2 入れなかった未練
「何度かここから下りようとしたこともあります」
「でも下りられなかった?」
「はい」
椿は石塀をそっと撫でた。
「下りようとすると、この上に押し戻されてしまって……」
「結界みたいな?」
「けっかい……?」
「あー……なんか、入っちゃ駄目ってやつ」
「なるほど」
椿は真面目な顔で頷いた。
いや納得するんだ。
私はチケットを見下ろした。
450円。
完全に無駄になった。
まあいいけど。
「じゃあ、私が入って、講堂の写真だけでも撮ってくるよ」
「しゃしん……?」
そこからか。
「絵を残せる道具、みたいなもの」
「まあ……!」
椿は感心したように目を丸くした。
スマホを見せると、椿は恐る恐る覗き込む。
「この薄い板に、そのような力が……?」
「文明ってすごいでしょ」
「ぶんめい……」
椿は小さく繰り返した。
たぶん半分も理解してない。
私は少し考えてから、石塀にもたれた。
「……どうする?」
「え?」
「講堂、見たいのは分かったけど。無理やり入ろうとして椿が痛い思いするのも嫌だし」
「あの……よければそのしゃしん、ですか?それでもいいから見てみたいです。ここからですと、外観しか分からないので……」
「分かった。じゃあちょっと中に入って写真撮ってくる」
「よろしいんですか?」
「まあこれが無駄になるよりはいいかなと」
チケットを見せると、椿が少し笑ってから頷く。
「ぜひ、お願いしたいです」
「分かった。じゃあちょっと行ってくる」
椿はしばらく黙っていた。
朝の風が吹く。
椿の髪だけが、ふわりと揺れる。
「……すみません」
「なんで謝るの」
「せっかく椿さんが連れて行ってくださろうとしたのに」
「いや、私は別に」
私は肩をすくめた。
「そもそも幽霊に結界があるなんて知らなかったし。地縛霊ってやつなのかな?」
「ゆうれい……じばくれい……?」
「私も良く知らないんだけど、その土地に縛られている幽霊のことを地縛霊って言うんだって」
「じばくれい……。私はここに縛られているということなのでしょうか……。だからここから下りることもできずに……」
椿はその言葉をまだ少し不思議そうに繰り返す。
自分が幽霊だという認識も、まだ曖昧なのかもしれない。
私はなんとなく空を見上げた。
春前の空はうすぼんやりと青くて、眠気でぼんやりした目に気持ちいい。
入場口でチケットを渡して中に入る。
広い芝生の敷地の奥に建つ講堂。
講堂の中には入れないけど、靴を脱いだら外側の廊下には入れるとのことなので、早速向かう。
ちらりと振り返ってみると、石塀の上から椿が心配そうにこちらを見ていた。
さて。
遠い昔、ここに遠足で来た時に、中に入ったことがあるのは覚えてるけど、その頃なんて芝生で食べるお弁当や友達と交換するおやつのほうが大事だったので、あまり中がどんなだったのかは覚えてなかった。
外側の廊下から中を見ると、綺麗に磨き上げられた広い板の間とケヤキの柱が見えた。
何枚か写真を撮ると、私は講堂のそばにある小さな建物に気づき近寄ってみた。「小斎」と書かれた説明文には、ここに見学に来た当時の藩主の休憩所と書かれていて、お風呂やトイレまであって、さすがお殿様、などと感心した。
小斎の縁側は、講堂より少しだけ空気が柔らかかった。
ここからだと講堂の中が良く見えるな……。
お殿様が見学に来た時は、さぞかし先生も生徒も緊張したことだろう。
磨かれた木の床。
低い天井。
静かな光。
私はスマホを構えながら、なんとなく深呼吸する。
こういう場所に来ると、時間の流れ方が違う気がする。
コンビニのバックヤードで聞く電子音とは、まるで別の世界だ。
案内板を読む。
池田光政が視察の際に休憩した建物。
風呂。
雪隠。
供の者の控えの間。
「……お殿様、ちゃんとトイレもお風呂も行くんだな」
当たり前なのに変な感想が口から出た。
歴史の偉い人って、なんか生活感ないから。
私は何枚か写真を撮る。
廊下。
柱。
天井。
講堂の中。
その途中だった。
不意に、耳の奥で声がした。
『――読みなさい』
「……え?」
思わず振り返る。
誰もいない。
観光客も、係員もいなかった。
静かな風だけが吹いている。
『学びなさい』
今度は、もっと近かった。
私は眉をひそめる。
寝不足だからだろうか。
夜勤明けで頭がおかしくなってる?
けれど次の瞬間。
視界が、ぶれた。
廊下。
柱。
講堂。
全部同じなのに、違った。
磨かれた板間には大勢の人が座っていた。
子供。
大人。
農民みたいな格好の人。
武士らしき人。
全員男の子だった。
紙を広げ、筆を持ち、誰もが前を向いている。
講義の声。
紙を擦る音。
墨の匂い。
私は思わず息を呑んだ。
「……なに、これ」
景色は一瞬で消えた。
元の静かな講堂に戻る。
私はしばらくその場で固まった。
いや待って。
今の何。
幻覚?
睡眠不足?
でも胸の奥だけが妙に熱かった。
まるで今ここにいた誰かの「学びたい」という気持ちが、まだ残っているみたいに。
私はゆっくりスマホを見下ろした。
さっき撮った写真の確認を開く。
講堂。
廊下。
柱。
普通だ。
講堂内の写真を拡大する。
その瞬間、画面が突然暗くなった。
「は?」
スマホが落ちたわけじゃない。
電源も入っている。
なのに画面だけが真っ黒だった。
そして黒い画面の中に。
文字が浮かび上がる。
『返シテ』
「っ!?」
私は反射的にスマホを取り落としかけた。
同時に、外で風が強く吹く。
ばたん、とどこかの扉が鳴った。
空気が変わる。
さっきまでの穏やかな静けさじゃない。
冷たい。
嫌な感じがする。
私は急いで外へ出た。
すると。
石塀の上にいた椿が、こちらを見ていた。
でも様子がおかしい。
「椿!?」
椿は石塀の上で苦しそうに胸元を押さえていた。
白い身体が、少し薄くなっている。
「つ、ばき!?」
私は駆け出す。
すると椿が、怯えた顔で講堂の方を見た。
「……来ます」
「え?」
「私を、閉じ込めた人たちが――」
次の瞬間。
ばきん、と音がした。
講堂の奥。
二本並んだ楷の木の枝が大きくしなる。
その枝の隙間に、何かが見えた。
白。
いや、灰色。
色のない人影がたくさん。
着物姿の女たちがそこに並んでいた。
もう陽が高いのに、木の影だけまるで夜のように濃紺の闇色だった。
「っ……」
私は息を呑む。
木の影に、何人もいた。
若い女たち。
少女たち。
髪を結い、古い着物を着た姿。
けれど顔がぼやけて見えない。
ただ全員、じっと講堂を見ていた。
ぞわり、と肌が粟立つ。
その視線だけで分かった。
――あれは椿と同じだ。
講堂へ入りたい。
学びたい。
その感情だけが、何百年もそこに残っている。
『返シテ』
耳の奥で声が重なる。
『返して』
『返して』
『学びを』
『文字を』
『読むことを』
『私たちに返して』
「……っ」
頭が痛い。
私は思わず耳を押さえた。
椿が苦しそうに石塀へしがみつく。
「違うのです……!」
風の中で、椿が叫んだ。
「椿さんは違います! この方は関係ありません!」
その瞬間。
風が、ぴたりと止んだ。
静寂。
楷の木だけがざわざわと鳴っている。
そして女たちの影が、一斉にこちらを見た。
「ひっ」
今度こそ変な声が出た。
怖い。
普通に怖い。
椿ひとりの時は「なんか可愛い幽霊だな」で済んでたのに、集団になると一気に駄目だ。
ホラー映画じゃん。
私は反射的にスマホを握り締めた。
その時だった。
隣で、椿が小さく呟く。
「……楷の木」
「え?」
椿は苦しそうに額を押さえていた。
「この木は私が生きていたころにはなかったものですが、この木が私の、いえ私たちの憧れの象徴であったことは分かっていたことを思い出しました」
「そうなの?」
「はい。私は気が付いたらここにいた身ですが、あの木がまだ小さな苗木だったころから見ていて、あれが学問の木であることをここに来る人たちの話から知り、この学び舎に相応しい木が育っていくのを見ているのが好きでした。そしてこの木は、この地に残っていたおなごたちの未練や恨みを優しく包んでくれていたのです」
「え、優しい……?あそこにいる人たち、めっちゃ怖いんだけど!?」
「優しいです。だってあそこからは未練を出さないようにしていますから」
なるほど、あの木が女たちの恨みを外に出さないようにしてるってことか。
ああ、なら納得だわ。
「だから椿はあっちにはいなかったのね……」
「え?」
「だって椿はなにも恨んでないもの。ただ学びたかっただけ。ここに憧れていただけ。学べなかった悲しみはあるけど、あなたはそれで家族や他の誰かを恨んだわけじゃないでしょ?」
「……」
「だから生前、自分がいたこの石塀の上にいたのよ」
「ああ……。そうです、思い出しました……」
「何か思い出したの?」
「はい」
椿が頷く。
「ここに私はなぜ来ていたのか、今思い出しました」
「どうしてなの?」
「私には3つ上の兄様がいました。兄様は、この学び舎へ通っておりました」
その声は、どこか遠かった。
「毎朝、ここまで兄様を送りました。時々ですが、中へ昼食を届けに行ったこともあります」
石塀へ触れる。
「私は、この外からあの講堂をしょっちゅう見ておりました。この石塀に上っているのを見つかってはよく怒られたものです」
椿の瞳が揺れる。
「兄様が文字を覚えていくのが羨ましかった。私は岡山藩の武士の家に生まれて兄様がここに通うことになった時、私も通いたいとお願いしましたが、おなごに学は必要ないと突っぱねられましたが、諦めきれず、兄様をここに送ったり届け物をすることでここにいつかは入れたら、と思っていました」
「……」
「おなごは良き家へ嫁ぎ、主のためになるように旦那様となる方を支え、家を守る。それが私の生きた時代の武士の家のおなごに許された正しい生き方でした」
「……」
「何よりここは開かれた学び舎ではありましたが、実質的には庶民も含めて家を継ぐ男子中心が学ぶ場所で、それ以下の者たちには遠く高き門だったのです」
「……昔はここに女子高もあったって聞いたけど、それは本当に近代の話なんだね」
「じょしこう、とは?」
「女子だけが学べる学校のことだよ」
「まあ!そのような学び舎が今はあるのですね!なんてすばらしい……。私もこの時代に生まれたかった……」
少しずつ。
断片的に。
記憶が戻ってきているのだろう。




