6 うどんと金毘羅様
それから翌々日の仕事が休みの日、私は朝から児島方面へ向かってバイパスを走っていた。
母に「香川にうどん食べに行ってくる」って言ったらお土産にうどんを買って来てと頼まれたので忘れないようにしないと。
ガソリンは満タン、平日の通勤ラッシュの時間帯は終わり、走りやすい。
やがて、鷲羽山の看板が見えてくる。
橋を渡る前に、ここから見える景色を椿に見せたかったのだ。
第二展望台の駐車場に車を停めて海の方向へ向かう。
「見て、椿。あれが瀬戸大橋。これからあの橋を渡って四国に行くよ」
展望台に吹き抜ける風は、海からの湿り気を含んでいて、少しだけ潮の匂いがした。
視界の先には、ゆるやかに弧を描く巨大な橋が、海の上に何本も連なっている。
「……あれが」
椿が息を呑む。
「瀬戸大橋。岡山と香川をつないでる橋だよ。天気が荒れてたら通行止めになっちゃうんだけど、今日は大丈夫」
言いながら、自分でも少し誇らしい気持ちになる。
何度見ても、これが道だということに現実感が薄れる。
海の上に、鉄とコンクリートの流線が浮いているみたいだ。
「今では、かがわ、と言うのですね、讃岐の国は。そして橋が……海を渡っているのですね」
「そう。車も電車も通る」
「船ではなく……?でんしゃ、とは?」
「ちょうどマリンライナーが走ってきたよ。あれが電車」
ちょうど香川側から岡山側に走ってくるマリンライナーが見えたので、スマホを掲げる。
「あの銀色の大きな動く塊がでんしゃ……!?」
「そう。車が走る橋の下の部分を走って四国と繋がってるの」
「……なんて早い……」
「早いでしょ。今の瀬戸内海はもう船じゃなくても渡れる場所なの。もちろん今でも船もあるけど、直行は確かなくなって、途中の島経由でしかいけなくなったはず」
「まあ……つまり橋ができたことにより、それまでは必要であったものがいらなくなったということなのですね……」
「うん、まあそれで間違ってないかな」
椿はしばらく黙って、それからゆっくりと橋を見ていた。
「今では……海の上に道ができているのですね……」
その言い方が、少しだけ寂しくて、でも綺麗だった。
「便利にはなったけどね」
私は軽く肩をすくめる。
「そのぶん、海を越えるっていう感覚は薄くなったかも」
椿は小さく頷いた。
「私たちの頃は、海の向こうは一生に一度行くかどうか、という場所でした。讃岐の国への金毘羅参りは憧れでした」
「なるほど。江戸時代は、伊勢参りも一生に一度行きたい憧れだったって聞いたことある」
「そうです。伊勢参りはみな憧れました。私もです」
「行けたの?」
「いいえ」
「そっか」
さすがに伊勢までは日帰りで連れていけるような距離ではない。
「でも私は今、あの頃誰も経験できなかったことをしています。それはとても嬉しいことです」
「それならいいけど」
「はい」
車に戻りながら、私は続けた。
「これから行く香川はね、うどん県って呼ばれるくらい、うどんが有名。美味しいよ」
「うどん……。聞いたことはありますが、食べたことはないものです」
「小麦の麺を茹でて食べる料理」
「おそばとは違うのですか?」
「違う。もっともちもちしてて、つるっとしてる」
椿は真剣な顔で聞いている。
「麺……というものは、そんなに種類があるのですね」
「めちゃくちゃあるよ。地域ごとに全然違う。麺料理なら、日本人はみんな大好きなラーメンもあるしね」
「らあめん……?」
「また今度食べよう。今日はうどん!」
車を発進させ、鷲羽山を下りて瀬戸大橋へと入る。
橋の上に乗った瞬間、景色が一段上がったように感じる。
左右に広がるのは、青というより銀色に近い瀬戸内の海。
穏やかな波の間を船が渡っていく風景は外洋では見られないものだ。
島が点々と浮かび、その間を船がゆっくり進んでいる風景に椿は感動していた。
「椿、怖くない?」
「はい……少し、不思議な感じです」
「海の上走ってるからね」
椿は窓の外をじっと見ている。
「もし昔の私がこれを見たら、夢だと思ったでしょう」
「夢?」
「海を渡る道など、人が作れるとは思いません」
少し間を置いて、椿は静かに言った。
「でも今は、これが現実なのですね」
その声には、驚きよりも納得が混じっていた。
橋を渡りきると、景色の色が少し変わる。
岡山の穏やかな海から、香川側の開けた空へ。
私はウインカーを出した。
「じゃあ、着いたら最初はうどん屋さんね」
「はい!」
椿は少しだけ前のめりになる。
「うどんというもの、とても楽しみです」
「たぶんびっくりするよ。香川のは特に」
「びっくり、ですか?」
「うん。すごく美味しいよ」
車は高速を降り、香川の平野へと入っていく。
道の両側に広がる田んぼ。
低い山。
遠くに見える白い雲。
その全部が、どこかゆっくりしている。
「椿」
「はい」
「この辺、うどん屋さんがめちゃくちゃ多いんだよ」
「そんなに、ですか?」
「コンビニより多いって言う人もいるくらい。あ、私の働いてるコンビニってお店は全国にすごく多いの。大きな街だと隣り合ってたりするくらい」
椿は目を丸くする。
「食べ物のお店が、そんなに……」
やがて、白い暖簾が見えてくる。
駐車場にはすでに数台の車。
いかにも地元の人が普通に来てる店という感じだ。
「ここにしようか」
「はい……!」
椿の声が少し弾んでいた。
店に入るとトレーを取りカウンターの中へ「かけ中」と声をかける。
てんぷらはかき揚げを一つ。
最近は現金以外でもキャッシュレスで払えるお店が多いのが助かる。
空いている店内のテーブル席に座ると、うどんのトレーをまず写真に撮る。
「椿、食べていいよ」
「はい、いただきます!」
スマホの画面の中で箸を手にうどんを食べ始めた椿が、目を見開く。
「これは……歯ごたえがすごすぎます……」
「それがいいんだよね、讃岐うどんは。これを食べたくて、日本中からたくさん観光に来るんだよ」
「まあ日ノ本中からですか……。でもあのように大きな橋をかけて誰でも関所も何もなくどこへでも行けるのであれば、命がけで海を渡る必要もないですものね……」
「……」
椿の口にする彼女の生きていた時代の不自由さは今を生きる私には全部は分からない。
でも知りたい気持ちがあれば、私だって今からでも学ぶことができるはずだ。
「あとね、昔の金毘羅参りの人たちにも、うどんって結構食べられてたんじゃないかって言われてるんだって」
「まあ……!」
「参拝客が多かったから、安くてお腹にたまる食べ物が必要だったみたい」
椿は少し考え込む。
「では、ここは昔から旅人を迎える土地だったのですね」
「そうだね」
うどんをすすった椿が、またぱっと顔を輝かせる。
「これは、本当にとても美味しいです……!」
「でしょ?」
「優しい味がします」
それから、かき揚げをかじって目を丸くした。
「甘い……!」
「あー、玉ねぎかな」
「揚げると甘くなる野菜があるのですね……」
本当に、一口ごとに感動する。
私は少し笑いながら、水を飲んだ。
「椿ってさ」
「はい?」
「食べる時、すごく幸せそうだよね」
すると椿は、少しだけ照れたように笑った。
「食べることは、生きることですから」
その言葉は、妙に真っ直ぐだった。
「昔は、今ほど自由に甘い物も食べられませんでしたし、遠くの土地の料理など、一生口にできぬことも普通でした」
「……うん」
「だからなのでしょうか。私は今、とても贅沢をしている気持ちです」
窓の外では、車が何台も出入りしている。
県外ナンバーも多い。
昔なら何時間もかけて船で渡った距離を、今は橋を通って数時間で来られる。
そう考えると、確かに世界は変わったのだ。
「ねえ椿」
「はい」
「これからさ」
「?」
「金刀比羅宮、行ってみる?」
椿の目が大きく開かれる。
「こんぴら様へ……?」
「うん。せっかく香川来たし。実は私も行ったことないんだ」
数秒、椿は固まった。
それから。
「……本当に?」
その声は、少し震えていた。
「そんな、昔の私が一生行けるかどうか分からなかった場所へ……?」
「車ならすぐに行けるよ」
私が軽く言うと、椿はしばらく何も言わなかった。
ただ、うどんの湯気の向こうで、静かに目を細める。
「未来とは、本当に不思議な時代ですね……」
その笑顔は、本当に嬉しそうで。
でもどこか、昔の自分を慰めているみたいにも見えた。
「じゃあ行く?」
「はい!」
と、言うわけで私も初めての金毘羅様へ向かうことになった。
ナビに金毘羅神社をセットすると、ここから約30分くらいだった。
出発すると、海沿いの道は見晴らしも良く、ドライブを楽しむには最高だった。
そこから山間部が近づいてきて、金毘羅神社への案内看板も増えて来た。
「そろそろ着くよ」
「はい!」
無料駐車場はないみたいなので、有料駐車場に車を停める。
それからスマホをカバンに入れて金毘羅神社に向かった。
「うわぁ……」
話には聞いたことはあったけど、階段がすごい。
1000段以上はあるって聞いたことがある。
「まあ……ここが金毘羅様……」
「この上だよ」
「では参りましょうか、椿さん」
「……まあ行くけどさ」
せっかくここまで来たんだし。
私は覚悟を決めて階段を上り始めた。
スニーカーで来てよかった……。
そして時々下の風景を振り返りながら、たどり着いた785段目の本宮!
……疲れた。
またここから下りて車を運転して帰ることを考えたら、とてもじゃないけど奥社までは行けない。
椿にもそう言うと「ここまで来られただけで十分ですから」と笑っていた。
それからお参りをし、交通安全のお守りを一つ買った。一つ車に着けておこうと前から思ってはいたけどまだ入手していなかったのだ。
海外の観光客も多くいて、椿が「あれが異国の方……」と呟いていた。
「昔の人、これ草鞋で登ってたんでしょ……?すごすぎない?」
「はい。ですが、途中の茶屋で休みながら参る方も多かったと聞きます」
「それでもすごいよ……」
私は息を吐きながら、眼下の景色を見下ろした。
讃岐平野。
遠くに光る海。
小さく見える町並み。
ここまで登ったからこそ見える景色だった。
「椿」
「はい」
「昔の人も、ここから同じ景色見てたのかな」
椿は静かに外を見つめる。
「はい。ですが、もっと建物の屋根は低く、田畑が多かったと思います」
「そっか……」
「ですが、海も山も、空も、きっと大きくは変わっておりません」
その言葉を聞いて、私はもう一度風景を見た。
昔の人。
旅人。
参拝客。
海を越えて来た人たち。
皆、この景色を見たのだろうか。
それを思うと、ただの観光地だと思っていた場所が、少しだけ違って見えた。
私は交通安全のお守りを手の中で転がす。
「これ、車につけようと思って」
「まあ、可愛らしい袋ですね」
「今まであんまり遠出してなかったからさ。車のお守りつけてなかったんだよね」
「では、これからはもっと旅をされるのですか?」
私は少し考える。
「……どうだろ。うん、でもそれもいいかもね」
でも。
牛窓へ行って。
瀬戸大橋を渡って。
うどんを食べて。
金毘羅様まで来て。
なんだか最近、どこかへ行くことが前より楽しい。
友達はみんな仕事が忙しいから、なかなか会う時間もないし、夜勤がメインの私は、なかなか昼間も夜もみんなに時間を合わせることができなくて、自然と疎遠になっていったけど、1人で過ごすことが私は苦痛な人間ではなかったから大丈夫だった。
でもこうして椿と出かけるようになって1人で過ごす時間と同じくらい、人と過ごす時間も大事だとも思うようになっていた。
「椿となら、またどっか行きたいかも」
ぽつりとそう言うと、椿は少し驚いた顔をした。
「本当ですか?」
「うん」
「では、次はどちらへ?」
「気が早いなぁ」
私は笑う。
「でも、倉敷とか尾道とかもいいかもね」
「おのみち……?」
「海の見える坂の町。猫が多いって有名」
「猫!」
椿の声がぱっと明るくなる。
「行きたいです!」
「即答だなぁ……」
でも、その反応がちょっと嬉しい。
椿は本当に、どんな景色にもまっすぐ感動する。
そのたびに、私まで世界を見直している気がした。
風が吹く。
境内の木々がざわりと揺れた。
その音を聞きながら、椿が小さく呟く。
「……私、少し分かった気がします」
「何が?」
「私たちの生きた時代の人たちが、なぜ旅に憧れたのか」
私は黙って続きを待った。
「遠くへ行くことは、ただ景色を見るだけではないのですね」
椿は、穏やかに笑う。
「知らない世界を知ること。知らない人の暮らしを知ること。そこから、自分の世界が広がっていくこと」
その声は、とても静かだった。
「きっと皆、それが嬉しかったのです」
私はしばらく何も言えなかった。
ただ春の風が気持ちよくて。
遠くの海が綺麗で。
ここまで登ってよかったな、と思った。
「……よし」
私は立ち上がる。
「じゃ、帰りにお土産うどん買って帰ろうか」
「あっ」
「ん?」
「私、下の茶屋で見た和三盆というものも気になります!甘いものなのでしょう!?甘味と書いてありました!!」
「甘い物の記憶力すごいな!?」
椿は、少しだけ照れたように笑った。
その笑顔を見ながら。
私は、また次の休みのことを少し考えていた。
帰りに和三盆の干菓子と金平糖と、母のリクエストのうどんを買った。
椿は早速干菓子を食べていて、感動していた姿がとてもかわいかった。
うーん、幽霊を餌付けってできるとは思ってなかったし、するとも思ってなかったけど、楽しいからいいか。
帰宅して、母にうどんと干菓子と金平糖を渡す。
椿の分は写真に撮りさえすればいいのだから楽だ。
なんかあれだな、写真に撮ったものがスマホの中の椿にとっては現物になるって、似たようなものが猫型ロボットの秘密道具の中にもあった気がする。
え、私の5年前に買ったスマホ、〇次元ポケット!?
それから数日は仕事をして、仕事終わりに椿を連れて図書館や地元のカフェに行ったりして過ごした。
椿はやっぱりコーヒーは苦手なようだった。
まあ、慣れて美味しいって感じるまでに時間かかるよね、コーヒーは。
私が好きな飲み物だと言うと、ミルクと砂糖を入れて頑張って飲んでいたのがとても可愛かった。
紅茶は気に入ったみたいで温かくても冷たくても良い香りのお茶、と言っていた。
それからチーズケーキがとても美味しいと気に入ったみたいで、カフェに行くたびにチーズケーキを私は注文することになった。いや、私も好きだからいいんだけど。
そして次の休みの日。
今日は倉敷の美観地区へ行こうと決めていた。たぶん、椿のいた時代に近い風景がある場所だろう。それに、あそこのパフェを椿に食べさせたかった。
「椿、今日は倉敷に行くよ」
「まあ、倉敷ですか」
「知ってるの?」
「ええ、行ったことはありませんが、幕府の直轄地だった場所であったことは知っています」
「直轄地……?」
「はい。直轄地とは、江戸の幕府が治める土地で、直轄地には決まった藩主様はおらず、江戸の幕府のお役人が直轄領のお代官様として、管理運営をしていらっしゃいました」
「へえ」
「私の旦那様になられた方は、江戸よりいらした倉敷のお代官様の三男坊でした。津田様のご紹介で婿になってくださいました。それでよく倉敷に旦那様はお仕事のために行かれてました」
「……椿、色々思い出した?」
私の問いに、少しだけ首をかしげて椿は答えた。
「そうですね。兄様のことを思い出して、椿さんに色々連れて行ってもらってから記憶のひもが緩んできているのが分かります。あの、私の旦那様の話を聞いていただけますか?」
「うん、聞かせて」
「はい。私の旦那様になられた方はとても穏やかで優しい方で、地方武士の娘に婿入りなどきっと本意ではなかったでしょうに、自分はここの空気が性に合っている、と言ってくださっていました」
「優しい人だったんだね」
「はい。旦那様がお仕事で倉敷へ行かれて、帰ってきたときに話してくださることを聴くのが私は大好きでした。倉敷は蔵も人も多く賑やかな街だと。賑やかすぎて自分には合わないからあまり行きたくないと、倉敷でお仕事をなさっているお義父様に聞かれたら雷を落とされそうなことをこっそり言っておりました」
懐かしげに微笑む椿の中には今きっと「旦那様」が一緒に笑っているのだろう。
「私は生涯を共にできた方が旦那様で良かったと思っております」
「いいね、いい惚気聞いたなぁ」
「の、惚気!?」
「うん、でもいい話だよ。で、旦那様の名前は?」
「……それが思い出せないのです……」
ああ、まだそこまでは無理なのか。
「でも思い出したいです」
「そうだね、思い出せたらいいね」
「家名を思い出せたら自分の名前も思い出せるかもしれません」
その時の椿の寂しそうな顔を見て、倉敷に連れて行けば、何か思い出せるかな、なんて私は考えていた。




