5 牛窓
深夜帯になると、長距離トラックが何台も並ぶ。
疲れた顔をしたドライバーのおじさんたち、お兄さんたちにとっては、夜中でも明るいこの店は、ある意味小さな休憩所みたいなものだった。
店の看板が見えてくる。
白い光。
見慣れた駐車場。
自動ドア。
「こちらが椿さんのお仕事場……」
スマホの中で、椿が緊張したように呟く。
「まあね。普通のコンビニ」
「こんびに……」
「なんでも売ってる店」
「未来は本当に何でもありますね……」
「そうだね。コンビニができてからは本当にさらに便利になったと思うよ、世の中は」
「そのような店があるのは素敵なことだと思います。誰でもいつでも訪れることができる店とはすばらしいです」
私は椿の感想に苦笑しながら入り口へ向かった。
「おはようございまーす」
「お、椿ちゃんおはよー」
先に入っていたパートの女性がレジから顔を上げる。
五十代くらいの、いつも飴をくれる人だ。
「今日は早いね」
「ちょっと昼寝しすぎて逆に目が冴えました」
「若いわねえ」
そんな他愛もない会話をしながらバックヤードへ入る。
制服に着替える。
青と白のコンビニ制服。
「まあ……!」
スマホの中で、椿が目を丸くした。
「それが椿さんの仕事着なのですね!」
「そう」
「椿さん、とても凛々しいです!」
「コンビニ制服にそんな感想ある?」
でも少し照れる。
レジへ出る。
深夜前の時間帯はそこそこ客が多い。
会社帰りのサラリーマン。
学生。
近所のおじいさん。
作業着姿の人。
ロッカーにも店の中の声が聞こえていたらしい。
休憩時間になり、おにぎりを入れたカバンとコーヒーを片手に車へ行くと、椿が感動したように話しかけて来た。
「皆様、こんな夜まで働いているのですね……」
「そうだね」
「未来の人々は働き者です」
「働かないと生きていけないからね」
「お父様もこうして働いて私たちの生活を支えてくださっていたのだな、と思うと、もっとたくさん感謝を伝えればよかったと思います」
「椿のお父さんって?」
「私が婿取りをし、しばらくして、病で身罷りました」
「椿が継いだの?」
「はい。中級武士とはいえお家断絶は断じてならぬとのお父様の上の方からのお言葉で、最初は養子を迎え私は嫁に出す、ということでしたが、お父様が私に婿取りをすることを望まれました。私は兄に顔立ちがよく似ていましたので、兄に似た私を手放すことが嫌だったのだと、のちにお母さまが教えてくださいました」
「……それもまた勝手な話ね」
「勝手ですか?私は嬉しかったのですが……」
「嬉しかったの?」
「はい。私も兄様が大好きでした。兄様が確かにいた証に私がなるのなら、それはとても嬉しいことだったのです」
「……」
なるほど。
これは価値観の問題だ。
椿にとって大事なものは家族の中に確かに兄がいた証拠が自分であることだった。
それもまた大事なことなのだろう。
今の世の中は「個」が主体だ。でも椿の生きた時代はそうじゃない。
「椿さん」
「何?」
「……ここへ来る人たちは、皆どこかへ向かっているのですね」
「え?」
「働く人。学ぶ人。帰る人。旅をする人。皆、夜でも動いている……」
私は一瞬だけ言葉を失った。
当たり前すぎて。
考えたこともなかった。
でも椿にとっては夜でも女が働き、自由に移動し、人々が好きな場所へ向かえる世界そのものが、驚きなんだ。
コーヒーが空になったので捨てようと車を出る。
店の中のごみ箱に飽きカップを捨てていると、入ってきたのは、作業着姿の年配の男性だった。
日焼けした顔。
少し曲がった背中。
手には軍手。
近所の顔見知りのおじいちゃんだった。
「あら高橋さん、今日は遅いですねえ」
「田んぼとブドウ棚の片付けしよったら遅うなってなあ」
聞きなれた、柔らかい訛り。
男性はお茶とおにぎりを持ってレジへ来た。
「椿ちゃん、最近顔色ええな」
「そうですか?」
「若いんじゃけえ、どっか出かけとるんじゃろ」
私は少しだけ笑う。
「まあ、ちょっと海を見にいくのが最近の趣味です」
「ええなあ」
高橋さんはそう言って代金を払い、ゆっくり店を出ていって、農機具を荷台に乗せた軽トラで帰っていった。
そのテールランプを見送りながら、よし、夜勤が明けたら牛窓へ行こうと決めた。
車に戻ると、椿に話しかける。
そろそろ休憩も終わりだ。
「ねえ、椿。仕事終わったら、今日は牛窓へ行こうか」
「うしまど……」
「そう。海がきれいだよ。天気もよさそうだし」
「牛窓村ですね。一度行ってみたかったのです」
「村……?」
「今では村とは呼ばないのですね。私の頃は牛窓村と呼ばれ、参勤交代の宿泊地や、外洋からの船などが寄港する港などとして栄えているとお父様から教えていただいたことがあります」
「へえ……」
それは知らなかった。
椿は、ただ未来に驚いているだけじゃない。
ちゃんと、この土地を見ている。
椿が知っている歴史の一端を知るだけで、私まで見え方が変わってきた気がする。
知らないことを知るのは楽しいのだと昔の私は知っていたはずなのに、いつの間にか手放していた欲だった。
この子に景色を見せることは。
たぶん、ただ観光するだけじゃない。
この土地で、人がどう生きてきたのかを一緒に辿ることなんだ。
椿は、静かに言った。
「椿さん」
「何?」
「私、少しわかった気がします。学ぶとは本を読むだけではないのですね」
その言葉に、私は少しだけ息を止めた。
コンビニの駐車場。
白い照明。
アイドリングするトラックの低いエンジン音。
夜なのに、世界はまだ動いている。
「……どういうこと?」
スマホの中で、椿はゆっくり外を見た。
「私は、学ぶとは文字を読むことだと思っておりました」
「うん」
「本を読み、教えを受け、筆を取ることが学びなのだと」
椿は、小さく笑う。
「ですが、海を見て」
「……」
「未来の町を見て」
「うん」
「働く人たちを見て」
トラックが一台、駐車場へ入ってくる。
深夜配送だろう。
ライトがアスファルトを白く照らした。
「皆が、それぞれに生きているのだと知りました」
椿の声は静かだった。
「学ぶとは、人を知ることでもあるのですね」
私は、その言葉をすぐには返せなかった。
だってそれはたぶん。
今の私より、椿のほうがちゃんと世界を見ている気がしたから。
コンビニで働いて。
疲れて。
寝て。
また働いて。
毎日が当たり前すぎて。
景色なんて、ずっと背景だった。
でも椿は違う。
電柱を見て驚いて。
夜に働く人を見て驚いて。
おにぎり一つにも感動している。
この世界をちゃんと見ている。
「……そっか」
私は小さく呟いた。
「じゃあ、牛窓行ったらもっと勉強できるかもね」
「はい!」
椿は嬉しそうに笑った。
「牛窓は、今でも港町なんだよ」
「港……」
「海が近くて、島も見えて。オリーブ園とかもあるし」
「おりーぶ……?」
「まあ行けば分かる」
春前の空は澄んでいて。
田舎だから夜空の星がきれいに見えた。
そういえば最近、こんなふうに夜空を見たことなんてあっただろうか。
「椿」
「はい」
「私もさ」
「?」
「何をしたいのか、ずっと分かんなかったんだよね」
ぽつりと口から零れた。
誰に言うでもなく。
ただ夜に落ちるみたいに。
「昔は、もっとちゃんと夢とかあったんだけど」
「夢……」
「でも途中で諦めて。気づいたら、なんとなく毎日働いてた」
コンビニの自動ドアが開く音。
レジの電子音。
誰かの笑い声。
いつもの夜。
でも今日は。
少しだけ違って見えた。
「けど、椿と話してると」
私は苦笑する。
「なんか、見るって大事なんだなって思う」
海。
町。
人。
暮らし。
ちゃんと見ること。
知ろうとすること。
それ自体が、たぶん学ぶってことなんだ。
椿は、少し驚いたように目を丸くしたあと。
ふわりと微笑んだ。
「では」
「うん?」
「私たちは今、一緒に学んでいるのですね」
その言葉が。
胸にすとんと落ちた。
私は思わず笑ってしまう。
「……そうかもね」
スマホの画面の中で。
椿は、春の夜みたいに柔らかく笑っていた。
夜勤明け、コンビニで朝ごはんとおやつを買って、私と椿はブルーラインを通って牛窓へ向かった。
ここからなら一番走りやすく牛窓まで行くなら近い道路だ。
片上大橋からは朝日と牡蠣筏が見えて、椿が「きれいです!」とはしゃいでいた。
椿のいた時代にも牡蠣はあったけど、養殖はなく、天然のものを採取していただけだと言う。
道の駅で一休みをしながら、朝の冷たい空気の中でトイレ休憩をして自販機で缶コーヒーを買い、朝ごはんに買ったサンドイッチを食べる。
「当時は藩主様から倹約令が出されていましたので、基本的に食事は一汁一菜でしたが、祭りのときだけは色々なものを一皿に乗せていました。その時に食べる魚が本当においしくて、子どもの頃は毎日が祭りならいいのに、などと思っていたものです」
「ああ、聞いたことある。それがバラ寿司のルーツだって」
「寿司飯はかなり酸っぱくないですか?」
「そう?」
「はい。私の知っている寿司はそういうものでした」
「あー、そっか。その頃にはまだ砂糖は貴重品だもんね……」
「塩と酢しか使っていませんでした。今では砂糖も使うのですか?」
「うん、そう。あー、椿にも今のごはん食べる方法ないかなぁ……。食は文化の進化が一番わかるし。あ、そうだ」
ダメもとだ、と思って私はコンビニで買ったチョコクッキーのパッケージを開けてそれを写真に撮る。
「椿、これ食べられる?」
「これは?」
「現代のお菓子。チョコクッキーって言うの」
おそるおそる椿がカメラロールの中のチョコクッキーに手を伸ばす。
「まあ!」
椿の手にチョコクッキーがあった。
「椿さん!これとても甘い良い香りがします!」
「でしょ?私、これ大好きなの。食べてみて」
「は、はい!」
まるでハムスターが噛り付くように少しだけチョコクッキーを食べた椿がぱぁっと顔を輝かせた。
「何ですかこれは!極楽で作った食べ物ですか!?」
「極楽じゃなくて工場」
これだけ喜んで食べてくれる幽霊がいたら、工場の人も嬉しいだろうなぁ。
「これが未来の食べ物……。すばらしいです……」
「ひと箱150円のチョコクッキーでそれだけ喜んでくれたら、もっと美味しいもの食べさせたくなるよ」
「もっと美味しいものがあるんですか!?」
「いっぱいあるよ。じゃあまずは牛窓に行ってカフェに入ろうか」
「かふぇ……?」
「椿の時代で言うなら、茶屋、かな」
「まあ未来の茶屋ですか!楽しみです!」
山を下りて牛窓の街に入り、海の方向へ車を走らせる。
通り道の牛窓神社を見て椿が「牛窓八幡宮はまだあるのですね」と嬉しそうに笑っていた。
「まあ……!」
天気のいい朝の牛窓の海は綺麗だ。
春先の海水浴場にはまだ人はいないけど、打ち寄せる波は四季を通じて変わらない。
「瀬戸内の海は本当に美しいですね……」
「この辺りは日本のエーゲ海って呼ばれてるらしいよ」
「えーげ、かい……?」
「ええっとね、エーゲ海って遠い海の向こうの国にそう呼ばれている綺麗な海があるの。そこと似てるから、そう呼ばれてるのよ」
「まあ、遠い異国にもこのように美しい風景があるのですね……」
私も久しぶりに来たけど、朝のドライブにはちょうどいい距離だなぁと思う。
「椿、まだカフェが開くには早い時間だから牛窓神社に寄っていく?」
「はい!」
海水浴場のすぐ隣にある階段を上がり、牛窓神社へ。
まだ朝早い神社には人影はなく、神社の南側には下から見るより広く遠い四国のほうまで海が広がっていた。
「まあ……島がいっぱいですね、椿さん!」
「そうだね。あっちの奥にある大きな島が小豆島。もうあそこは四国だよ」
「四国……。遠い海の向こうであることしか存じません」
「今は橋で行けるんだよ」
「橋!?え、四国まで橋がかかっているのですか!?」
「うん、もう30年以上前にできた大きな橋があるの。それを渡れば、車なら半刻くらいで四国に渡れるよ」
「まあ……!」
「ここからだとちょっと遠いから、仕事が休みの日に行ってみようか」
美味しいうどんも食べたいし。
「ぜひ!そのような巨大な橋など見たことがございませんので!」
「そうだね、じゃあ明後日の休みはそうしよう」
休みの日の予定が決まる。
それがとても嬉しかった。
午前10時になり、私は牛窓オリーブ園に向かった。
ここのコーヒーは美味しい。
でも椿にはいきなりコーヒーだと口に合わない可能性が高いから、別のもの頼もうかな……。チョコクッキーが美味しかったみたいだし甘いものがいいかな……。ケーキとアイスカフェラテとか……。
山を上がりオリーブ園に着くと観光客を乗せたバスが停まっていた。よし、休みじゃなさそう。
駐車場に車を停め、椿にここからの景色を見せる。
何度でも感動してくれるから嬉しくなる。
「椿さん、あちら側のあの並んでいるものは何ですか?」
北側に見えるのは干拓地帯に並べられたたくさんの太陽光パネルだ。ものすごく広い敷地に敷き詰められていて、まるで黒い海みたいに見える。
「あれは太陽の光を使って電気を作るための設備。椿のいるそのスマホを動かすのに必要なもの、って言ったら分かりやすいかな。あと、色んな所にある灯りをつけるのに必要なものを太陽の光で作るの」
「まあ太陽の光で……!」
「そう。昔は塩を作っていた場所だって聞いたことがあるよ」
「私たちの頃にもありました。そうですか、あの頃塩で人を支えていた場所が、今では別の形で人の暮らしを支えているのですね……」
オリーブ園の売店とカフェはまだ朝の柔らかな空気の中にあった。
観光バスから降りてきた人たちが、お土産コーナーを覗いたり、海を背景に写真を撮ったりしている。
「いい匂い……」
スマホの中で椿が小さく呟く。
オリーブオイルと、焼き菓子と、コーヒーの香り。
甘くて香ばしい空気が店の中に漂っていた。
「とりあえず席取ろうか」
窓際の席へ座る。
大きなガラス窓の向こうには、春の瀬戸内海が広がっていた。
「まあ……」
椿が息を呑む。
「海を見ながら茶を飲める場所なのですね……」
「そういう店、今は結構あるよ」
「なんという贅沢……」
メニュー表を開く。
ケーキセット。
オリーブのシフォンケーキ。
レモンケーキ。
チーズケーキ。
椿は文字を覗き込みながら目をぱちぱちさせていた。
「これは何と読むのですか……?知らない文字ばかりです」
「これはね。ケーキって読むの」
「けえき……?」
「そう、甘くておいしいよ。よし、レモンのシフォンケーキにしよう」
「しふぉん……?」
「ふわふわのケーキ」
「ふわふわ、ですか?」
「あとアイスティーにしようかな。紅茶を冷やした飲み物」
「お茶を……冷やすのですか!?」
「未来は冷たい飲み物いっぱいあるよ」
「未来すごいですね……」
本当にいちいち感動してくれる。
私は少し笑いながら注文を済ませた。
番号札を受け取り、席へ戻る。
窓の外では、陽の光を受けた海がきらきら光っていた。
島影が淡く霞んで見える。
「椿」
「はい」
「こういう景色、昔もあった?」
「はい。私が思い出した限りの記憶ですが、今ほど穏やかに海を見ることは少なかった気がします」
椿は静かに海を見つめる。
「海は、人を運ぶ道でした」
「……ああ」
「向こうから来る船もありましたし、誰かが旅立つ場所でもありました」
少しだけ寂しそうな声だった。
「当時は、遠くへ行くというのは、それだけで別れだったのです」
私は何も言えなかった。
今は違う。
車もある。
電車もある。
橋もある。
でも昔は、海の向こうは行けば2度と帰って来られないかもしれない、本当に遠い世界だったんだ。
「だからなのでしょうか」
椿が小さく笑う。
「私は今、こうして椿さんと一緒に自由に旅ができることが、とても嬉しいのです。あの石塀の上にいただけなら決して知らない景色ばかりです」
その時、番号を呼ばれた。
受け取り口へ行き、トレイを持って戻る。
「はい、お待たせ」
丸い皿の上には、白いクリームが添えられたシフォンケーキ。
氷の入ったアイスティー。
小さなミルクポーション。
それを写真に撮る。
「…………」
「どうしたの」
「あの……ここに氷が浮いております」
「あ、そこ?」
なるほど。
椿は恐る恐るグラスを覗き込む。
「入れ物はガラスですか?なんて美しい……。しかも氷が透き通っています……」
「溶ける前に飲みな。ささってるこの筒。ストローを加えて吸い込むの」
「は、はい……!」
おそるおそるストローへ口をつける。
次の瞬間。
「つめたっ!?」
思わず吹き出しそうになった。
「ご、ごめん。びっくりした?」
「お茶が冷たいです……!そして甘い香りがします……!」
「ああ、紅茶だからね」
椿は何度も瞬きをしながら、今度はシフォンケーキへ視線を向ける。
「これが、しふぉんけえき……」
「これはね、このフォークを使って食べるの」
私の真似をして、椿がフォークで少し切る。
すると、生地がふわりと沈んだ。
「やわらかい……!」
おそるおそる椿が口へ運ぶ。
しばらく止まって噛みしめていた。
それから。
「……雲を食べているみたいです。少し爽やかな香りもします」
「レモンのシフォンケーキだからね。美味しい?」
「美味しすぎて本当に幸せです……」
あまりにも真剣な感想で、私はとうとう吹き出してしまった。
「そんな美味しい?」
「はい……。こんなに柔らかい菓子、初めてです……。時々食べていた団子より甘くて柔らかい……」
窓の外では、瀬戸内海が春の光を反射していた。
海を越えて。
時代を越えて。
こうして同じ景色を見ながら、一緒に甘いものを食べている。
そんなことが、なんだか不思議で。
私にとっては見慣れた瀬戸内の景色が何だか鮮やかに塗り替えられていくような気がしていた。




