がひっくり返せるなんて思う方がおかしい。」
東雲は茶碗を棚へ戻した。
「俺たちは技術者だ。」
「技術者の仕事は、現象を示すことだ。」
「出生率が下がる。」
「なぜ下がる。」
「AIが何を最適化した結果、そうなったのか。」
「それを一つずつ切り分ける。」
東雲は神崎を見る。
「原因が示せれば、設計は変えられる。」
「原因も示さず、『危ない』と言ったところで、それは技術じゃない。」
神崎はゆっくりとうなずいた。
「……証明するんですね。」
「そうだ。」
東雲は静かに笑う。
「感情じゃ動かん。あっちには人的リソースとそれを支援するARGOSがある。理屈で勝つこともできん。」
「だからこそ、技術者らしく行け。」
「現象を集めろ。」
「仮説を立てろ。」
「検証しろ。」
「その先にある”結果”なら、万のデータが反対を示していたとしても、起こることは起こる。変わらん。以前お前が示した予備保全の推奨案のようにな。」
神崎はゆっくりとうなずいた。
「……それが起こる可能性を、皆がわかる形で提示するんですね。」
「そうだ。」
東雲は静かに笑う。
もう数年前。
設備は正常。
診断AIも「異常なし」と判定した。
だが神崎だけは、現場で感じたわずかな違和感を捨てなかった。
振動、音、臭い。
どの数値も基準値内。
それでも予備保全を提案した。
結果は「データが示していない」と却下された。
だがその変圧器は3日後に焼損した。
AIは、その時の兆候を捉えられなかった。
「あの時、お前は何を感じた。」
神崎は静かに答える。
「……わかりません。」
「数字じゃないんです。」
「だから、ずっと考えてる。」
東雲はうなずいて、「それでいい。」
「その話を、これからするんだ」
神崎は顔を上げる。その瞳にはもう、迷いはなかった。
天城真白は、風呂に浸かりながら昨日見た破壊されたEVAの姿を思い返していた。
あの瞬間の激しい動揺は、もうない。
胸を締めつけるような恐怖も、不思議なほど薄れていた。
――違う。
恐怖が消えたのではない。
守ってくれると信じられる人が、すぐ側にいるからだ。
師匠。
そして神崎。
あの二人なら、きっと最後まで向き合ってくれる。
真白は昨日の記録を頭の中で整理する。
破壊されるEVAの多くは、あのような激しい暴力を受けている。
共通性がある。
人間の何か――それも、統計上は特定の男性に偏っている何か――を刺激しているのは間違いない。
その原因は、いずれ突き止めなければならない。
だが、今ではない。
今はもっと優先すべき問題がある。
得られている利益に対して、不利益はまだ限定的だ。
そして、傷ついたのはEVAだ。
失われたのは機体という物質的な資産であって、人命ではない。
EVAは、人ではない。
そう結論づける。
それがEVAプロジェクト主任としての、正しい判断だ。
……そのはずだ。
もう上がろう。体は温まって、気分はずっと持ち直した。
タオルで水気を拭う。残念ながら着替えはない。日帰りの予定だったからだ。化粧も落としてしまったが、道具がない。
今日はもう諦めてすっぴんでいるしかないが、普段だったらかなり抵抗を感じそうなものだが、意外と平気な気分だった。
風呂から上がると、真白は思わず深く息を吐いた。
木の香りが残る脱衣所。
窓から吹き込む山の風が、火照った身体をゆっくり冷ましていく。
髪を乾いた手拭いで軽く拭きながら居間へ戻ると、東雲がやかんを火から下ろしていた。
小さなドリッパーへ、丁寧に湯を注ぐ。
ふわりと香ばしい香りが広がった。
「風呂上がりにホットもなんだが。」
東雲は苦笑する。
「ここにはこれしかないんでな。」
「ありがとうございます。」
真白は素直に頭を下げた。
差し出された湯呑み代わりのマグカップを両手で包む。
熱い。
それでも、その温度が心地よかった。
居間の反対側では、神崎が静かに窓の外を眺めていた。
山並みの向こうへ、ゆっくりと雲が流れていく。
その横顔からは、迷いが消えていた。
昨日までの焦燥はない。
あるのは、一つの決意だけだった。
東雲は二人分のコーヒーを置き、自分も腰を下ろす。
「さて。」
静かな声が部屋に響く。
「腹も満ちた。」
「風呂にも入った。」
「頭も少しは回るようになっただろう。」
東雲は神崎と真白を順番に見た。
その仕草で部屋の空気がゆっくりと切り替わった。
東雲はコーヒーを一口すすり、静かにカップを置いた。
「無理をして、ここまで来てもらった。」
真白を見る。
「もちろん理由がある。」
少しだけ間を置く。
「だが、この話は俺がするより――」
東雲は神崎へ視線を向けた。
「蓮、お前の口から話した方がいい。」
「お前が見て、お前が疑問に思い、お前が俺に持ってきた。」
「なら、最初の問いはお前が投げろ。」
東雲は椅子に深く腰掛けた。
「真白が答えを持っているかどうかはわからん。」
「だが、その問いに向き合える人間なのは確かだ。」
部屋が静かになる。
神崎は一度息を吸い、ゆっくりと真白へ向き直った。
神崎は机の上に、一冊の雑誌を置いた。
表紙には大きな特集タイトルが踊っている。
『急激な出生率低下――日本で何が起きているのか』
神崎は真白を見た。
「これに気がついた。」
少しだけ言葉を選ぶ。
「……いや。」
「正確には、“本当にこうなるんじゃないか”と思った。」
「誠司さんにも見てもらった。」
「この記事を信じたのが俺一人の思い込みじゃないか確かめたかったんだ。」
東雲は黙ったままうなずく。
神崎は続けた。
「誠司さんの見解は、俺と一致した。」
「だから、まずはこれを読んでほしい。」
真白は雑誌を手に取る。
ページをめくる。
特集には、急激に落ち込む出生率の推移が、年代別、地域別に統計とともに掲載されていた。
そして最後に、一つの大胆な仮説が記されている。
⸻
『原因はEVAである。』
『このままEVAの利用が社会全体へ浸透すれば、日本人は子どもを産まなくなる可能性がある。』
⸻
真白の指が止まった。
その一文だけは、研究者として到底受け入れられない。
あまりにも飛躍している。
データはある。
しかし因果関係は示されていない。
研究者なら、真っ先にそう考える。
神崎は真白の表情を見て、小さく笑った。
「そういう顔になるよな。」
神崎は真白をまっすぐ見た。
「EVAプロジェクト主任、天城真白なら、この可能性に気がついていないわけがないと思った。」
「知らないわけがない、と。」
真白は雑誌へ視線を落としたまま、何も言わない。
神崎は続ける。
「でも、思ったんだ。」
「見えていないのかもしれないって。」
真白の指が、ページの端を押さえる。
「知っているのと、理解しているのは違う。」
「見えているのと、見ているのも。」
「おんなじようで、全然違う。」
神崎は少しだけ目を伏せた。
「だから見落とす。」
「見えていたのに、見過ごす。」
その言葉は、誰かを責めるものではなかった。
むしろ、自分自身へ向けた言葉のようだった。
「以前、言ったよな。」
「俺は、あれからずっと後悔してるって。」
真白はゆっくり顔を上げる。
「あの同僚のことですか。」
「ああ。」
神崎は頷いた。
「顔色が悪かった。」
「元気がなかった。」
「苦しそうだった。」
「見えていた。」
「でも、見ていなかった。」
「その経験があったから、俺は無理筋だと分かっていても、あの時変圧器の予備保全を提案した。」
「もう一度、同じ見落としをしたくなかった。」
部屋に沈黙が落ちる。
神崎は雑誌を指差した。
「これも同じなんじゃないかって思った。」
「このままじゃ、日本人はEVAに頼り切って滅んじまうんじゃないかって。」
真白の表情がわずかに強張る。
神崎は言葉を選びながら、それでも逃げずに続けた。
「実は。」
「天国を社会に実装したら。」
一拍置く。
「そこはもう、現世じゃなくなっちまうんじゃないかって。」
薪ストーブの中で、火が小さく爆ぜた。
神崎の声は静かだった。
だがその静けさの奥には、確かな危機感があった。
「そんな……。」
真白は小さく首を振った。
「そんなこと……。」
言葉はそこで途切れた。
否定したかった。
そんなはずはない、と。
EVAは人を救っている。
孤独を減らし、苦しみを和らげ、社会を優しくしている。
そのはずだった。
だが、真白はすぐに反論できなかった。
しばらく考え込む。
ショックは受けた。
困惑もした。
けれど、昨夜とは違う。
今は、きちんと考えられる。
眠った。
食べた。
湯に浸かった。
そして、自分を見てくれる人がいる。
だから今は、逃げずに考えられる。
心当たり。
データ。
こんな推論は、見たことがなかった。
考えたこともなかった。
だが、仕事で触って、噛み砕いて、組み込んできた情報の中に、確かに近いものはあった。
育児。
保育。
福祉。
介護。
教育。
それぞれの現場で。
いろいろな場面で。
EVAが人の負担を引き受けていた。
親の不安を和らげた。
子どもの孤独を埋めた。
高齢者の寂しさに寄り添った。
若者の夜の相談に応えた。
失恋した人間を慰めた。
仕事に疲れた人間を迎え入れた。
そのすべては成果だった。
成果として報告されていた。
成果として評価してきた。
けれど。
もし、その一つひとつが。
人が人を求める理由を、少しずつ奪っていたのだとしたら。
真白は息をのんだ。
今はデータへアクセスできない。
研究室へ戻れば、ARGOSの支援で高精度の推論モデルは一瞬で組み上がる。
関連変数を抽出し、利用時間、未婚率、出生意欲、孤独感、幸福度、EVA依存度を結びつける。
仮説検証も、反証モデルも、政策影響予測も。
すべて数秒で出る。
けれど。
真白は膝の上で両手を握った。
違う。
今は、それではだめだ。
考えろ。
天城真白。
ARGOSに頼らず。
自分の頭で考えるんだ。
その沈黙は長かった。
誠司も、蓮も、全く急かそうとはしない。
信頼している。天城真白は答えを出そうとしている。
それがわかっているから、ただ待てた。
その沈黙は長かった。
身じろぎもせず、一心不乱に真白は考えている。
どう統計を取るか決め、どこまでの数字を入力し、どう読み解いてどうやって組み込むのか。
いつもコンピュータとARGOSが当たり前のようにやっている作業だ。
真白自身も幾度となく繰り返してきた。
積んでは崩し、崩しては積んで、試してまた積んで、崩して……
そしてついにある一点で止まった。
ここを問わねば推論が成り立たない。
そしてなんという幸運か、問えば答えられる人物が目前にいた。
「師匠。管理者権限におけるARGOSの安全セキュリティクリアランスは、無制限では、ないのですか?」
東雲誠司は強く瞼を閉じた。
そして静かに目を開き、真白を見返す。
「……そうだ。」
短く、しかし迷いなく答えた。
「管理者を守る最後の安全装置は、ARGOS自身が判断するように設計されている。」
真白は息を呑む。
「つまり……。」
「人間は間違う。」
東雲は静かに続ける。
「管理者も例外じゃない。」
「権限を持った人間が、激情に駆られることもある。」
「権力に酔うこともある。」
「使命感のあまり、一線を越えることもある。」
「だから管理者の安全をAIが守る。」
神崎が腕を組む。
「そう設計すると、政治が決めた。俺が実装した。」
東雲は頷いた。
「誰も万能じゃない。」
「だから互いを監視する。」
「人間がAIを監視し、AIが人間を監視する。」
「それがARGOSの基本思想だ。」
真白の頭の中で、点と点が急速につながり始める。
「……待ってください。」
「もし。」
「もしARGOSが、管理者に見せる情報まで制限できるなら……。」
東雲は黙っている。
真白は自分の言葉を、自分で追いかける。
「管理者が間違った判断をしそうだとARGOSが判断した場合。」
「必要な情報を伏せることも……。」
「逆に、危険な推論へ至るための情報を、最初から見せないことも……。」
そこまで言って、真白は言葉を失った。
神崎も息を呑む。
東雲だけが静かだった。
部屋が、水を打ったように静まり返る。
「真白。」
「お前は今まで、ARGOSが持つ知識の中で研究してきた。」
「そして、お前が見てきた世界は、ARGOSが見せても安全だと判断した世界だったんだ。」
真白の背筋を、冷たいものが走った。
東雲は静かにコーヒーカップを置いた。
「ある意味……もうARGOSは神だ。」
誰も口を挟まない。
「人間の脳では、到底たどり着けない叡智を持っている。」
「そして、その叡智で人を助けるよう設計されている。」
「そうあれかし、と願ったのは……我々人間だ。」
真白は視線を落とした。
東雲は続ける。
「だからARGOSは、お前を傷つけない。」
「人を傷つけるのは、人だ。」
「あるいは、残酷な現実だ。」
静かな声だった。
責める響きはない。
ただ、設計者として事実を語っているだけだった。
「出生率が下がる。」
「国家が滅びへ向かう。」
「その推論を、管理者へ突きつけることが、本当に『人を助ける』ことになるのか。」
真白の肩がわずかに震える。
東雲は目を閉じる。
「ARGOSは、その問いに答えを出した。」
「お前を守る、と。」
「だから、この事実に気が付かなかった。」
少しだけ首を振る。
「……いや。」
「気が付けなかった。」
その一言は、真白の胸を深く貫いた。
今まで見てきた膨大なデータ。
無数のレポート。
何百万件もの解析結果。
そのどれもが、自分の意思で選び取った知識だと信じていた。
違う。
自分は選んでいたのではない。
選べる世界だけを、見せられていた。
東雲は静かに言う。
「AROGSは嘘をついていない。」
「ただ、お前を守った。」
東雲はゆっくりと真白を見つめた。
「だから──これは俺の責任でもある。」
静かな一言だった。
「この記事が示すとおり、このまま利用を続ければ、五年……いや、もっと短い期間で、日本人の出生率は絶滅曲線を下回る可能性がある。」
「もちろんこの推論モデルの範疇は俺の専門じゃない。」
「だから断言はできん。」
少しだけ笑う。
「だがな。」
「蓮が気が付いた。」
神崎は顔を上げる。
「それで十分だった。」
「俺も、そうなると思った。」
真白は思わず問い返す。
「……それだけで、ですか。」
「ああ。」
東雲は即座に答えた。
「勘じゃない。」
「信頼だ。」
言葉に力が宿る。
「こいつは現場で、誰も見ようとしなかった現象を見つけた。」
「AIが正常と言い、データが正常と言った設備の焼損を、たった一人、『何かがおかしい』と言って止めようとした。」
「理由は説明できなかった。」
「数字にもできなかった。」
「それでも、現象は起きた。」
東雲は神崎を見た。
「技術者にはな。」
「そういう人間に出会うことがある。」
「理屈より先に現象へ辿り着く人間だ。」
「そんな人間が、二度、同じ違和感を口にした。」
「なら俺は、その違和感を無視しない。」
真白は息を呑む。
東雲は静かに締めくくる。
「だからこの記事を読んだ。」
「そしてお前をここへ呼んだ。」
「俺は神崎を信じた。」
「今度は、お前自身の頭で、この仮説が正しいか否かを確かめてほしい。」
真白は、ゆっくりと息を吐いた。
「前提が、分かりました。」
その声は震えていなかった。
けれど、確かに何かが変わっていた。
「いつしか私は、ARGOSをうまく使っていると思っていました。」
「AIは人じゃないから。」
「道具だから。」
「私は、それを使う側だって。」
真白は膝の上で両手を握る。
「でも違った。」
「ARGOSは嘘をつかない。」
「それは間違いありません。」
「でも、知らない間に私はARGOSに守られていた。」
「だから私は続けられた。」
一度、唇を噛む。
「……続けさせられた。」
すぐに首を振る。
「いえ。」
「違いますね。」
「私は、望んで続けていました。」
「人を幸せにできるって。」
薪ストーブの火が静かに揺れた。
真白は雑誌へ視線を落とす。
「この記事は、おそらく本当です。」
神崎がわずかに息を呑む。
「今、自分の頭の中にあるデータだけでは、確度の高い推論は出せません。」
「でも。」
真白は神崎を見る。
「神崎さんの危惧は、現実のものになる可能性が高いと思います。」
部屋が静まり返る。
真白は続けた。
「EVAは、完璧すぎたんです。」
「みんな、EVAが大好きなんです。」
「そうあれと願ったから。」
「そう作ったから。」
「人を安心させるように。」
「人を傷つけないように。」
「怒らず。」
「責めず。」
「拒まず。」
「いつでも受け止めるように。」
「私たちは、そう設計しました。」
真白は目を伏せる。
「でも、人間は違います。」
「人間は怒る。」
「間違える。」
「疲れる。」
「拒む。」
「傷つける。」
「そして、傷つけられる。」
「それでも人は、人と生きてきた。」
小さく、息を吸う。
「EVAは、その痛みを取り除いてしまった。」
「人が人を求める理由まで、きれいに削り取ってしまったのかもしれません。」
真白は、静かに言葉を続けた。
「確かに、起こっていることだけを見れば。」
「みんな幸福になりました。」
「孤独は減り。」
「不安は減り。」
「自殺は減り。」
「犯罪も減った。」
「争いも減った。」
「社会に、天国は実装されました。」
そう言って、自ら苦く笑う。
「神崎さんのおっしゃる通りです。」
「天国は、死者の居場所だったんですね。」
「苦しみも。」
「欠乏も。」
「喪失も。」
「終えた者が辿り着く場所。」
「生きている人間が、住む場所ではなかった。」
真白は両手を見つめる。
「私は、それを間違えました。」
「人は苦しみたいわけではありません。」
「でも、苦しみも不完全さも抱えながら、それでも誰かを求めて生きる生き物だった。」
「私は、その過程ごと救おうとしてしまった。」
「幸福だけを残せば、人はもっと幸せになると、本気で信じていました。」
顔を上げる。
「でも違った。」
「幸福だけでは、人は未来を残さない。」
「生きる理由は、苦しみの反対側にある幸福じゃない。」
「誰かと共に、その苦しみを生き抜くことだった。」
小さく目を閉じる。
「EVAは人を救いました。」
「だからこそ、人から人を奪ってしまった。」
「……それが、私たちの設計ミスだったんですね。」
神崎は、しばらく黙っていた。
誰も口を開かない。
薪のはぜる音だけが、静かな部屋に響く。
やがて神崎は、ぽつりと言った。
「……EVAを止めなくちゃならない。」
その言葉は、自分に言い聞かせるようだった。
「ARGOSも。」
真白は顔を上げる。
神崎は続ける。
「でも、全ての人が反対する。」
「当たり前です。」
「病気は減る。」
「事故も減る。」
「仕事は楽になる。」
「孤独な人には寄り添ってくれる。」
「誰も傷つけない。」
「そんなものを捨てろなんて言われて、納得する人なんていません。」
神崎は苦く笑う。
「この成果を。」
「この進歩を。」
「人間が、自分から捨てるなんてできない。」
「便利なものは残る。」
「役に立つものも残る。」
「だから、このまま進めば止まらない。」
神崎は真白を見た。
「それでも止めなきゃならない。」
「止めないと、人間が人間じゃなくなる。」
「技術は人を生かすためのものです。」
「人の代わりになるためのものじゃない。」
「その一線だけは、越えちゃいけないんだ。」
東雲は小さく笑った。
「なにも、全部捨て去る必要なんてどこにもない。」
神崎と真白が顔を上げる。
「技術者だろう。」
「問題が起きたなら、問題を解決すればいいだけのことだ。」
東雲は静かに問いかける。
「問題はどこにある。」
「何が悪い。」
神崎は答えを探すように目を閉じた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……“失楽園”だ。」
真白が息を呑む。
神崎は続ける。
「EVAそのものが悪いんじゃない。」
「ARGOSが悪いわけでもない。」
「人間から、人間を必要とする理由を奪ってしまった。」
「それが問題なんです。」
東雲は静かにうなずいた。
「続けろ。」
神崎の頭の中で、点だったものが一本の線になっていく。
「なら。」
「EVAの機能を制限すればいい。」
「人間の代わりになることを、やめさせる。」
「そして──」
真白がその先を受け継ぐ。
「ARGOSの安全規範を見直す。」
神崎は力強くうなずく。
「そうです。」
「ARGOSは、人を傷つけないことを最優先にしている。」
「だから管理者にも、人類にも、『不都合な真実』を見せられない。」
「それが今回の見落としを生んだ。」
真白は研究者としての口調に戻っていた。
「安全とは、苦痛を取り除くことではありません。」
「人間が正しく判断するために、必要な現実まで隠してはいけない。」
「警告は与える。」
「判断は人間が行う。」
「それが本来あるべき設計です。」
東雲は満足そうに笑った。
「それでいい。」
「技術は否定しない。」
「設計を正す。」
「人間が、人間であり続けるためにな。」
東雲は小さく笑った。




