3 スマホに入っちゃった!?
「私の兄様は、とても優しかったのです」
椿は小さく笑った。
思い出を辿るその瞳は優しい。
「習った文字を、帰ってから土の上に書いて教えてくださいました」
指でなぞるような仕草。
「これは“山”これは“川”」
懐かしむような声だった。
「私は、それが嬉しくて……」
けれどその笑顔が、少しだけ曇る。
「でも、母は私が兄様に学問を教えられることを嫌がりました」
「……どうして?」
「おなごが文字を覚えても仕方がないと」
静かな声だった。
「女は家を守れば良い。学などいらぬ。文字を覚えるより裁縫を覚えろと」
風が吹く。
楷の木がざわめく。
まるで、その言葉に反応するみたいに。
「だから私は、石塀の上から見るだけでした」
講堂を見る。
「講堂の中へ入ることは、一度も許されませんでした」
その瞬間。
楷の木の下にいた女たちの影が、ゆらりと揺れた。
私はそこで気づく。
あれは誰か一人の未練じゃない。
ここへ来たかった。
学びたかった。
でも許されなかった。
そんな女たちの未練が、まとまってあの木に溜まっているのだ。
長い時間をかけて。
ずっと。
だから椿が講堂へ入ろうとすると拒まれる。
お前だけが入ることは許さないという数の暴力だ。
それは結界なんかじゃない。
女は学ぶな、という、昔の時代そのものの呪いだった。
それが椿をこの石塀の上に縛り付けている。
ぞくり、と背筋が冷えた。
風もないのに、楷の木だけがざわざわと鳴っている。
枝の隙間に立つ女たちの影。
その輪郭はぼやけているのに、感情だけが分かった。
羨望。
渇望。
そして、諦め。
何百年も積み重なった「学びたかった」が、木に染み込んでいる。
私は喉を鳴らした。
「……いやいやいや」
怖い。
普通に怖い。
でも隣で石塀にしがみついている椿を見ると、逃げる気にもなれなかった。
椿は楷の木を見つめたまま、小さく呟く。
「兄様は、講堂の話をたくさんしてくださいました」
その声は、遠い記憶を手繰るみたいにゆっくりだった。
「先生は厳しいけれど、とても面白い方なのだと」
椿の指先が、空中へ文字を書く。
「知るとは、己の視界を広げることなのだと」
風が吹く。
私は思わず講堂を見る。
磨かれた板間。
静かな木の匂い。
あそこには確かに、学ぶ場所の空気が残っていた。
「兄様は、いつか私にも本を読んでくださると約束してくださいました」
椿が微笑む。
「春になったら、庭の桜が咲いたら、読んでくださると」
そこで。
椿の言葉が止まった。
白い顔から、すっと表情が消える。
「……でも」
嫌な沈黙。
楷の木が、ざわりと鳴った。
「兄様は、庭の桜が咲くころ、病で亡くなりました」
私は息を呑む。
椿は静かに続ける。
「熱が下がらず、そのまま……」
講堂を見る瞳が揺れる。
「兄様の机も、本も、筆も、葬儀の後、全部片づけられてしまいました」
その声は不思議なくらい穏やかだった。
泣きすぎて、もう涙も残っていないみたいに。
「私は、それでも諦められませんでした」
石塀を撫でる。
「兄様が見たものを、私も見たかった」
楷の木の葉が大きく揺れる。
同時に、木の下の女たちの影が濃くなった。
『読みたい』
『学びたい』
『文字を知りたい』
声が頭の奥へ流れ込んでくる。
私は思わず耳を塞いだ。
「う、るさ……っ」
頭痛がする。
吐き気までしてきた。
でも椿は違った。
彼女はその声を聞きながら、悲しそうに眉を下げる。
「違うのです」
椿は木へ向かって言った。
「椿さんは関係ありません」
『返して』
『奪われた』
『許されなかった』
『学びを』
声が重なる。
楷の木の周囲の空気が、じわじわ歪む。
私はそこで気づいた。
この木に溜まっているのは怨念だけじゃない。
もっと静かなものだ。
諦めきれなかった願い。
それが長い時間をかけて積もって、歪んでしまった。
だから、椿を講堂へ入れない。
女が学ぶこと、への未練と諦めが、逆に椿を閉じ込めている。
まるで。
「どうせ無理だ」と言い続けるみたいに。
「……馬鹿みたい」
気づけば、私は呟いていた。
女たちの声が、一瞬止まる。
私は楷の木を睨み返した。
「学びたいって思っただけじゃん」
風が吹く。
「それの何が悪いの」
自分でも驚くくらい、腹が立っていた。
夜勤明けで眠いし。
幽霊は怖いし。
意味分かんないことだらけだし。
でも。
女だから駄目、だけは、なんか無性に腹が立つ。
「今だったらさ」
私は講堂を指差した。
「女でも大学行けるし、本も読めるし、勉強も好きなだけいくらでもできるし、やりたいことをやれるんだよ」
椿がこちらを見る。
「コンビニ夜勤しながら資格取る人だっているんだよ」
私自身は別に立派な人間じゃない。
大学も出てない。
夜勤バイトだし。
実家暮らしだし。
でも。
学びたいって思う自由くらい、今の時代にはある。
「何百年も前の女は学ぶな、なんて、私は知らないし関係ない」
その瞬間。
ばさり、と楷の木が大きく揺れた。
女たちの影が、こちらを振り向く。
ぞわりと空気が冷える。
でも今度は、少しだけ違った。
怒りじゃない。
戸惑い。
まるで、そんなことを言われたことがなかったみたいに。
椿が、ぽつりと呟く。
「……私も、今から学んでも良いのでしょうか?」
その声は。
何百年も、誰にも許されなかった子供みたいだった。
私はため息を吐く。
「だから、最初からそう言ってるでしょ。幽霊になるくらい学問に未練があったのなら、今から学ぶことが椿の未練を消すことになるんじゃないの?」
そして私は石塀へ手を置いた。
「椿。手、出して」
「え……?」
「いいから」
椿がおそるおそる手を伸ばす。
透けるみたいに白い指先。
私は、その手を掴んだ。
冷たい。
でも、触れられた。
次の瞬間。
ぱちっ!!
激しい音が弾ける。
「っ、ぅ……!」
全身に静電気みたいな衝撃が走った。
でも私は椿の手を離さなかった。
「椿!」
椿の身体が揺れる。
楷の木が激しくざわめく。
女たちの声が重なる。
『駄目だ』
『女は』
『入れない』
『学んではならない』
「うるさい!」
私は叫んだ。
「本人が学びたいって言ってんじゃん!」
その瞬間。
椿の足が、石塀の外へ一歩、下りた。
空気が震える。
楷の木の影が大きく揺れた。
女たちの輪郭が崩れる。
そして、大きく風が吹いて――。
椿は石塀の内側に立っていた。
「え……?」
芝生の上にある自分の体を確かめるように、椿が何度も地面を踏みしめる。
「……下りられました」
「良かったね。じゃあ、講堂行ってみる?」
私の声に、一瞬何かを考えた椿は首を横に振った。
「いいえ。今ではない気がします」
「え、じゃあどうする?」
「椿さんが知っている今の世の中を見てみたいです。それが私の学びである気がするのです」
「じゃあ、どこか行きたいところある?」
少し考えてから椿が呟いた。
「……海」
「海?」
「はい。海を見てみたいです。一度だけ見たことがあることを思い出しました。父に連れられて赤穂藩へ行ったときです」
「お隣だね」
「はい。赤穂藩からもここへ通う人たちがいるとのことで、その説明に向かう津田様のお供で父が行くことになり、母様と共に行きました。子どもの足では少々遠かったですが、初めて見る景色や海に夢中になったことを思い出しました。島が夕暮れの光に浮かんでいて、とても美しかった……」
「分かった。なら連れていく」
「え?でも遠いですよ?」
「車なら30分もかからない」
「さんじゅっぷん……とは?」
ああ、そこからか。
「ええと……。確か一刻って二時間くらいよね。一刻の半分の半分くらいかな」
「早馬でも無理ではないですか!」
「それが今の時代では普通なの。椿、ここにいたなら、ここに来る人たちが乗ってる車は見てたでしょ?」
「くるま……。あの硬そうな箱ですか?」
「そう。あれに乗っていくんだよ」
「私、乗れますでしょうか……」
「試してみよう。でもその前にこれを見て」
椿は、椿の目の前にさっき撮った写真をスクロールして見せた。
「まあ……これがしゃしん、ですか?なんて鮮やかな……。講堂の中はこのようになっているのですね……」
「そう。動画も撮れるけど、それはまた今度ね」
「どうが、というものもあるのですね……。本当に日ノ本の未来はこのように素晴らしいものに……」
「素晴らしいだけじゃないけどね……」
「そうなのですか?」
「まあ未来はいいことばかりじゃないわよ」
「でも今の世はおなごにも学ぶ場は開かれているのでしょう?」
「そうね。過去の人たちが頑張ってくれたおかげでね」
「……私たちの世の頃でもおなごが頑張ればもう少し開かれた世であったのでしょうか……」
「それは分からないけど……。さ、行きましょうか。こっち」
「はい」
私は駐車場へ向かう。
すると椿が後ろからついてきた。
……いや、浮いてる。
足音がしない。
でも本人は歩いてるつもりらしく、裾を少し持ち上げてちょこちょこ動いているのが妙に可愛かった。
「これが……くるま……」
駐車場に停めていた私の軽自動車の前まで来ると、まじまじと車を見ている。
「鎧のように固そうですね」
「まあ鉄だから」
「鉄の……箱……なのですか?」
椿は軽自動車を見て目を丸くした。
「これはね、この国の人が作った車なんだよ」
「すごいです……」
たぶん理解してない。
私は運転席へ座り、助手席を見る。
「とりあえず乗ってみて」
「失礼します」
椿は恐る恐るドアに触れた。
一瞬、指先が半分くらいすり抜ける。
「あっ」
「えっ」
椿がびっくりした顔で自分の手を見た。
「私、通れます」
「便利だね!?」
「ですが、座ろうとすると落ち着きません……」
「幽霊にも座り心地とかあるんだ……」
結局、椿は助手席になんとなく座ってる感じで落ち着いた。
シートに少し身体が沈んでるような、浮いてるような、不思議な状態だ。
「ねえ、椿」
「はい、何でしょう、椿さん」
「せっかくだから、初めて車に乗った記念に写真撮ろうか」
「え?」
「はい、こっち向いて」
助手席の椿に向かってスマホを向けて、パシャリと撮る。
と。
「え?」
椿の体がキラキラ光り消えた。
「え、待って?まさか成仏しちゃった……?」
「あの、椿さん……」
手元で椿の声がしてのぞき込むと、スマホの画面に困ったように座り込む椿の姿があった。
「あの……私は今どこに……?」
「スマホの待ち受け画面になってる」
「え!?」
「話はできるね。私のことは見える?」
「はい」
「じゃあ、このまま連れていく」
ここにいるならそれでいい。
「じゃあ行くよ。目指すのは赤穂御崎」
「あこう、みさき、ですか」
「そう海がきれいに見えるよ。今日は天気もいいしちょうどいい」
「は、はい!よろしくおねがいします!」
エンジンをかける。
ナビを開く。
海。
国道まで下りて東に少し行ってから市内方向へ下りるのが最短かな。
車は山道を下り、国道へ出た。
平日の午前中。
道は空いている。
窓の外を流れる景色を、椿は夢中で見ていた。
スマホの画面を外に向けてダッシュボードに立てかけているので見やすいだろう。
「馬より速いです!」
完全に初めて遊園地に来た子供である。
「そんな珍しい?」
「だって、景色が流れていきます!」
「車だからね」
「くるまがあれば、遠い江戸まででも駆けていけそうですね!」
「さすがにそれは遠すぎる。やってやれないことはないだろうけど」
信号で止まるたび、椿はきょろきょろ周囲を見る。
コンビニ。
ガソリンスタンド。
電柱。
全部が珍しいらしい。
「あの高い棒はなんです?」
「電柱」
「でんちゅう」
「あれで電気流してる」
「電気……?」
「雷みたいなやつ」
「雷を飼っているのですか!?」
「その表現はちょっと好き」
私は思わず笑ってしまった。
さっきまで幽霊集団に囲まれてたとは思えないくらい、空気が普通だった。
しばらく走り、国道から外れ、下っていき、街に出る。
「まあ……今の世はなんと面妖な建物が多いのでしょう……」
「これが今の普通の家だよ」
「そうなのですか?少々狭くありませんか?」
「そうでもないよ。中は割と広かったりするから」
「それは素晴らしいです」
それから山を登りカーブを抜け、赤穂御崎に着いた。
まだ桜は咲いてないけど、桜祭りの準備はできてるみたい。提灯がたくさん釣られていた。
大きな銅像と石碑の向こうまで行くと、スマホを海のほうに向けてみた。
「着いたよ」
スマホを胸の位置に持って、海が見える場所に立つ。
「まあ……!!」
海。
島。
波。
きらきら光る景色は穏やかで美しい。
瀬戸内海は綺麗だ。
「――あ……」
椿が、小さく息を呑む。
その声は。
泣きそうなくらい綺麗だった。
潮風が吹く。
海がきらきら光っている。




