4 海と睡魔とコンビニと
「下まで降りてみようか」
「下りられるのですか?」
「うん」
階段を降りると、遊歩道があり、波打ち際まで行ける。
釣りをしているおじいさんがいて、平和な光景だ。
「海……。ああ、そうです、このような美しいものだったと思い出しました。時がどれほど過ぎても海は変わらないのですね……」
幽霊。
江戸時代の少女。
学びたかった子。
なのに今の椿は、ただ初めて遠出した普通の女の子みたいだった。
椿は打ち寄せる穏やかな波を見つめながら、小さく笑う。
「兄様にも、見せてあげたかったです」
潮の匂い。
波の音。
春前の柔らかい風。
「……椿さん」
「ん?」
「今の世には、本当におなごも学べるのですね」
「うん」
「文字も、本も」
「うん」
「好きな場所へ行けて」
「うん」
「海も見られる」
椿はゆっくり振り返った。
「未来とはやはり素晴らしいものだと私は思います」
その顔は。
もう石塀の上で寂しそうにしていた少女じゃなかった。
「……良い時代ですね」
私は少しだけ笑って画面の中の椿を見る。
「まあ、コンビニ夜勤はあるけどね」
椿はきょとんとしてから、くすりと笑った。
その笑い声は、春の海風に溶けるみたいに優しかった。
赤穂御崎からの帰り道。
椿はずっと静かだった。
スマホの待ち受け画面の中で、さっき撮った海の写真を何度も見返している。
時々、画面越しにこちらを見ては、少しだけ嬉しそうに笑う。
まるで遠足帰りの子供だ。
私は運転しながら、ふっと息を吐いた。
夜勤明け。
ほぼ徹夜。
幽霊騒ぎ。
海。
情報量が多すぎる。
カフェインはとっくに切れた。さすがに眠い。
「椿」
「はい?」
「私、一回帰って寝るから。今夜もバイトなの」
「ばいと、とは?」
「仕事」
「おなごが外で仕事をできる時代なのですね……」
「まあ非正規だけど」
「ひ……せいき……?」
その説明はあまりしたくないので沈黙した。
「とりあえず一回寝ないとさすがにつらい」
「まあ、そうですよね……」
椿が申し訳なさそうに眉を下げる。
「本来なら、もうお休みになっている時間でしたのに」
「いや、いいよ。私も楽しかったし」
本音だった。
疲れてはいる。
でも、不思議と嫌な疲れじゃなかった。
車は市内へ戻る。
見慣れた道。
ドラッグストア。
スーパー。
ホームセンター。
椿は相変わらず、窓の外を興味津々で見ていた。
「あれはなんでしょう?」
「ホームセンター」
「ほおむ……?」
「生活に必要なものをいっぱい売ってる店」
「鍬などもありますか?」
「ある。種も苗も」
「まあ!」
買える品物の基準が江戸時代。
私は思わず笑ってしまった。
実家へ着く。
築二十年ちょっとの、ごく普通の一軒家だ。
「ここが椿さんのお住まい……」
「そう。実家」
「じっか」
「父と母と一緒に住んでる家」
「まあ……」
椿が感心したように周囲を見る。
「とても立派です」
「そうかなあ」
普通だと思う。
でも江戸時代の感覚なら違うのかもしれない。
車を降り、玄関を開ける。
「ただいまー」
「おかえりー」
母の声。
キッチンから出汁の匂いがした。
「昼ごはん食べる?」
「あとで適当に食べるー」
「また夜勤前ギリギリまで寝るんでしょ」
「うん」
椿が、スマホの中からじっと家の中を見ていた。
「あの……」
「ん?」
「お母様、なのですね」
「そうだよ」
「不思議です……」
「何が?」
「椿さんが、ご家族と普通に話しているのが」
その言葉に、私は少しだけ足を止めた。
……ああ。
この子にとっては。
女が自由に働いて、車を運転して、家族と軽口を叩くこと自体が、もう未来なんだ。
自室へ戻る。
六畳の部屋。
ベッド。
小さな棚。
安いデスク。
デスクの横の本棚には、かつて私が目指した夢の名残がある。
嫌だけど、私は世間から見れば、所謂ことおばってやつだ。
「こちらが椿さんのお部屋……」
「狭いよ」
「そのようなことは!」
椿は目を輝かせていた。
「椿さんだけのお部屋なのですよね?」
「うん」
「素晴らしいです……」
私はバッグを床へ放り投げ、ベッドへ倒れ込む。
「あー……もう無理……」
本格的に眠気が限界だった。
そのまま目を閉じかけて。
ふと、スマホを見た。
待ち受け画面の中で、椿が少し不安そうにこちらを見ている。
「どうしたの?」
「あの……」
「うん」
「私、ここにいても良いのでしょうか」
小さな声だった。
私は数秒ぼんやりしてから、枕へ顔を埋める。
「今さら?」
「だ、だって」
「もう海まで一緒に行ったじゃん」
「ですが、ここは椿さんのお部屋で……」
「嫌なら連れて帰ってきてないよ。それに椿をここから出す方法が分からない」
そう言うと、椿は少し黙った。
それから。
本当に嬉しそうに笑う。
「……ありがとうございます」
私は薄く目を開ける。
スマホの中。
小さな椿が、ぺこりと頭を下げていた。
妙に可愛い。
「そうだ」
「はい?」
「暇なら適当にスマホ見てていいよ」
「すまほ……を?」
「触れる?」
椿はおそるおそる画面の中からアイコンに手を伸ばした。
すると、ぺしっとアイコンが押される。
「あ」
「お」
動画アプリが開いた。
次の瞬間。
『♪~』
「ひゃあっ!?」
椿が画面の中で飛び上がった。
可愛い。
私は吹き出す。
「び、びっくりしました……!」
「動画だよ」
「絵が動いております!」
「だから動画」
スマホの中では、猫の動画が流れていた。
椿は呆然としている。
「ねこ……」
「うん」
「この小さな箱の中に……」
「入ってるわけじゃないからね」
「未来は妖術が普通なのですか……?」
「これはこの時代の文明の一つです」
しばらくして。
椿はすっかり動画の操作を覚え、夢中になっていた。
猫。
料理。
観光。
柴犬。
おすすめ欄がカオスになっていく。
「椿」
「はい?」
「変なボタン押して課金とかしないでね」
「かきん……?」
「お金取られるやつ」
「触りません!」
「まあ動画に関しては無料だから見ていていいよ」
「は、はい!」
慌てる椿に笑いながら、私は布団を被った。
部屋の中は静かだった。
遠くで母が洗い物をしている音。
外を走る車。
スマホから小さく流れる動画の音。
眠気の向こうで、私はぼんやり考える。
今日一日で。
人生がだいぶおかしくなった気がする。
でも、不思議と悪くなかった。
「……椿」
「はい?」
「夕方になったら起こして」
「お任せください」
「絶対だからね……」
「はい!」
元気のいい返事を最後に聞いて、私はそのまま深い眠りへ落ちていった。
目が覚めた時、部屋は薄暗くなっていた。
カーテンの隙間から差し込む夕方の光が、床を橙色に染めている。
「……ん……」
私はぼんやりと天井を見上げた。
身体が重い。
夜勤明けに寝た時特有の、時間感覚が曖昧になる感じ。
今何時だっけ。
枕元のスマホを探ろうとして。
「椿さん!」
至近距離で声が響いた。
「うわっ!?」
私は飛び起きた。
スマホの画面いっぱいに、椿の顔が映っている。
ものすごく近い。
「夕方です!」
「近い近い近い!」
心臓に悪い。
私は胸を押さえながら息を吐いた。
「……何時?」
「これは何時なのですか?」
画面の椿にかかるように示されていたのは、午後5時半だった。
「うわ、結構寝たな……」
寝起きの頭でスマホを見る。
充電は残り30パーセント。
そして通知欄がえらいことになっていた。
「……え?」
動画アプリ。
検索履歴。
おすすめ欄。
猫。
犬。
料理。
城。
海。
江戸時代
文字の歴史
瀬戸内海
「椿」
「はい?」
「これ見たの?」
「はい!」
元気よく返事が来た。
「未来の知識の箱、あまりにも凄まじいです……!」
「知識の箱」
「この薄い板の中に、世のあらゆる話が入っております!」
「まあだいたい合ってる」
私は半分起き切ってない頭で検索履歴をスクロールした。
「“おなご 学ぶ”って何」
「おなごが学べる場を調べておりました!」
「熱心だな……」
椿は待ち受け画面の中で、少し照れたように笑った。
「それから、びいどろ細工も見ました」
「え?」
「未来のおなごは、耳に綺麗な飾りをつけるのですね」
私は思わず自分の耳に触れた。
今日つけているのは、古着屋で五百円で買った小さなガラスのピアスだ。
「ああ、これ?」
「とても綺麗です」
椿が、少し羨ましそうに見つめる。
「私の頃にも簪などはありましたが、このような硝子の細工はとても高価でした」
「今は安いのもいっぱいあるよ」
「まあ……」
椿は感心したように瞬きをした。
「未来とは、本当に豊かなのですね」
私はベッドから起き上がり、髪をかき上げる。
「豊か……かあ」
「違うのですか?」
「うーん」
少し考える。
「便利ではあるかな」
「便利」
「でも、みんな忙しいし、余裕ないし」
「……?」
「勉強できる自由はあるけど、何をしたいのか分からなくなる人も多いよ」
自分で言って、少しだけ胸に引っかかった。
何をしたいのか分からない。
それはたぶん。
私自身にも刺さる言葉だった。
高校卒業時、私にもささやかな夢はあった。でも諦めた。
バイトは夜勤は時給がいいから続けてる。
でも今では何をやりたいのか分からなくて、結局そのままだ。
椿は静かにこちらを見ていた。
「……学べるのに、迷うのですね」
「そう」
「不思議です」
「贅沢な悩みかもね」
私は立ち上がり、カーテンを開けた。
夕暮れ。
住宅街の向こうの空が、淡く茜色に染まっている。
「椿」
「はい」
「お腹空いた」
「まあ」
「適当に夜勤前ごはん食べる」
スマホを持ったまま、部屋を出て階段を降りる。
キッチンでは母が味噌汁を温めていた。
「起きた?」
「うん」
「今日は早いね」
「まあね」
母はちらっとこちらを見る。
「なんか機嫌いい?」
「え?」
「楽しそうな顔してる」
私は一瞬言葉に詰まった。
幽霊と海を見に行ってました、とは当然言えない。
「……ちょっと良い景色見たからかな」
「ふーん?」
母はそれ以上深く聞かなかった。
食卓につく。
焼き鮭。
味噌汁。
冷奴。
昨日の残りのきんぴら。
ごく普通の夕飯。
でも椿は、スマホの中から感動したように見ていた。
「なんて豪華なのでしょう……」
「普通だよ」
「お魚が毎日食べられるのですか?」
「まあ」
「白米も……?」
「うん」
椿は絶句していた。
「未来、強い……」
「その感想好きだな」
「何独り言言ってるの」
どうやら椿の声は母には聞こえないらしい。
母から見れば、私は独り言を言っているだけのようだ。
思わず笑う。
食後。
私は簡単な外出着へ着替える。
店に行けば制服に着替えるので、着替えやすい服で行くようにしている。
鏡の前で髪をまとめながら、ふとスマホを見る。
椿はじっとこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「……椿さんは、毎日このように働いているのですね」
「まあね」
「大変ではありませんか?」
「大変だよ」
私はスマホにモバイルバッテリーを繋いだ。
「でも生きるって、だいたい働くことだから」
「……」
「椿の時代だってそうでしょ?」
「はい。ですが、おなごが外で働くということはあまり……」
「今は普通」
私はスマホを少し考えてからデスクに置いた。
「それに」
「?」
「今は、働きながらでも学べる時代だから」
その言葉に。
椿が少しだけ目を見開く。
「……学びながら、生きる」
「うん」
「生きながら、学ぶ……」
椿は何かを考えるように、小さく繰り返した。
その顔を見ながら。
私はなんとなく思う。
もしかしたら。
これから椿にいろんな景色を見せていくうちに。
この子は「何を学びたいか」を見つけるのかもしれない。
そしてたぶん。
その旅は、私自身のためにもなる。……そんな気がする。
牛窓。
尾道。
瀬戸大橋。
瀬戸内には、まだ見せたい景色がたくさんある。
私は車のキーを手に取った。
「じゃ、仕事行ってくる」
「はい!」
「動画見ててもいいけど、バッテリーが切れないようにしてね。バッテリーがなくなったら、中にいる椿がどうなるか分からないから」
「ばってりー……とは?」
「ここにある数字分かる?」
「すみません、分かりません……」
「うーん、なら仕方ないか。モバイルバッテリー繋いだから、私が明日の朝帰るまでは大丈夫だと思う」
「あの……連れて行ってはいただけませんか?」
「行きたいの?」
「はい」
「……分かった。でも仕事中はスマホ持てないから、カバンの中だよ?」
「構いません」
私はスマホをカバンに入れて、それからいつものようにコンビニ夜勤のバイトへ向かう。
バイト先は、家から車で10分の国道沿いの東方面へ向かう青白のコンビニだ。
元々パチンコ屋の敷地だったらしく、駐車場は無駄に広いが、そのおかげで長距離のトラックドライバーの客が多く、街の中と違いコンビニが少ないこの辺りでは、近所のお年寄りにも大事な買い物場所となっていた。




