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瀬戸内の春、君と閑《しずか》の谷から旅を始める【完結】  作者: ねねこ


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8 猫城主と赤い町

 帰りに倉敷イオンに向かい、広さに驚く椿を連れて私は映画館に向かった。

 ちょうど見たかった〇ィズニーのアニメ映画があったんだ。そろそろ上映期間も終わりっぽくて、一日に一回になっていた。

 ちょうどその時間に間に合ったからその映画のチケットを買った。

「わぁ……」

 椿が小さく声を漏らす。

 映画館のロビーは薄暗く、天井や壁には大きく鮮やかな様々な映画のポスター。

 ポップコーンの甘い匂い。

 行き交う人たち。


 全部が、椿には珍しいものばかりなんだろう。


「ここが、えいがの建物ですか……?」

「うん。まあ、建物の中にいくつも映画見る部屋がある感じ」

「なんと……絵巻物を見るためだけの部屋がたくさんあるのですか……」


 スマホの中からきょろきょろ周囲を見回している。

 その姿が完全に初めて都会に来た観光客で、ちょっと面白い。


「飲み物買う?」

「はい!」

「じゃあ私はアイスコーヒー……椿は?」

「では、紅茶を……」

「あったかいのと冷たいのどっち?」

 すると椿は、少し真剣に悩み始めた。

「……冷たい方で」

「冷たい紅茶、気に入ったねぇ」

「はい。未来のお茶は冷えていても美味しいので驚きます」


 それから売店で飲み物二つと、小さなキャラメルポップコーンを買う。

 椿はポップコーンを見るなり、また目を丸くした。


「これは……?」

「お菓子」

「これも、甘味……?」

「食べる?」

「はい!」


 映画館の中へ入る。

 うん、終映間近だからか、他にお客さんはいなくて完全貸し切り状態だ、気持ちいい。

 座ってから、誰もいないのをいいことにポップコーンとアイスティーを隣の座席に置いて写真に撮る。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

 キャラメルポップコーンを一粒口に入れた椿が声を挙げる。

「甘い!?」

 うん、今日何回目だろう、この反応。

「美味しい?」

「はい!何ですか、これ。ぱふぇを食べた後だと言うのに、手が止まりません!」

「映画館のポップコーンってそうなんだよねえ……」

「未来、甘いもの多すぎませんか……?」

「それは否定できない」


 薄暗い通路。

 ずらりと並ぶ座席。

 正面いっぱいの巨大なスクリーン。


 椿は完全に固まっていた。


「……白い壁です」

「壁だね」

「ここに動く絵巻物が映るのですか?椿さんのスマホで見る動画とやらのように?」

「うん」


 スマホの中で前を向いて座ると、椿はそわそわしている。


「なんだか祭りみたいです」

「お祭り?」

「はい。甘味を手に楽しいものを見たりやったり。私にとっては椿さんといく全ての場所がお祭りです」

「そう言ってもらえると嬉しいよ」


 やがて場内が暗くなる。


 途端に、椿がぴくっと肩を震わせた。

 とりあえず私の膝の上にスマホを置いて光を絞る。


「始まるよ」

「は、はい……!」


 予告映像が流れる。


 巨大な音。

 動く映像。

 光。


 椿は完全に圧倒されていた。


「壁の中で……絵が、う、動いております……!未来の絵は動くのですか!?」

「うん、映画だからね」

「しかも色々な人の声が聞こえます……!」


 小声で必死に驚いているのがちょっと可愛い。

 そして本編が始まるころには、椿は完全にスクリーンに夢中になっていた。


 笑ったり。

 驚いたり。

 時々しんみりした顔をしたり。


 この映画続編だけど、最初に内容説明があったから分かりやすかったのも良かったんだろうな。


 その楽しそうな顔を見ながら。

 私は少しだけ不思議な気持ちになる。


 もし椿が生きていた頃に、この映画館を見せたら。

 きっと魔法だと思っただろう。


 でも今。

 椿はちゃんとここにいて、ポップコーンを食べながら映画を見ている。


 そのことが、なんだか嬉しかった。




 それから家に帰って椿は今日撮った美観地区の写真を何度も嬉しそうに眺めていた。

 明日は夕方から仕事だから、昼間はどこかへ連れて行こうかな……。どこがいいだろう。

 そんなことをぼんやり考えていると、夕食だと声がかかったので下に下りた。

 父はまだ仕事から帰っていなかったので、先に私だけ食べるように言われた。

「椿、今日はどこ行っとんたん?」

「ん、美観地区行って映画見て来た」

「一人で?」

「友達と」

「最近よく出かけると思ったら、一緒によく出かけてくれる友達ができたんか、それは良かったわ」

 母が嬉しそうにお茶碗を差し出す。

「うん、まあね。何をしても楽しんでくれる子だから、一緒にいて楽しいよ」

「どんな子?」

「少し年下だけど、無邪気で勉強が好きな子」

「まあ、じゃあいい学校に行った子なんじゃねえ」


 学校。


 その言葉に少し胸がちくりとする。

 椿は勉強したくても時代に許されなかった子。

 私は?

 私はいくらでも勉強できるのに、放り出してしまった人間だ。

 私にも夢があった。でも挫折した。


 そこから目を背けて、楽なほうへ流れた。

 でも、そろそろ。

 私も踏ん張らないといけないのかもしれないな。


「ご馳走様。明日は夕方からバイトだから」

「分かった」


 部屋に戻りパソコンを立ち上げる。明日行く場所を探すためだ。

 うーん……。

 いくつか捜しているうちに行きあたったのは、有名どころの備中松山城。猫城主が有名なのは私も知ってる。

 それから少し高梁のほうへ行ったところにある吹屋ふるさと村、というところを見つけた。

 何でも江戸時代から明治時代にかけての建物が保存されている場所だと言う。椿の時代よりは先だろうけど、似てるんじゃないかな……。ここからなら車で二時間くらい。なら、朝から出かければいいか。

「ねえ椿」

 スマホの中で動画を楽しんでいた椿に声をかける。

「はい、椿さん」

「明日なんだけど、お城に行ってみようか」

「お城、ですか?」

「うん、備中松山城。今でも天守閣が残ってるお城なんだって。で、今の城主は猫らしいよ?」

「猫が……城主様……?」

「うん。で、もうちょっと先に、江戸の終わりの頃の建物が残ってるところもあるらしいから、そこも。吹矢ふるさと村だって。椿のいた時代よりは後のものらしいけど」

「まあ……!」

 椿の目が、ぱっと輝く。

「お城、行ってみたいです!」

「だよね。私もちゃんと行ったことないんだ」

「猫の城主様も気になります」

「そこなんだ」

 思わず笑うと、椿もくすくす笑った。

「でも、天守閣が残ってるってすごいよね。昔のままの建物が今でもあるってことだし」

「……」

 椿が、少し静かになる。

「椿?」

「いえ……少し、不思議だと思ったのです」

「何が?」

「私の生まれる前の頃のものや、私の生きた時代よりあとのものが、今の未来にも残っているということが」

 スマホの中で、椿はどこか遠くを見るような顔をしていた。

「人は亡くなっても、建物や景色は残るのですね。大事にしてくれる人がいる限り……」

 その言葉に、私は少しだけ返事に困った。


 残るものもある。

 消えるものもある。


 でも。

 椿みたいに、誰かの記憶だけに残るものもきっとある。


「だから見に行こうよ」

 私はなるべく明るく言う。

「椿の知ってる時代に近いもの」

「……はい」

 椿は嬉しそうに頷いた。

「吹屋ふるさと村、という場所も気になります」

「お、名前覚えた?」

「はい。今すまほで調べてみました。赤い町並みがとても綺麗です」

「あー、ベンガラってやつで赤いらしいよ」

「べんがら……?」

「昔の塗料、かな。高梁の辺りで有名だったみたい」

「まあ」


 椿はまた興味深そうに検索画面を覗き込む。


 最近、椿はスマホの操作にも少し慣れてきた。

 最初は画面を触るたびに「動きました!?」と驚いていたのに、今ではマイクを使って検索したり動画を見たり写真を拡大したりも普通にやっている。慣れってすごい。


「じゃあ明日は、朝ちょっと早めに出る?」

「はい!」

「山のほうだから歩きやすい靴でね」


 椿がきょとんとする。


「あ」

 私は苦笑した。

「まあ椿は歩かないんだけど」

「椿さんにだけ歩かせて申し訳ございません……」

「いいのいいの。椿と出かけたら、日ごろの運動不足を解消できてるし」

 

 椿は実際にはスマホの中にいる。

 でも。

 ちゃんとそこへ行っているんだ。

 私と一緒に。


 写真を撮って。

 景色を見て。

 食べ物を食べて。

 驚いて。

 笑って。


 きっと、私が思っている以上に椿の心に今経験している「未来」は残っている。


 その夜。

 布団に入ってからも、椿は吹屋ふるさと村の写真を何度も見ていた。


「赤いですね……」

「ね。なんか普通の町並みと違うよね」

「まるで夕焼けの色です」


 ぽつりと呟く声が、少し綺麗だった。


「椿って、たまにすごい詩人みたいなこと言うよね」

「しいじん……?」

「言葉が綺麗ってこと」

「まあ……」


 照れたように笑う。


「でも、楽しみです」

「うん」

「椿さんと、また知らない景色を見られるのが」


 その言葉を聞きながら。

 私はなんとなく思った。


 たぶん。

 この時間はずっと続かない。


 椿の記憶が戻っていくほど、少しずつ。

 何かが終わりへ向かっている気がしていた。


 でも今はまだそのことには、気づかないふりをしたかった。




 翌朝、まだ早い時間、通勤ラッシュのことも考えて早めに出た。

 今日の目的地はまず備中松山城だ。

 山道を歩いて登らないといけないと書いてあったので、今日はトレッキングシューズにした。

 通勤ラッシュを避けて、和気から赤磐、総社へ抜けるコースを選んだ。

 まったく通勤ラッシュがなかったわけじゃないけど、国道に比べたら絶対マシだった。

 

 備中松山城へ上がるための道に着いたのは、予定より少し早い時間だった。

 一番近いふいご峠駐車場は停められる台数が少ないから争奪戦だと聞いてビビってたけど、まだ9時前だったおかげか、2台しか停まっていなかった。まあ今日平日だしね。

「よし、行こうか」

「はい!」

 案内看板に従い、遊歩道へと進む。ここから20分くらいらしい。

 山道を20分って結構大変だな……。でも昔の人はこんなところに今みたいにクレーンとかないのにお城作ってたんだもんな、すごい……。


 それから息切れしながらやっとたどり着いたのは、確かにお城だった。

 山の中に残るその佇まいはとてもきれいで存在感があった。

「どう?椿」

「……昔見た赤穂城を思い出しました」

「お父さんと一緒に行ったんだっけ?」

「はい。私は城の中には入れず、母と城下におりましたが、お城の佇まいは外から見ていたので、ああこんな立派なお城でお仕事をなさっているんだなと。そんな父を誇らしく思ったものです」

 そうか、椿が生きていたころはまだ赤穂藩があったんだな……。

 たぶん日本で一番有名な忠臣蔵の事件は、もうちょっと後だったんだろう。

 


 それから椿と一緒に天守閣の中を見学して、噂の猫城主の見回りをやってきた他の観光客たちと着いて回ったりした。

 猫城主に目をキラキラさせていた椿がかわいくて、猫城主のポストカードを見つけたので一枚買って写真に撮って椿にあげた。元のは家に帰って自分で飾ればいいや。

 

 山道を下りるころには、さすがに足が少し笑っていた。


「つ、疲れた……」

「椿さん、大丈夫ですか?」

「椿は疲れてない?」

「はい、私は大丈夫です。それに、あのお城は登った先にある価値がありました。自分の足でも登ってみたかったです」

 スマホの中で、椿が嬉しそうに今日撮った城の写真を眺めている。

 特に猫城主の写真がお気に入りらしい。

「猫が城主様……未来とは本当に自由ですね……」

「私も最初聞いた時そう思った」

 車へ戻って飲み物を飲む。

 春とはいえ、山を歩くと結構暑い。

「じゃ、次行こっか」

「はい。赤い町並みの場所ですね」

「そうそう、吹屋ふるさと村。私も初めて行くんだ」

 ナビを設定して車を走らせる。

 ここからだと1時間かからないくらいらしいけど、初めて行く場所なので、多めに時間は見積もっておく。

 山道を下りるにつれて、景色が少しずつ変わっていった。


 田んぼ。

 川。

 古い家。

 山。

 田舎の原風景そのものの中を走っていく。


 その景色を見ながら、椿がぽつりと呟く。


「なんだか、この景色は落ち着きます」

「この辺、かなり田舎だからねぇ」

「ですが、懐かしい匂いがします」

 窓の外を流れる山々を見つめながら、椿は少し目を細めていた。

「椿の頃もこんな感じだった?」

「はい。山と田畑が近くにあって、季節の匂いがして」

「季節の匂い?」

「春の土や、草木や、水の匂いです」

 ああ。

 そう言われると、少し分かる気がする。

 山へ近づくほど、空気の匂いって違う。

 それからしばらく走って。


「……わ」


 吹矢ふるさと村へ入った瞬間、思わず私も声が漏れた。


 赤い。

 最初に飛び込んでくるのは、景色じゃなくて視界いっぱいの赤色だった。

 町全体が、じわりと赤に染まっている。


 石州瓦とベンガラ色で統一された町並みは、綺麗というより先に、どこか現実感が薄い。

 見慣れた地元の古い町並みとは違う、作られた時間のような空気があった。

 この街並みを作った人は、これを作ることがきっと楽しかったんだろうな、と思えるような美しさだった。


 観光地のはずなのに、賑やかさよりも先に静けさが来る。

 人の声はあるのに、町そのものが音を吸い込んでいるようだった。

 それもまたいい雰囲気だ。


「街全体が夕焼けみたい……」


 思わず呟く。

 椿も、言葉を失ったようにその景色を見つめていた。

「とてもきれいです……」

「ここ、江戸の終わりから明治くらいの建物らしいよ」

「……江戸の終わり……」

「江戸時代は300年以上続いたすごい時代だよ。で、江戸の後に明治って時代があったの」

「江戸から……明治に……」

 椿は小さく繰り返す。

「私のいたころとは少し違いますが……ここには、あの頃に似たものを感じます」

「似てる?」

「はい……何と言うのでしょう」

 言葉を探すように、間が空く。

「この街並みは……時代が続いた先、の景色のように思えます」

 その言葉に、私は少しだけ黙る。


 ああ。

 そうか。


 椿にとってこれは、過去ではない。

 自分が生きていた時間の、その延長線だ。

 もし生き続けていたなら、たどり着いたかもしれない景色。


「行こっか」

「はい」


 赤い町並みをゆっくり歩く。


 平日だから観光客はそこまで多くない。

 静かな空気の中、靴音だけがやけに響く。


 ふと見渡すと、窓の奥は暗い。

 洗濯物もなく、生活の気配も薄い。


 あるのはかつて暮らしだったもの、

だけだった。


 それなのに、不思議と寂しさはない。

 代わりにあるのは、時間が積み重なったような静けさだった。


「ここ、昔は銅山で栄えてたらしいよ」

「どうざん……?」

「銅を掘ってた山」

「まあ……」

「銅は今でも使われてる金属だから、きっとその頃はもっと賑やかな街だったんだろうね」

 椿はゆっくり周囲を見回す。

「倉敷とはまた違う賑わいだったのでしょうね」

「たぶんね」


 格子窓。

 赤い壁。

 古い看板。


 歩いていると、本当に時間が少し巻き戻ったような錯覚に陥る。


 そして。


 ある大きな屋敷の前で、椿が足を止めた。


「……立派なお屋敷ですね」

「昔のお金持ちの家っぽいね。中、入れるみたいだよ。入ってみる?」

「はい」


 公開されていた内部へ入る。


 広い座敷。

 磨かれた廊下。

 高い天井。


 その空気を感じた瞬間、椿の表情が変わった。


「椿?」

 椿は静かに微笑んだ。

「……家を、思い出します」

 その声は、とても小さかった。

「久米の家は、ここまで立派ではありませんでした」

「久米……?」

「思い出しました……私の家名は、久米と言います」

「そっか、椿は久米のご当主だったんだね」

「いいえ。当主は旦那様です。私は久米の家を断絶させないために婿を迎えたのですから」

 椿は微笑んで屋敷の中をぐるりと見まわした。

「そして名も思い出しました。私の生前の名は久米椿と言います」

「え!?じゃあ仮名のはずが本名だったってこと!?」

「はい」

「そっかぁ……」

 椿が家の中を見回し、懐かしそうに笑う。

「私の父は閑谷の学び舎を建立した津田永忠様の家臣でした。身分は中級の武士でしたが、それなりに禄も頂いていましたので、生活に不安はありませんでした」

 静かな声だった。

「父も兄様も、いつも「家」の話をしておりました。家とは、このような柱の一つ、梁の一本に込められた重みを背負うことだと」

「……」

「誰か一人のものではなく、先祖から続いて、次へ渡すものだと私は教えられたのです」

 椿は、自分の手にあったものを思い出すようにつぶやく。

「私は嫁ぐはずでしたが、兄様が亡くなられて」

 そこで、一度言葉が止まる。

「久米を残すために、婿を迎えることになりました」

 

 源三郎。

 その人の名前を思い出した時と同じ顔だった。


「嫌じゃなかった?」

 思わず聞くと、椿は少し驚いたようにこちらを見た。

「……考えたこともありませんでした」

「え?」

「それが当然でしたから。それに、源三郎様の婿入りは、津田様が直々につないでくださった縁でしたので」

 なるほど、上司からのツナギだったのか。

「津田様が池田様の覚えめでたき方であり、家臣としての信ある方であったことで、津田様は後継ぎを亡くした家臣であった我が家の行く末を案じてくださった。そして、源三郎様は私の両親と養子縁組をし、私の旦那様になってくださったのです」

「え、養子縁組しないと結婚できないの!?」

「町人はそこまですることもないのでしょうが、武士の家はそう定められていました。婿入りする以上、当主とならねばなりません。そのためには、その家の主人の子になるところから始めないといけないのです」

「……うわぁ……武士の家ってすごかったんだ……」

「今の時代の婚姻は違うのですか?」

「うーん、今の時代にもお見合いとかはあるけど、基本的にお互いが良ければ結婚できるから……」

「まあ、学ぶだけでなく、そのような自由が今はおなごにもあるのですね……」

「だね」

「それでも私はきっと何度でも源三郎様を選び、選ばれたいと思います」

 

 ああ。

 時代が違うんだ。


 私なら。

 たぶん、逃げたくなる。


 でも椿は家を守ることを、自分の役目として受け入れていた。

 そこで出会えた人と心を繋ぎ夫婦になれたことは椿にとって良い人生だったんだ。


 椿が少しだけ笑う。

「旦那様は、私に“椿殿はよく頑張っておられる”と言ってくださいました。それが本当に嬉しかったのです」


 その瞬間この古い屋敷の空気の中で。

 見たこともない、椿の記憶の中だけの源三郎と言う人が優しく笑っているような気がした。

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