1 ある早春の朝、幽霊の女の子に出会いました
※本作は「第1回 じゆうに文庫小説大賞(せとうち作品部門)」の応募作品です。
幽霊の女の子と出会った、現代のフリーター女子の友情ロードムービーです。
今日は5話まで、16時から一時間ごとに投稿します。
午前6時40分。
私は狭いバックヤードのロッカールームで制服を脱ぎ、私服に着替えた。
今夜も頑張った、私えらい。
夜勤勤務のコンビニほど、人間の生活の端っこを見せてくる場所はないと思う。
酔っ払いがこぼしたカップ麺の汁を片付け、公共料金の支払いに苛立つ中年男に頭を下げ、深夜テンションの高校生たちにポテチの場所を聞かれ続けた八時間。
店のライトの白さで目の奥が痛い。
店でいつものようにホットコーヒーを一杯買った私は、小さく息を吐いた。
「お疲れ様です、石井さん」
声をかけてくれたのは、朝からの勤務の大学生のバイトくんだ。……名前、何だっけ?
「お疲れ様です」
挨拶をして、私は店を出る。
3月始めの明け方はまだかなり肌寒く薄暗い。
暦の上では春のはずなんだけどな。
車に乗り込むと、さっき帰り際に買った店のホットコーヒーを車のドリンクホルダーに入れる。
まだ温かいコーヒーは私の朝の癒しだ。
エンジンをかけ、私は国道を東へ走らせた。
家に帰る前に、どうしても寄りたい場所がある。
誰に言っても理解されないけれど、これは仕事終わりの私のルーティーンなのだ。
夜勤明けの頭のまま、静かな場所へ行きたくなる。
コンビニの白い光に長時間さらされたあとでは、なおさら。
車窓の向こうで、空が少しずつ薄青く変わっていく。
山の稜線が浮かび始める頃、見慣れた石塀が現れた。
旧閑谷学校。
何百年も前から、ここにある場所。
観光シーズンでもない平日の早朝に人影はなく、駐車場には私の軽自動車しか停まっていなかった。
ここは講堂のほうへは入場料を払わないと入れないけど、その手前の鯉の泳ぐ広場までは何時だろうと入れるのだ。元々、そんなに人気のある観光地でもないから、私は夜勤明けの自分を癒すためにここに来るのが日課になっていた。
エンジンを切る。
鳥の声が聞こえる。
朝の空気がひんやりしていて気持ちいい。
私はここの芝生の上に500円で買った小さな折り畳みイスを広げる。
こうやってここで朝ぼんやりコーヒーを飲むのが仕事終わりの癒しのひと時なのだ。
今日もここは静かだった。
コンビニの機械音も、客の声も、全部遠い世界みたいに思えるくらい。
私はコーヒーカップを片手に石塀へ近づく。
夜露を吸った石は、朝の空気の中で黒く湿って見えた。
少し触ると冷たくてざらりとしていてその感触がとても心地よい。
昔からこの石塀が好きだった。
大きさも形も揃っていない石たちが、長い時間をかけて人の手で積み上げられている。
表面は綺麗に磨かれたように真っすぐで、曲線も滑らかで綺麗だ。
でも触るとざらりとしていて、それがいい。
私みたいに中途半端な人間とは違って、ちゃんとここに残っている存在感がとてもきれいだと思ってしまう。
この石塀に苔はあるのに草一本も生えないのが不思議で仕方ない。何か理由があるんだろうか。
塀の向こうの講堂は、いつだったか国宝になったらしい。
ただの大きな木造建築なのに「国宝」と書かれた看板があるだけで、急に特別なものに見えるから不思議だ。
そんなことを考えながら顔を上げた、その時だった。
石塀の上に、人が座っていた。
――え?
一瞬、心臓が止まりかけた。
白い着物姿の少女だった。
長い黒髪。
細い肩。
十代後半くらいだろうか。
こんな時間に、こんな場所で。
しかも石塀の上に座ったまま、少女は講堂の方をじっと見つめている。
まるで、そこへ行きたくて仕方ないみたいに。
「……そんなとこ座ってたら危ないよ」
思わず声が出た。
少女がゆっくり振り向く。
朝靄の中で、その顔だけが妙に白かった。
顔立ちの整った綺麗な子だった。
けれど同時に、妙な違和感がある。
服が古い。
というより、時代劇みたいだった。
少女は私を見ると、少し困ったように笑った。
「私が見えるのですか……?」
「え?」
「ああ、もうずっとここにいましたが、私に話しかけてくださったのはあなたが初めてです」
「……」
「……今日こそ、中へ入れると思ったのですが、やはり無理なようです」
「え?」
「ここから先は、どうしても入れていただけないのです」
少女の細い指が、石塀の向こうを示す。
その声は静かで、不思議なくらい寂しそうだった。
「……450円払ったら入れるよ?」
少女はきょとんと目を瞬かせる。
「よんひゃく、ごじゅう……?」
「あ、いや、ごめん。今の入場料」
「にゅうじょう……りょう……」
理解できない言葉だったのか、少女は小さく首を傾げた。
近くで見ると、本当に綺麗な子だった。
肌は朝靄みたいに白くて、黒髪は艶があるのに、全体的にどこか薄い。
向こうの木々が、少し透けて見える気がした。
……いや、それは気のせいだと思いたい。
「……あのさ」
私は恐る恐る聞いた。
「君、誰?」
少女は少しだけ困った顔をした。
それから申し訳なさそうに眉を下げる。
「分からないのです」
「え?」
「自分の名前も、いつからここにいるのかも」
少女は石塀の上に座ったまま、講堂の方を見る。
「ただ、ずっとここへ入りたかったことだけは覚えております」
風が吹いた。
三月の冷たい朝の風。
少女の髪が揺れる。
なのに石塀の上の落ち葉は、ほとんど動かなかった。
ぞわり、と背中に鳥肌が立つ。
……いやいやいや。
待って。
これは駄目なやつでは?
というか、普通に考えてやっぱりこの子幽霊では?
私は思わず一歩後ずさった。
少女がハッとした顔をする。
「も、申し訳ありません」
「え?」
「……やはり怖がらせてしまいましたよね」
しゅん、と肩を落とす姿は、幽霊というより叱られた子供みたいだった。
なんだこれ。
怖いより先に、気まずい。
ていうか可愛い。
「いや……その……」
私は頭を掻いた。
「いきなり早朝の閑谷学校の石塀の上に着物の女の子いたら、そりゃびっくりはするよ」
「……ですよね」
「でも、なんかその……君、悪い幽霊ではなさそうだし」
「悪い幽霊」
少女はその言葉を小さく繰り返した。
それから少し考え込むように俯く。
「私は、悪いことをしたのでしょうか。だからここにずっと……」
「いや、そういう意味じゃなくて」
慌てて否定する。
なんだろう。
この子と話していると、調子が狂う。
もっとこう、幽霊って怨念とか呪いとか、そういう感じじゃないのだろうか。
ほら、井戸から出てくる髪の長いアレとか。
奇声を挙げながら階段を這い下りてくる理不尽極まりないアレとか。
でも目の前の少女から感じるのは、怒りとか怨念じゃない。
ひたすら静かな未練だった。
「……ねえ」
私は石塀を見上げた。
「そんなにここに入りたいの?」
少女は、少し驚いたように目を丸くした。
それから、講堂の方を見つめる。
「はい」
返事はすぐだった。
「ずっと、ここで学んでみたかったのです。それだけは強く覚えています」
閑谷学校は、江戸時代に藩主だった池田光政によって建立された、日本で、いや世界で初めての庶民のための学び舎だった、と入口の看板に書かれている。
ではこの子はその時代の幽霊ということなんだろうか。
とりあえず、名前がないと不便だな……。
「あのさ」
「はい」
「名前覚えてないんでしょ?」
「……はい」
「じゃあ、私が仮の名前つけてもいい?」
「仮の名……ですか」
「そう。名前分からないと呼べないじゃん」
「……私を呼んでくださるのですか?」
「幽霊って未練があるからこの世に留まるんでしょ?こうやって知り合った以上、あなたの未練を解消するお手伝いをするのもありだなって」
「……ありがとうございます。あの、あなたのお名前は?」
「石井。石井椿」
「つばき……」
「じゃあ、仮の名前だけど」
私は石塀の向こうを見る。
椿山の木々は、まだ春前の色をしていた。
「椿、ってどう?」
少女は目を瞬かせた。
「つばき……」
「私と同じ名前だけど」
「……」
「嫌なら別の考える」
少女はしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ嬉しそうに笑う。
「……好きな名前です」
「じゃあ、椿で」
「はい!」
こうして、3月のまだ肌寒い早朝の旧閑谷学校の、朝靄の残る石塀の上と下で私は幽霊の少女と友達になったのだった。
「じゃあ、せっかくだし」
私は講堂の方を指差した。
「中、行ってみる?」
椿は目を丸くした。
「よろしいのですか?」
「開館時間になったらチケット買ってくるよ」
開館時間を調べたら朝9時となっていた。まだ二時間近くあるな……。
一旦家に帰って着替えてくるか。
「私、一旦家に帰って着替えてくるね」
「分かりました。あの、私はどこでお待ちしていれば」
「椿は他の人間からは見えない?」
「はい、おそらく。椿さんが初めてです、声をかけてくださったの」
嬉しそうにはにかんで笑う椿はまるで桜の花のようだった。
「じゃあここにいて。正直ここはそう人気のある観光地じゃないから、営業時間になったら観光客が押し寄せる、なんてこともないし、まだ桜が咲く前だから花見客も来ないだろうし」
「そうですね。ここはいつも静謐な風があって騒がしくないのがいいです」
「同感。だから私も朝に来てこうやって一人でコーヒーを飲む時間が好きなの」
「あの、では……私は椿さんのその大事な時間をお邪魔してしまったのでは……?すみません」
「邪魔じゃないよ。こんな不思議な出来事に出会えるなんて、夜勤明けにここに来てて良かったって思うし」
正直少しワクワクしてる。バイトと家の往復だけだった毎日に、予想もしていなかった非日常がやってきたのだから。
それから一度家に帰って朝ごはんを食べて着替えてからいつもならベッドにもぐりこむところをもう一度車に乗る。
市内の実家暮らしだから、バイトでも少しは貯金もできるくらいにはどうにかなっている。
「椿、どこ行くの?」
「うん、ちょっと友達と約束」
「こんな朝早く?」
「まあね。よし、昼ごはんはいらない。そのままバイト行くよ」
「まあ寝ないで行くの?」
「ヤバかったら、車の中で仮眠でもする。行ってきます」
時刻は8時半。
家からだとあそこまで車で15分くらいだから、少し遠回りして、和気側から山越えをして、信号のないドライブコースを楽しむことにして、途中のコンビニで昼ごはん代わりのサンドイッチを買い、私は再び閑谷学校へ向かった。
明りがまばらなちょっと長めのトンネルを抜けてすぐが目的の場所だ。
いつも思うけど、もうちょっとここのトンネルの灯りを増やしてほしい。
天気が良い観光日和ではあるけど、やっぱりここは観光客が朝から押し掛けるような場所じゃない。
駐車場には係の人の車が停まっているだけで静かだ。
私は石塀のほうを見た。
そこに椿はいた。
私を見つけたのか一生懸命手を振ってる。うん、可愛い。
私は思わず小さく笑ってしまった。
車を降りると、椿は石塀の上から嬉しそうにこちらを覗き込んできた。
「おかえりなさいませ、椿さん!」
「ただいま」
自然にそんな会話をしてしまってから、いや待て私は何を言ってるんだ、と少しだけ我に返る。
幽霊相手に「ただいま」はおかしい。
でも椿は嬉しそうだから、まあいいか。
「はい、これ」
私はさっき受付で買った入場券をひらひら見せた。
「これで中入れるから」
「ありがとうございます……!」
椿は本当に嬉しそうだった。
その顔を見ていると、こっちまでちょっと嬉しくなる。
「じゃ、行こっか」
「はい!」
石塀の上から、椿が軽やかに降りようとした。
その瞬間だった。
――ぱちっ。
乾いた静電気みたいな音がした。
「きゃ……!」
椿の身体が弾かれたみたいに後ろへ揺れる。
「え?」
私は思わず駆け寄った。
椿は驚いた顔のまま、自分の手を見つめている。
石塀の外側へ下ろそうとした足は、見えない壁に阻まれたみたいに止まっていた。
「大丈夫!?」
「……は、はい」
でも声が少し震えている。
椿は恐る恐る、もう一度石塀から降りようとした。
ぱちっ。
また同じ音。
今度はもっとはっきり見えた。
石塀の境目あたりで、空気が一瞬だけ揺らいだのだ。
「うわ」
思わず変な声が出る。
椿はしゅんと肩を落とした。
「……やはり、駄目みたいです」
「ええ……」
私は石塀を見上げる。
別に何もない。
普通の石の壁だ。
でも椿だけはここから下りられない。




